第26話 あかねさす図書館

 テスト前一週間を切った日の放課後、冬弥は柄でもなく学校の図書室に来ていた。人はまばらで、試験前ということを全く感じさせない。


「みんな余裕なのか? 焦るなぁ……」


 冬弥は小さく呟いた。図書室というものは小学生の時から考えても片手で数える程度しか来たことがなく、なんとなく落ち着かない。とりあえず空いている席に着いて、カバンから勉強道具を取り出した。


「灯織はとにかく基本を暗記しろって言ってたし、まずは諸々覚えなきゃいけないんだけど……」


 冬弥は独り言を放ちながら、一番の苦手科目である古典のノートを開いた。今回のテストでは基礎的な問題はもちろん、和歌の解釈問題が出されるらしい──無理ゲーである。


「文法やら単語やら……訳分からんな……」


 冬弥はそう呟きながら頭を抱えた。パラパラと灯織から借りたノートをめくっても、身に覚えのない用語がズラーっと並んでいるだけである。改めて入学当初から学年一位をキープし続ける灯織の凄さを感じた。


「……ん?」


 その時、冬弥はとある箇所に視線を留めた。それは和歌のページだった。


「万葉集……日本最古の和歌集だっけ」


 そのページには、工夫したレイアウトで和歌がまとめられている。一つ一つが頭にスーッと入ってくるようだった。


「これ、いいな……」


 中でも惹かれる歌があった。


『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』額田王


「なんかラップみたいだな」


 冬弥は解説文を読みたいと思ったが、ノートに現代語訳などは書かれていなかった。代わりに枕詞だとか句切れだとか、そう言った文法的なことが記載されている。


 注釈付きの本とかないかな──そう思い、席を立つ。図書室の中は思ったよりも広く静かで、なんだか異世界で小さな冒険をしているようにさえ感じられる。


 こういう時、図書委員に本の場所を聞くのは野暮に感じられる気がする。どうせ滅多に来ないんだから、散策してみようと思った。


「ん?」


 冬弥が歩き回っていると、奥の方にふと『古典 日本文学』と書かれた棚があるのを見つけた。近づいてみると、そこには様々な文学全集が並べられていた。


「すごいな……」


 夏目漱石、宮沢賢治、芥川龍之介……冬弥でも知っているような有名どころがズラリと並んでいた。あまりに数が多くて、棚からはみ出している作品もある。


 しかし、探しているのは万葉集である。近代文学ではない。


「こっちじゃないのか。えっと──」


 冬弥はUターンした。万葉集が『古典』と書いてある棚に無いのなら、一体どこにあるのか──そんなことを考えながら歩いていると、彼はふと一つの棚の前で足を止めた。


「…………!」

「あっ……」


 向こうも気づいたのか、冬弥の方に振り向いた。薄い桃色の髪を後ろで束ねている、紫色の目をした女性。


 和風少女──松原まつばら初代はつよである。


「初代。奇遇だな」

「はい……休日の節は……ありがとうございました」


 初代はゆっくりと頭を下げた。普段は着物に身を包む彼女も、学校ではセーラー服を着ている。


 ──華奢な身体が、白い服によく似合っていた。


「そうだ。ちょっと聞いてもいいか?」


 冬弥はそう言って、手を合わせる。初代は小さく首を傾げた。


「何でしょう?」

「今、万葉集の解説書を探しててさ。どこにあるかわかるか?」

「……! もしかして、先輩も和歌に興味をお持ちに……」


 途端に目を輝かせる初代。冬弥は苦笑いを浮かべる。


「いや、なんていうか──次の古典のテスト範囲に和歌が入っててさ。ちょっと現代語訳を知りたくなったんだ」

「そう…………ですか」


 しょんぼりとする初代。それを見て、冬弥は慌ててフォローした。


「で、でも興味を持ったってのは嘘じゃないぞ! ガチでのめり込んでるわけでは無いってことを伝えたかっただけで!」

「ふふっ……わかりました」


 初代は微笑むと、文庫本を片手に歩き出した。


「こちらです……ついてきてください」

「おぉ、ありがとな」


 冬弥は初代の隣に並んで歩く。図書室は相変わらず閑散としていて、二人の足音だけが響いていた。


「それ、小説か?」

「はい。俗に言う、恋愛小説というもので……」


 冬弥が初代の手にある文庫本を指さすと、初代は口を覆い隠すようにそれを掲げた。


「なんだか意外だな。最近の本も読むのか」

「はい……現代を生き残るために、現代を知ることは重要なはずです。昔のことと同じくらい、きっと」

「うーん、その小説自体には興味無いのか?」

「そんなことはありません。面白いですよ……ふふ」


 そう言って、初代は微笑む。「古典は……こちらです」


 彼女は、図書室の一番端にある棚の前でようやく立ち止まった。しかしこの棚は『古典 文学作品』と書いておきながら近代文学しか置いていなかった、いわば悪魔の棚である。冬弥は困惑の色を浮かべた。


「え? でも、さっき来たけど違ったような──」


 すると初代はつんつん、と腕を押した。冬弥は驚いて、彼女の方に振り返る。


「こちらでございます」


 なんと先程見ていた棚の反対側に、古典コーナーがあった。しかも初代の目線よりも更に低い場所に、こじんまりと置かれている。


「こんなところにあったのか!」


 灯台下暗しとはまさにこのことである。しかも上の方には相変わらず乱雑に近代文学の作品が並べられているのだから、尚更気づきにくくなっていた。


「まったく……初代は、すごいな」


 冬弥が感心していると、彼女はクスッと笑った。


「ふふっ……先輩は……背が高いから」

「ん、そうか?」


 あまり言われたことはないが、冬弥は満更でもない表情を見せる。


「まぁいい。助かったよ、ありがとう」


 冬弥は礼を言うと、早速万葉集の解説書らしき本を棚から取り出した。そして、パラパラとページをめくる。


「結構、現代語訳やら何やら詳しく載ってるな〜。ま、初代は読まなくてもわかるんだろうけど」

「いえ……初代もまだまだ……勉強中の身です……」

「そうなのか?」

「はい……和歌というものは……そもそもの数も多く……そして……奥深く……」


 ゆったりと染み入るように、彼女は語る。楽しそうに話している姿を眺めると、冬弥もすっかり和の気分になった。


「そっか。俺もますます勉強したくなってきたよ」

「い、いえ……そう言って頂けるのは……嬉しいのですが……」


 初代は申し訳なさそうに俯いた。


「気を遣わせてしまい……申し訳なく……」

「……いやいや! シンプルにそう思っただけだよ。実の所、初代のことをちょっと尊敬してる節があるんだ」


 冬弥があまりにもナチュラルに言うものだから、初代は少し反応が遅れた。


「そ……そう……なんですか」

「うん。俺、趣味とかないからさ。そういう秀でたものがある人に惹かれるというか……」


 そう述べる冬弥の顔は、笑っているけれどもどこか空虚に見えて。初対面の時、一切自分の話をしなかった彼の姿と重なって見えて。


 初代はなんだか少し、寂しくなった。


「あっ──────危ない!!」


 その時、初代の耳元で大きな声がした。振り向いた瞬間、そこには上から落ちてくる大量の本が──。


「…………!」


 棚と棚の間隔が狭く、その本は将棋倒しのように崩れ、無情にもいちばん高いところから降ってくる。一瞬だけ頭上に見えたそれらの塊は、手に取って読む時よりもずっと大きく、恐ろしく見えて。


「──────っ」


 初代はしゃがんで目を瞑り、思わず顔を小さな手で覆う。何も考えられなかった。ただ恐ろしくて、足がすくんでしまう。


「大丈夫か?」


 いつまで経ってもその衝撃はやってこなかった。代わりに聞こえてきたのは、優しい声。ゆっくりと目を開けると、自分の身体が包み込まれていることに気がつく。


「せ、先輩────」


 初代は彼に抱きしめられたまま、涙ぐんだ目でそう言った。


 冬弥は咄嗟に彼女の身体に覆いかぶさることで、本の落下から身を挺して守っていたのだ。


「はは。何とか間に合った……」


 初代から体を離すと、冬弥は頭を押さえて笑った。どうやら運悪く分厚い本の角が後頭部に直撃してしまったらしい。


「大丈夫ですか……!」


 初代は今にも泣きそうな顔でそう聞く。冬弥は痛みに悶えながらも、首を縦に振った。


「あぁ。初代は?」

「は、はい……平気です……でも、先輩が……」


 心配そうに初代は見つめる。冬弥は立ち上がると、頭をかいて笑った。


「いいんだよ。初代が無事なら」


 冬弥はそう言いながら、彼女に手を差し伸べる。初代は彼の顔と手を交互に見つめていた。顔が熱くなって、心臓の動悸が止まらなくて、なんだか苦しくて。彼を見れば見るほど、心拍数は上がっていく。


「……………っ」


 初代は差し出された手を取ると、その場にゆっくりと立ち上がる。そして、そのまま俯いて黙ってしまって。


「……しかしまぁ、随分と散らかったな」


 一方、冬弥も沈黙が煩わしくなって、辺りに散らばっている本を手に取る。本は落ちるべくして落ちたという感じで、崩壊した棚の段には本が数冊しか残っていなかった。


 冬弥は初代に覆いかぶさったことが、今になって申し訳なく感じられるようになった。気まずさを誤魔化すように、本を拾い上げては棚に戻すのを繰り返す。


「あの……先輩っ」

「ん?」


 最後の一冊を戻そうとした時だった。背後から初代の声がした。振り返ると、彼女は何かを決心したような表情をしていた。


「先程は……本当に……ありがとうございました」


 彼女は深々とお辞儀をする。そしてゆっくりと頭を上げると、じっと冬弥の目を見据えた。


「別にいいよ。気にしなくて」

「先輩は────!」


 すると、思ったよりも声が大きくなってしまって。


「あっ……すみません……」

「大丈夫だ。こんなに本が落ちても、誰も見に来ないくらい人がいないんだから」


 そう言って冬弥はおどけて笑う。


「それで……なんだ?」

「いえ……その……」


 初代も少し緊張しているようで、言葉に詰まっている。そして、意を決したのか、小さく息を吸ってから口を開いた。


「先輩……いいえ……貴方様は……どうしてそこまでして……初代を助けてくれたのでしょうか……」


 それは、素朴な疑問であった。助けると言っても、命の危機というほどの危機があったわけではない。ただ、本が崩れ落ちてきそうになった時に体を張って守ってくれただけなのだ。


 しかし、それでも彼は当たり前のように、なんのためらいもなく彼女を助けた。


「何度も言ってるだろ。俺は────」


 冬弥はそう言うと、少し恥ずかしそうに頬を掻いた。


「助けたいから、助けただけだよ」

「そ、それだけ……ですか……?」

「あぁ。それがどうかしたか」


 初代は驚いた様子で目を丸くしていた。


「い、いえ……なんでもありません……」


 慌てて首を振ると、ふっと顔を緩ませた。


「貴方様の心……ワイシャツみたいに……真っ白……」

「なんか言ったか?」

「な、何も!」


 初代は慌てふためく。その様子がおかしくて、冬弥は思わず笑ってしまった。


「ははっ。まぁ、とにかく。一件落着って感じか──」

「……」


 しかし、初代はどこか上の空の様子である。何やらモジモジとしながら、俯いていた。


「……っ!」

「お、おい!」


 すると、突然彼女は走り出してしまう。冬弥が追いかけようとした時にはもう遅く、彼女は図書館の外へ出て行ってしまった。


「……どうしたんだろう」


 残された冬弥は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。やっぱり体に触れてしまったのがいけなかったのだろうか。


 とりあえず、冬弥は無人貸し出し機で万葉集の解説書を借りることにした。小さなため息をついてから。

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