第47話 オーケストラを観に行こう
──まだちゃんと言葉に出来ないから。
30度を超えた八月。冬弥と灯織は柄にもなく、市内のホールでオーケストラを観賞した。とても高校生男女が休日に選ぶような行き先では無いが、本人たちはそこそこ楽しみにしている節があった。
──オーケストラは、全くわからない。
けれども何かを変えてくれそうな、そんな可能性に期待した。
取り留めのない会話を続けていたら、開演はあっという間に訪れた。始まる前の緊張感は何処へやら、音の粒が頬を突き刺す。ぶわっと広がった景色、高揚感。演者に近い目線で、かつ正面の良い席であったからか、何かの音が悪目立ちしているとか、そんなこともなかった。どの楽器がこういう働きを、なんて大層なことは二人にはフワッとしか分からなかったが、たしかに胸の高鳴りがあった。ストーリー性があった。冗長でもない。
曲間にふと、冬弥は灯織の横顔を見た。いつも見ているはずの美貌だ。しかし、どこか違って見えた。何故だろう。心が震えている気がする。スネアを聴きすぎたせいか。こうして、帰り道も思うわけだ。灯織のことを。
「────」
いつものように軽口を叩けたら良かった。しかし、バスに揺られたあと、停留所から家に帰る途中も、二人は言葉少なだった。あの演奏を表現するには、語彙力が足りなかった。ふさわしい言葉があまり見つからなかったのだ。
「……」
夕方の風は、だんだんと冷気を帯びてくる。冬弥は日が落ちるのが近づくにつれ、なんだか安堵した。札幌の好きなところだ。
「オーケストラ」
灯織は不意にそう呟くと、冬弥の顔を覗いた。
「凄かったね」
「あー、うん……そうだな」
言うまでもないと思っていたから、それを改めて口にすると陳腐に感じられた。しかし、灯織は気にもとめない。
「伝わらなきゃ意味ないけど、伝わったら宝物になるね。」
「ええと……オーケストラの話だよな?」
「冬弥、頭が悪い」
「急に分かりきったこと言うな! 亀に『お前ってほんとに亀だよな』って言わないだろ」
「そこまで既成事実だったの。人類の共通認識だね」
「頭が悪いなりに、詰め込める容量もあるはずだぜ」
「ないでしょ」
「おい」
冬弥と灯織はいつもの調子に戻ってきた。ひとたび会話を交わせば、すぐに穏やかな雰囲気になる。
「オーケストラを観に行こう……なんて、これから人生で言う機会があるのかな」
「あるんじゃないか。灯織がさっきの演奏を気に入ってさえいれば」
「じゃあ、ある。正直ガッカリする準備もしてたんだけど……想像以上だったから」
肌がぶわっとする感じ、と言って灯織は口元を緩めた。
「学校祭のライブも鳥肌が立ったけど、今回は少し違った感動だったな。思考する隙間があったって言うか。色々考えることも出来たな」
「どうせ『あの演奏者は頭が禿げている。若い頃にヤンチャしていたのだろうが、なんと切ないことだ』とか思ってたんでしょ」
「思ってないよ! あとハゲはもうしょうがない! 遺伝だしな!」
まぁ、色々だよ──冬弥は濁した。電線に止まっているカラスが飛び立つのを見て、今日も一日が足早に過ぎ去ってしまうのだと、少し切なくなる。
「本当はこれ、灯織に言うべきか迷っていたんだが……」
「?」
冬弥は突然切り出した。見慣れた道に差し掛かったところで、前を向いたまま呟く。
「俺、東京に戻るかもしれない」
「──────えっ?」
一瞬、世界から音が消え去った。
休符。曲が終わる寸前。
「どういうこと。」
「ええと、それはだな……」
「やだ!!」
冬弥が弁明しようと口を開くが、灯織が少し大きな声で制した。
「灯織……」
「責任取ってって、言ったでしょ。いなくなるなんて、絶対に許さない。義理堅いのが冬弥の唯一の長所なのに」
精一杯、反抗する。今の生活から、冬弥が居なくなるなんて考えられなかった。
今の自分がいるのは、間違いなく冬弥がいるお陰だからだ。好きなものを認めてくれた。自分が勇気を出すきっかけもくれた。そんな大切な人を失うことは──何よりも怖かった。
「おいおい、そんな悲しい顔をするな。お父さんが帰ってくるって話は、灯織も聞いただろ?」
「う、うん。すぐにまた外国に戻るって聞いたけど……」
灯織は曖昧にそう返した。
「そうか。実はお父さんから昨日、電話があってな」
──水澄冬弥くん。ちょっといいかな。
自分を地獄から救ってくれた人の声を聞いた時、安心と緊張が同時に迫り来るのを感じた。電話は全てを失って借金を背負わされたあの日以来なのだ。この着信はすなわち、絶対に何かある報せであると決まっていた。
──花火大会の日、水澄くんの近い将来について話させてもらおうと思っている。
──ナギから話は聞いたよ。すごくいい仕事ぶりであるとね。そのお陰か分からないが、店の売上も好調だ。君には感謝している。
──しかし、永遠というものは世の中に存在しない。いつか君も、ここを旅立つ時がくる。
「ニュアンス的に、すぐには俺をどうにかこうにかするつもりは無いみたいだけどな……花火大会の日に教えてくれるらしい。悪い知らせじゃない事を祈ってるよ」
「……まだ帰るって決まったわけじゃないんだ」
「帰るつっても帰る場所がないしな。もし両親がふらっと顔を見せたとしても、俺は心底見下してやるぜ。俺にとっちゃ家族はもう若宮家なんだからな」
冬弥は冗談めかしてそう言ったのだが、その言葉を聞き終えないうちに、灯織の顔が明るくなった。
「そうだよね……! 間違いない!」
「だろ? でも、灯織のお父さんは俺の命の恩人だからな。その人からもし命令されるようなことがあったら、大体は従うつもりでいるよ。それが義理ってもんだろ」
冬弥はある意味清々しい気持ちでそう言うと、ゆっくりと空を見上げた。
「今が楽しいから、後のことなんか考えにくいけどよ──何でも、いつからは終わるって訳だ」
「何さ、それ。おじさんみたいなこと言わないで」
「まだまだ高校生でいたいところだな……まぁ、そのなんだ。いつもありがとう」
冬弥は目を合わせずにそう言った。なんだかむず痒い気分だ。相変わらず口下手な自分は、相手に上手くそれを伝えられているか自信がない。出会った頃の灯織と同じだ。実は一番臆病なのは、自分なのだ。
いつも言葉で逃げようとしている。逃げるのは借金取りを撒こうとしている親だけで十分なのだが。
「……そうだね」
「へ?」
予想外の返答に困惑するのもつかの間、灯織は冬弥の頬を指さすと、こう言った。
「感謝してね。冬弥の人生、わたしでいっぱいなんだから」
「!」
挑戦状を叩きつけるように、そう言ってみる。その自信に満ちた表情は、出会った頃の鉄仮面とは大違いだ。もう人が変わったんじゃないかと、そう思ってしまうほどに。
「あぁ……わかった」
「本当に?」
「3分の1くらいは」
「少な! シャムシェイドじゃん」
「ちょっと古いネタ挟んできたな」
「冬弥の方から言ってきたんでしょ」
二人は再び軽口を叩き始めた。これを幸せと言わずしてなんというだろう。
花火大会まで、あともう少しだ。
ラブコメはティータイムの後で。-借金返済のために、美女姉妹の喫茶店に住み込みで働くことになりました- 若宮 @Wakamita-Hajime
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