第10話 初恋が泣いている
「ふふ……」
エマは楽しげな表情を浮かべながら、冬弥の横顔を見つめていた。
一方、冬弥は気まずそうにコーヒーに口をつけていた。ハーフの美少女と二人きりで飲む。それだけでなんだか、イケないことをしているような気分になって。
「どうしたの? 元気がないわね」
「いや、ちょっと緊張してて……」
こんな美人さんと相席することなんて無いから、と言って冬弥は苦笑いを浮かべる。
エマはそんな彼の反応を見て、くすっと笑った。
「フフ、昔はそんなんじゃなかったのにね。もっと自信過剰で、可愛くて──」
「ところで、どうして俺と相席を?」
冬弥が呆れてそう言うと、エマは目を見開いた。
「え…………」
そして、寂しそうな顔で訊く。
「もしかして……ワタシのこと、忘れちゃったの?」
「ん?」
彼女はそう言うと、ゆっくりとコーヒーカップを机に置き、身体ごと彼の方を向いた。
「な、何!? 何のこと!?」
「……思い出して、頂戴」
エマはそう囁いてから、冬弥のネクタイを引っ張った。「えっ、ちょっ──」
その碧眼は、真っ直ぐに彼の唇の方を向いていて。そして次の瞬間には、彼女の柔らかな唇が、冬弥のそれと重なっていた。
「んっ────────」
お互いに唇が湿っていたからか、『チュッ』と甘い音が鳴った。
やがて女の子は唇を離す。そして、誘惑的な笑みを浮かべた。
「どう。これで、思い出した?」
倒れてしまいそうだ。意味のわからなさと衝撃で……それでも、冬弥はようやく状況を理解した。キスされた。同年代の女の子に。
そして、その味を思い出した。
それは知らない間にどこかに置いてきた、初恋の味だった。
☆
「……おーい、とうや! サッカーしようぜ!」
それは、
昔はとにかく落ち着かない子で、彼にとって昼休みは至福の時間だった。いつも険悪な空気に包まれている家の中とは違い、何も考えずにいられるのが本当に楽しかったからだ。
「……ちょっとー! ワタシもまぜなさいよ!」
そして、いつも自分たちと一緒にサッカーをやりたがる、少し変わった女の子がいた。彼女はいつもお嬢様みたいな服を身にまとっていた。男子たちはいつもダサいジャージを着ていたから、なんだか少し浮いていた。
「みんなー! 白人がきたぞー!」
「だ〜れ〜が〜白〜人〜よ!!」
女の子はそう言って、思い切りボールを蹴飛ばす。泥まみれになるのも一切気にしないで、男子たちに混ざってボールを追い回した。
「ハハッ! アイツ、意外と足速いぞ!」
冬弥もそんな彼女を面白がって、よく一緒に遊んだ。時折ちょっかいをかけたりして、追いかけ回されたりした。
女の子の名前は、二階堂エマ。おてんば娘で、イギリス人の父と日本人の母を持つハーフ。彼女が、冬弥の初恋だった。
「うわ、めっちゃ雨ふってきた!」
ある日の放課後。公園でサッカーをしていた子どもたちは、近くの土管で雨宿りした。
いくつもあった土管に、みんなが取り合いになって入っていく。大雨の中でわざわざサッカーをして、服を泥だらけにして帰れば、親に怒られることはわかっていた。
「おーい。……入るぞー」
冬弥は細長い土管に身をかがめて入った。成長期が早く、年齢の割に身長が高かったので、他の男子たちに追い出されていたのだ。
「「あっ」」
その時、先に土管に入っていたエマと目が合った。エマはすぐに目をそらすと、物憂げな表情で外を眺めた。
「雨、サイアク」
エマは拗ねたようにそう呟く。冬弥はどう答えればいいかわからなかったので、とりあえず腰を下ろして座った。
「……こんなドカンがあったんだな。おれ、初めて入ったよ」
「へー。ワタシは何回か」
エマがそう言うと、冬弥は口をとんがらせた。
「へ、へぇー。それって、ほ、他のやつと……?」
「え、なに?」
エマが冬弥の方に振り向く。すると、思ったよりも近くにお互いの顔があって。
「……!」
なんだか恥ずかしくて、二人はすぐに顔を背けた。
「あの……もしかして……ワタシにしっとしてるの?」
「し、してねぇよ! なんでもねぇ!」
声変わり前の甲高い声で答えてから、冬弥は俯く。それを見て、エマはニヤリとした。
「……へぇ。そんなふうに思ってたのね」
肩と肩がいつの間にかくっついていた。それに気づいた冬弥は、またしても耳を赤くする。
「ち、ちかい────」
「トウヤって、好きな人とかいるの?」
「えっ!?」
突然の質問に驚く冬弥だったが、答えないわけにもいかない。
「い、…………………………いる」
「えー! だれだれ〜!?」
「お、おい! しずかにしろよ。ほかのやつに聞こえるだろ……!」
冬弥はエマの肩を小突いた。少し、エマが驚いたように目を見開く。
「……それで、だれなのよ」
冬弥は一瞬躊躇してから、小さな声で言った。
「……………………おまえ」
「……! ほんとに……?」
エマの声が震える。冬弥は黙ってコクリとうなずいた。
「うそ………………ワタシも、すき」
エマはそう言うと、冬弥の首に手を回して抱きついた。
「お、おい……!」
恥ずかしいだろ──その言葉は、雨の音にかき消された。
狭い土管の中で、身体を密着させて。
「んっ───────」
雨が降りしきる中、エマは彼の唇を奪った。それが、二人のファーストキスだった。
☆
「そうか。あの時の……!」
「やっと思い出したわね。遅いっての」
ポンと手を叩く冬弥に、エマは呆れ顔で応えた。
「まったく、もう忘れてるのかと思ったわ」
「だって──あまりにも垢抜けてるもんだから」
冬弥はそう呟いた。たしかに、五、六年経てば、人は変わってしまうだろう。目の前のお嬢様に、わんぱく娘の面影はない。
「ふふ、ワタシも、可愛くなったでしょ」
エマは頬杖をつくと、懐かしそうに笑みを浮かべる。冬弥はあえて言及を避けた。──可愛くなったと声に出したら、負けな気がしたからだ。
「……それにしても、すごい雨だな」
「ええ」
冬弥の声に呼応して、エマは外を見た。
「思えばあの時も、こんな雨だったわね」
エマはそう呟いた。不意にあの日のことを思うと、彼女の顔は少し赤くなったりして。
「………………美味しい」
「そうか? 良かった」
エマはコーヒーに口をつけて、息を落ち着かせた。甘いものには、苦いものがよく合うからだ。
「……」
冬弥はなんでもない振りをしながら、エマの顔をちらちら見ていた。本当に可愛くなったと思う。あの時も美少女だったけど、なんというか大人っぽくなっていて。胸もなんか膨らんでるし。
冬弥は昔を思い出して、つい、にやけてしまう。
「……何笑ってんのよ」
「い、いや、何でもない!」
慌てて取り繕うが、彼女を見るとどうしても笑顔になってしまう自分がいた。
「ふーん。あんた、耳赤いわね」
「!?」
エマは冬弥の耳に触れた。彼は身をビクッと震わせて、その指を振りほどく。
「か、からかうな!」
「ふふ。変わんないわね」
エマはそう言って笑った。冬弥は平常心を保つので精一杯だった。
彼女は灯織やナギとはまた違うタイプの美人だが、どちらにせよ可愛い人と話すのは緊張するものである。
「いつ、俺に気づいた?」
「昨日、ここに来た時よ。元々、友達から『東京から転校生が来た』って噂を聞いていたのだけど、まさかそれがトウヤだったなんて夢にも思わなかったわ──」
エマは続ける。
「昨日、
なんだかフィクションの話みたい、と言ってエマは笑った。
「それにしても、元気なのは相変わらずね。接客もイイ感じだし」
「そう言ってもらえて嬉しい。俺はそのために、ここにいるんだからな」
意味深なセリフに、エマは首を傾げた。
「……えっ、バイトなのよね?」
「まぁ。正確に言うと、住み込みで働かせてもらってるって感じかな」
「住み込み!? えっ、あっ、えっ?」
混乱して口を押さえるエマに、冬弥はキョトンとして答えた。
「うん。俺、ここに住んでるから」
「……えぇぇぇぇぇぇ!? おかしいでしょ! 何があったらそうなるのよ!」
「色々あったんだよ……」
理解不能な事態に、エマの目はぐるぐる回っていた。昔ならまだしも、現代において学生が住み込みで働くなんて聞いたことがない。
「ってことは、えっ、もしかして看板娘の子と……」
「灯織のことか? うん、一緒に住んでるぞ」
そう言うと、エマは顔を曇らせた。先程までの余裕はどこへやら、冬弥から目を逸らす。
……噂に聞いたことがある。ここ、喫茶店『ワカミヤ』には、めちゃくちゃかわいい女子高生が住んでいると。
「そ、そう……」
「俺は灯織のお父さんに拾ってもらって、ここにいるんだ────っと」
混乱するエマをよそに、冬弥はその場に立ち上がった。人影が見えたのだろうか。そして、すぐに扉が開いた。
「ナギさん、買い出しお疲れ様です」
「ありがとう……あれっ? お客さんだ」
車から荷物を運んできたナギは、カウンターにエマが座っていることに気づいた。
「あの子、冬弥くんのお友達?」
「あっ、いえ。お友達というか……」
冬弥が言葉を濁しているので、ナギはとりあえず女の子の方に近づいてみることにした。
ハーフの女の子だ。とっても清楚で可愛い子だなぁ……と、ナギはそんな感想を持つ。
「いらっしゃい。雨なのにわざわざ来てくれてあり──」
「ご、ごめんなさい! お代は置いていきます……!」
「えっ!? ちょ、エマ……!」
エマは勢いよく立ち上がると、ハンガーにかけていた生乾きのコートを羽織った。
そして、勢いそのままに雨の中を駆け抜けていく。何やら声にならない声を上げて。
「……あれっ、喧嘩したの?」
「いえ。そういうわけでは……」
どう説明していいのか分からず、冬弥はその場に立ち尽くした。
コーヒーでも消せない、キスの味。それを思い出すと、なんだか急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「追いかけた方がいいのかな……」
冬弥はそう思いながらも、小学校の時、彼女の足が速かったことを思い出したのでそれを理由にしてやめた。
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