第2話:虐待の発生 ②
今は“虐待”と“しつけ“の境界線が難しいだけでなく、一方の価値観では”虐待“と認識していたとしても一方の価値観では”しつけ“であり”家庭教育の一環という認識齟齬が出来てしまい、お互いにそれぞれが持っている価値観をどのように理解し、どのように認識を持っていくのかを考えていく事も必要になることがある。
しかしながら、現在の社会において、認識齟齬は日常的に発生することを想定しながら行動していかなくてはいけないのだが、多くの場合は自分の価値観が正しいかの認識が出来てしまうことで、相手の価値観よりも自分の価値観が先行する形で物事の解釈が進んでしまうことで、相手が異なる考え方をしていることに対して“何でこういうことになっているのか?”や“なぜ、このような考え方を持っているのか?”など個人が育ってきた環境と社会的関係性における個別認識の異なりにつながり、自分が知らない事、自分が体験・経験したことがない場合にどのように本人に対して周囲が認識しているのか、関わりを重ねていく中でどのような印象を持っているのかなど双方が双方に対して持っているイメージが相手に正しく伝わっていくことも大事だと思う。
例えば、子どもたちが育った環境も、現在の家庭状況の違う子どもたちが見ている光景と自分が見ている光景は前提条件からも分かるように“個別認識差”や“状況理解”が通常よりも顕著に表れるため、これらの問題が起きた場合にトラブルに発展する前に仲介を行うか、他者理解を進める授業やカリキュラムを子どもたちに学習させる事が望ましいと思うが、実際に習う内容と実際に自分が両親から、親戚から、第三者からなど個人が虐待やいじめを受けた体験・経験と照らし合わせることでこれらの矛盾が浮き彫りになってくることで“大人はこういうことが認められているのに、子どもはこれらの権利が認められていないのではないか?”という疑念や“習った内容は綺麗事にしか感じない”という自己嫌悪のような状態になる事やその行為をしてきた人に対して自分と同じ事をされた時にどう感じるかという1つの多角的価値観を問うことによりトラブルを軽減させる、最悪の事態を回避することや価値観の違いによるパワーバランスの崩壊を誘発するが、このような考え方がトラブルの1種になりかねない部分も多い。
一例として、ある家庭では“100点以外は0点と同じ”という考え方をしている、ある家庭では“評定平均が4.5もしくは9.0以上でないと自分の息子、娘として認めない”のように親の価値観や教育観が子どもの進路や学力などに干渉することで子どもの基本的価値観にマイナスの影響を与える環境に長期間置かれることで自分の正しい方向性を決定するために必要な判断能力が十分に発達せず、正しい判断をすること、自らの意思で判断し、その判断に対して両親などと協議する機会を与えられるか、親の価値観と子の価値観をいかに共有し、双方で知識を出し合いながら目標に向かって進ませるか、支援出来るかが求められる。
しかし、これらの問題は未だに日本において顕著な問題として残っており、この家庭間の価値観の違いが学校等の教育課程や集団生活における“成績至上主義”や“結果至上主義”につながり、子どもたちの価値観のズレがいじめや差別などにつながるなど子どもたちの人間関係構築におけるプロセスにおいて深刻な価値観の二極化を生む可能性があるため、この部分でいかに相互理解を進めるか、相手の価値観や成績による差別やレッテル、個別イメージの毀損が発生する因子をいかに減らすかなど各フェーズにおいてきちんとした連携協議や個別判断可能な社会形成を進めていかなくてはいけない。
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