マ薬
「ついに手に入れたぞ。これで俺は、人間をやめれるんだ」
真夜中の公園で、三十代の男は手にした真っ赤な丸薬を見ながら呟いた。
背広姿ではあるが、ネクタイはせず、やや乱れた様子が男の生活環境を表していた。
そのことに構わず、男はコンビニで購入した天然水のペットボトルを開けると、丸薬を飲み込むべく口へ運ぼうとした。
「待ちなさい!」
すると、目の前に一人の少女が現れた。
長い黒髪を左側のサイドテールにした少女は両腕が透けた黒いワンピースを着ており、葬儀に出席するような印象があった。
「私は死神のエフ。あなた、それを飲むのをやめなさい!」
右手の人差し指を突き出して、少女は言葉強く言った。
「し、死神?」
驚きつつも信じていない男。
だが、それを無視して少女は続けた。
「いい? それは魔法で作られた薬、
男の目に真剣な眼差しで言う少女。
だが、男の心はそれで動くことはなく、少女に言った。
「人間を続けたっていいことないよ。毎日、家賃に光熱費、食費、養育費、税金の支払いのために生きてるようなものだ。妻や子供だって俺のことを無視してる。仕事だって、自分でもできるからやってるだけで、面白くもなんともない。俺の苦しさ虚しさを理解するやつなんていないんだ。それだったら人間をやめちまった方がいい」
目元に濃いクマがあり、闇深い表情で語る男に迷いのようなものは感じられなかった。
「だからって、人間をやめなくても旅に出たり、家族と離れてみたりとかで気持ちを切り替える方法はあるでしょう。短絡的すぎるわ」
「僕にそれだけの余裕はないよ。資金的にも精神的にもね。それに僕は一刻も早く解放されたいんだ。人間でなければ何でもいい」
「バカ言わないで! あなたは人間の素晴らしさが分かっていないのよ」
「君も僕をバカ者にするのか。もういい」
「ああ、もう。そうじゃなくて──」
すると、男が手にしていた丸薬が体内へと潜り込み、そこから根を伸ばすように液体が展開した。
「しまった。あの魔薬、悪魔の血が入ってたんだわ」
丸薬の影響が全身に広がると、頭部以外の肉体は溶けてドロドロになり、男が着ていた背広は濡れながら地面に落ちた。
その頭部も、溶けていないとはいえ両目両耳、鼻、口から血ではない赤いものが流れ、機能していないことと元人間であることを示していた。
そして、そのドロドロは不定形な姿で動きはじめ、あらたな生き物として活動をはじめた。
「解放とか言ってたし、どうやら決まった形のないもの、スライムになったのね」
少女がそう分析すると、水たまりのようなそれはゆっくりと近づいてきた。
『
「え?」
声ではない、かつて人間だった者、悪魔からの念話。
『喰う……、寝る……、犯る……』
「理性がなくなって、本能だけになったみたい。そして、それを満たすものは、私だ!」
肉体をもつ少女に対し、悪魔は掴みかかるように襲いかかった。
「あっぶな」
すんでのところでかわし、距離をとる少女。
悪魔は水滴がはねたようなかたちを見せたが、すぐさま一つになって機能していない顔を見せた。
「ただの全身マッサージなら気持ちよさそうだけど、そんなドロドロを浴びるのは嫌だし、食べられるなんてもってのほかよ」
言いながら少女は悪魔を見据えた。
悪魔は横に身体を広げながらじわじわと地面を這って少女に近づいていった。
「囲い込んで私を逃がさないつもり? そうはさせないんだから。ギィー!」
すると少女は持っていたボールを悪魔の真上、十メートルほどの高さ目がけて投げた。
投げられたボールは空中で肺と胃の臓器が反応。
下へ向かって強烈な胃酸を空気圧で噴射した。
『溶ける……』
高圧洗浄機で異物を洗い流すかのように悪魔は溶けていき、ボールが地面に落ちるころには完全に消滅していた。
「お疲れ様、ギィー」
役目を終え、転がってきたボールを少女は拾い上げた。
「もう人間になることはないけど、人間だったあなたの死はこの世界に伝えなけらばならない。さようなら」
一瞥をやって少女が言うと、そのまま姿が消えた。
そこにはあえて残された男の頭部があった。
悪魔の力はなく、単なる死体である男の頭部。
その顔は、俺はいったい何がしたかったんだろう、とでも言いたげなものだった。
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