ちょっとした騒動について
「紫藤さん」
「何ですか」
放課後の図書館は閑散としていて、生徒もあまり残っていない。たまに美術教師とかが画集を見にきたりしているけれど、そんな大人の影も見当たらない。今日はアタリの日だ。紫藤さんと、いっぱい話せる日。話せるって言うのは語弊がある。話すのはいつもわたしだけだ。
今日の紫藤さんは、珍しく司書室に篭っていない。
受付カウンターでパソコンと睨めっこしていた。いつも通りのワイシャツと、黒いスラックス。髪型も昨日と全く一緒だ。ずっとそこにいるかのような、そこに住んでいるような雰囲気。そんな紫藤さんが好きだ。
何をしているのだろう。わたしが声をかけると、ちょっとだけ視線を上げて、それからまたモニターに戻った。あくまで目と目がぶつかり合わないように、そんな配慮が見えた気がした。
「今日は何のお仕事をしているんですか」
「司書の仕事ですけど」
ぶっきらぼうに言うとそれ以上は話そうとしない。黙々とマウスを動かして、それから数回クリックする。静かな時間だ。わたしはカウンターから離れない。紫藤さんをただ見ていた。
カウンターに散らばっている本を見ながら、これが返却された本たちなんだなと思う。新書、図鑑、小説……ジャンルもバラバラ。
「借りたいなら、手続きしちゃいますから選んでください」
「ください」を「くださぁい」を何となく間伸びさせながら紫藤さんは目も合わさずに言う。じゃあこれ、と適当に小説を手に取る。「へぇい」と何とも間抜けな声を出してそれを受け取る紫藤さん。モニターに集中しすぎていて口元が、というか舌の動きが緩んだのだろう。そんな変な声を出しても全くの無表情を貫く紫藤さんは、ちょっとだけ可愛く見える。
本の背面に貼られたバーコードのシールを読み込んで、モニターで返却処理をしてから、カタタッと何かを打ち込んで、またバーコードを読み取った。「どうぞ」と本を突き出される。『源氏物語第一巻』。全く興味がない。
「なかなか良いセンスをしてますね。どうせ適当に選んだと踏んでいるのですが」
何だか紫藤さんは嬉しそう。ちょっとだけ口の端を上げて、笑っているように見える。目の錯覚? 相変わらず視線はモニターに釘付けだけれど。
「若紫まで収録されていますから、ちょうど古典の予備知識にもなって面白いと思いますよ」
「紫藤さん、古典に詳しいんですか?」
「まぁ、源氏物語はひととおり」
そこまで言うと、息を大きく吸って、吐き出す。深呼吸よりもちょっと浅くて、呼吸よりもちょっと深い、そんな息。ちょっとだけミントの匂いがした。気がした。
紫藤さんはそこから何も話さない。もう話すことは何もないと言わんばかりの態度に、ちょっと笑ってしまう。
こんなにも真面目に仕事に向き合う人、そうそういないよなぁ。
いや、仕事が好きなんじゃない。本が好きなのだ。
「紫藤さん」
「なんでしょう」
呼びかけたはいいものの、そこから先の言葉が見つからない。視線はわたしの腰くらいのところを見ている。どうも顔を見る気にはならないようだ。そんな紫藤さんが、好き。
この好きはどこからやってくるものなんだろうか。紫藤さんの中身は全然わからないのに、惹かれて仕方がないのだ。
「私は紫藤さん、好きです」
「はぁ」
そっけない一言。一言にも満たない、ため息みたいな返事。カチカチッとマウスの音。そんな音が虚しくて、でも軽快で、わたしの心臓の音を幾分かやわらげた。ちょっと緊張した。特別なことではないとでも言いたげな紫藤さんの態度に救われた。
頑張って頑張って絞り出したその一言は、紫藤さんのため息で一蹴されてしまう。一世一代の告白、みたいなものだったのに。
こんなにも誰かに夢中になることなんてなかった。追えば追うほど遠ざかる。話しかければ話しかけるほど、距離が離れる。こんな経験初めてだった。他の誰にも抱いたことのない感情が胸に止まらなくて、勝手に溢れてしまう。こんなにも苦しいのに、涙は一滴も出てこない。わたしの苦しさを知ってほしいのに、相手はそっけない。そっけないどころか、わたしの心にすら興味がなさそうなのだ。
だからこそ、紫藤さんが好きだ。
だからこそ、紫藤さんが好きなのだ。
「ちょっとそこにいたら他の人の邪魔になるんじゃないですか?」
黙りこくったままのわたしを何とかしたいのだろう。他に入ってくる生徒なんていないのに。カウンターの前に柱みたいに動かなくなった私をどかそうとする。
「誰もいませんよ」
そう返事をすると、肺から空気を全部絞る、ため息が聞こえた。眉根にシワが少し見える。
困っている。困っているけれど、きっと本音をぶつけることはないんだろうな。「どこかに行ってくれ」なんて、言えないんだろう。そういう勇気が持ち合わせていないところに人間味を感じる。
浮世離れてしているようで、全然人間らしい紫藤さんが、好きだ。そんな変わっている紫藤さんが、好きだ。好きだ。
もしも今ここで胸ぐらを掴んだら、どうなるのだろう。紫藤さんの無表情が崩れるところが見たい。いつもみたいにしれっと何かをこなしてしまう無表情の万能感を崩したい。何をしたら、彼は感情をむき出しにするのだろう。
殴りかかったら? パソコンの電源を切ったら? 図書館に閉じ込めたら? 司書室に勝手に入ったら?
どれをしても、何をしても、きっと紫藤さんの無表情は崩れないだろう。どうせ、「あぁ、はいはい」みたいな飄々とした態度で、全部わたしの行動をいなすのだ。つまんない。
「こんな毎日残っていて、いいんですか? お友達とかは?」
それはつまり「とっとと帰ってくれ」という意味。「どこかに行ってくれ」から、もっと直接的になった。わたしは片頬だけでちょっと笑って、「友達なんていないです」。脳裏にあの同級生の顔が浮かんだ。彼女は友達じゃない。
紫藤さんは大きく息を吐いて、それ以上何も言わなかった。話しかければかけるほど、どこにも行かないと悟るのだろう。この問答は実に一ヶ月以上繰り返されているというのに、紫藤さんも飽きないものだ。案外、紫藤さんはわたしが嫌いではないのだろう。そう思いたい。そうじゃなくっても。
「閉館までいます」
「そうですか」
「源氏物語、初めて読むんですよ」
「そうですか」
「紫の上なら知ってるんですけどね」
「……そうですか」
わたしが何を言っても、「そうですか」で片付ける気だ。それも、ちょっとだけ嫌そうな顔をして。紫の上は、SNSか何かで見つけた情報だ。葵の上、だったかもしれない。どっちでもいい。色は似ている。紫藤さんの面倒くさそうなため息の中に感情を探す。それ以外は特に見当たらない。でも、それで良いのだ。
いつまで経ってもどこにも行かないわたしに嫌気がさしたのか(もうとっくにさしていたかもしれないけれど)、完全な無視を決め込む紫藤さん。もうきっと、わたしの言葉には反応しないし、もうきっと、わたしが何をしても反応しないだろう。
でももし、殴りかかったら?
でももし、パソコンの電源を切ったら?
でももし、図書館に閉じ込めたら?
でももし、司書室に勝手に入ったら?
ぐるぐるとそんな気持ちが巡り巡って、その気持ちに何という名前をつければいいのかわからなくなってきた。思いっきり叩きたい気持ちもあるけれど、その衝動だけで行動するほど、単純な人間ではなかった。
紫藤さんが好きだ。大好き。ずっと見ていたいし、ずっとそばにいたい。ちょっと触れてもみたい。
でも、わたしの好きっていう気持ちに応えて欲しいわけじゃない。
だから恋じゃない。
紫藤さんの幸せを一番に願っているわけでもない。
だから愛じゃない。
ただ、寝る前に顔が浮かんできたり、もう少しだけそばにいたいと思うだけ。
だから恋愛じゃない。
恋でも愛でもないというのなら、一体わたしの抱いている感情は何なのだろう。好きと、恋と、愛のもっともっと違う、どれだけ掘り進めても見つからない感情が私の中にある。
ドロドロしていて、気持ちが悪くって、直視できない汚い感情が、ぐるぐると渦巻いているのだ。
まだまだ人生を全体の数パーセントしか生きていないから、答えなんて見つからない。あ、そういえば紫藤さんは、何歳なんだろう?
気づいたら紫藤さんはいなくなってしまっていた。きっとまた司書室に篭っているのだろう。音もなく消えてしまった。もう今日は十分紫藤さんを見た。あの冷たい視線がわたしに向くことはなかったけれど、それでも横顔をずっと見れたから満足だ。肺いっぱいに紫藤さんの残り香を吸い込んで(無臭だ)、カウンターに入り込んだ。
司書室に、何があるんですか?
紫藤さんが座っていた椅子。紫藤さんが触っていたパソコン。紫藤さんが、いた空間。
その奥の、暗いスペースにある白い扉。司書室と書かれたその扉は隠れる気のない隠し扉だ。鍵は多分、かかっていない。このドアノブを回したら紫藤さんがいる。
あの狭そうな部屋は、本当は広いのかもしれない。実は、紫藤さんの住居なのかもしれない。ドアにそっと触れる。ちょっとだけ冷たい。でも暖かい気もする。紫藤さんの手のひらの熱がまだ残っているのだろうか。
ぎゅ、と握り込む。紫藤さんの、熱。ひんやりしていた。
ちょっと力を込めると、ノブはすんなりと回り、そのまま引けばドアは開く。そこにあるのは何なのか。ドキドキしているのは手の脈か、それとも心臓か。
「触るなっ!」
すごい衝撃でわたしの体は後ろに吹っ飛んだ。
え、なに?
机の角に腰を強く打ち付けて痛い。頭じゃなくてよかった。
どうやら、肩を強く掴まれたみたいだった。司書室に籠ったと思っていたけれど、少しカウンターから離れて作業をしていただけみたい。背後に立った紫藤さんはどんな顔をしているんだろう。
ちょっと振り返ると、無表情の紫藤さん。さっきの大声は紫藤さんのもの? 怒鳴ったとは思えないほど冷静な顔だ。でも、よく見ると青白い顔はちょっとだけ赤らんでいて、切長の美しい目がちょっとだけ吊り上がっていた。蛍光灯の下では、そのちょっとした変化を見るのに精一杯だった。
「何にもありませんよ、ここには」
それだけ言って、じっと私の目を見つめる。
あんなにも見なかった私の目を。じいっっと。
紫藤さんが、私の目を。黒目と黒目がぶつかり合って私は動けなくなってしまった。
あんなに、見られたいと思っていたのに、なのにも関わらずそこにあったのは恋焦がれた情熱ではなくて、ひんやりした恐怖だった。人間とは思えない、冷たい目。何の情もこもっていない、恐ろしい二つのガラス玉。
あんなに好きだった紫藤さんが、怖い。
思わず目を逸らす。紫藤さんの、肩あたりを見る。すると、視線が外れた瞬間に、ふ、と息を吐く音がした。再び視線を紫藤さんに向けると、片頬だけを持ち上げた顔がそこにあった。
あ、笑ってる。
わたしのことを見て、楽しそうに笑っている。目もちょっとだけ三日月型にカーブして、涙袋がうっすらと浮き出た。嬲るような、笑顔。嘲笑。嘲笑だ。
あの同級生の作り笑いが、遠くで見えたユミとシノブの顔が。フラッシュバック。あれは偽物の笑顔だ。
楽しいって、こういう顔のことを言うんだ。
笑うって、こういう顔のことを言うんだ。
ほんとうの笑顔を見てしまったから、もう他の人の笑顔を見ても、笑顔だっていえなくなってしまうだろう。
「二度と来るなとは言いませんが、あんまり来ないでください」
それはつまり、二度と来るなということ。
固まったままのわたしに、興味を失ったのか、紫藤さんはいつも通りの無表情に戻ると、横をすり抜けて、再び司書室に入っていった。もう扉を開けることはないだろう。ドアノブも、触れることはないだろう。
カウンターに置いてけぼりにされた私はしばらくぼうっとしていたけれど、部活動終了のチャイムで我に返った。そのままスクールバックを引っ掴み、逃げるように帰る。振り返ったら、笑顔の紫藤さんが追いかけてきそうで、怖かった。そんなはずはないのだけれど。
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