ちょっとした憤りについて

 もう一ヶ月程、図書室に行っていない。

 文化祭は滞りなく終了して、同級生たちは肩を抱き合って出し物の成功を祝っていた。ちなみに出し物はドーナツ屋台だ。保健所への許可証の提出やら、設営の土台作りやら、看板、宣伝、チラシ作成やら全部を17歳のいたいけな少年少女たちでやり遂げたのだ。


 わたしは印刷されたチラシを折りたたんでパンフレットの形にする係。余った係はそれだった。一人で数えきれないほどのツルツルした紙を折り畳むのは苦痛で仕方がなかったが、それよりも同級生と作り笑いを浮かべながら会話をして、看板に色を塗ったり、ああでもないこうでもないと許可証の文言を話し合って考えるよりもずっとマシだった。

 完成したパンフレットの山は、例の同級生が作り物の「アリガトウ」をいって、さっさと持っていった。デザインした他の同級生と、印刷をした他の同級生と、ハグをしているのを横目で見ると、なぜか胸が痛んだ。わたしは一体何をしていたんだろう。


 その少しの寂しさも、振り払った。

 別に、仲良くしたかったわけじゃないし。

 

「——さんってさ、なんか、嫌じゃない?」

 トイレの個室は、きっと、たまに、こういうことが起こるのだろう。閂鍵に触れかけていた手を下ろし、呼吸を落ち着ける。聞き覚えがあるようでない声が、手洗い場から聞こえてくる。わたしの名前が聞こえた。

「わかる。なんかさ、ちょっと嫌。絡みづらいとか、そういうレベルじゃない」

 もう一人が相槌を打った。きっとどっちも同級生なのだろう。水の音がしないから、手を洗って、それから化粧直しでもしているのだろう。長くなりそうだ。わたしはばくんばくんと意味もなく鼓動している心臓と、体の震えを落ち着かせようと必死になった。怖い。

 うまく呼吸をしようと思えば思うほど、息ができなくなる。肺が限界まで萎んで、新しい酸素が入ってこない。はっ、はっ、と人懐こい犬みたいな息が、自分の口から吐き出て気持ちが悪い。このまま倒れてしまいたい。


「なんか、「私はみんなと違いますよ」みたいなオーラ、あるじゃん」

「わかる。自称高嶺の花的な?」

「イタすぎ」


 どっちかが鼻をフンと鳴らして「自称高嶺の花」だと笑い飛ばす。わたしの花びらはひらひらとどこかへ飛んで行ってしまう。そんな小さな鼻息で、わたしも飛ばされてしまう。些細な悪口で完全に心がぐにゅりと歪んだ。

「変なこだわりみたいなの、あるよね」

「せっかく声かけてンのにさぁ、「一人が好きですから」みたいな感じ? チョーシ乗ってるとしか思えない」

 ああ、あの同級生だ。あの作り笑いが脳裏によぎる。わたしに吐き出したかった罵詈雑言を、別の同級生に吐き出しているのだ。聞きたくなくても聞こえてきてしまう。

 わたしの悪口が。わたしの陰口が。聞こえる。


 チョーシ、になんて乗っていない。わたしはわたしでいるだけ。友達なんてほしくない。わかってくれなくていい。わからなくていいのだ。


 ドアを開け放って言い返したい。でも、そんなことしたらもっと言われてしまうかもしれない。今後教室にいても、トイレにいても、どこにいてもこの足元がふわふわする感覚が忘れられそうにない。

「ま、そういう人いるじゃん。隣のクラスの——だって、そうっぽいって聞いた」

「一人で楽しいのかなー。まぁ、知ったこっちゃないけどね」

 一人が楽しいんじゃない。一人が楽なの。

 作り笑いも、嘘も、騙し合いも、何もないから、楽なの。

 嘘をつかれるくらいなら、何も言わないでほしい。そう、紫藤さんみたいに。

 紫藤さんだったら、わかってくれる。だって、あの人は誰よりも心が綺麗なんだから。


 ああ、だめだ。考えないようにしていたのに。紫藤さん、紫藤さん、紫藤さん。


 記憶の蓋が僅かに開いて、押し殺していた感情がドロドロと溢れた。

 紫藤さんに会いたい。もう何も望まない。話したりしなくなくていい。遠くの方で見ているだけでいい。 


 紫藤さんが好きだ。

 あのカウンターのそばに立って、彼の仕事を見ているのが好きだ。

 彼の何も考えていなさそうな瞳の動きを追うのが好きだ。

 彼が、彼の全部が好きなんだ。

 見えているもの全てが。

 めちゃくちゃに壊したい。それすらも受け入れられたい。

 ああ、あなたが好きだ。


「変な人って思われたいんだろうね」

 

 ぐちゃぐちゃの感情のまま、聞こえた声が、耳から離れない。

 

「変な人って思われたいんだろうね」

 

 思われたかったのか。

 頭を強く殴られた気がして、ちょっとだけ耳鳴りがする。キィンとピアノの鍵盤の一番右端よりも、もっと高い音が頭の中で反響する。気持ちが悪い。

 わたしは変わり者に見られたかったのかもしれない。だから、人と違う行動をとって、人と違う自分を作り出したかったんだ。

 偽物なんだ。


 紫藤さんこそ、本当に変な人。本物の、変な人なんだ。わたしは紫藤さんになりたかったのかもしれない。


 わたしは、普通のどこにでもいる17歳にすぎなかった。


 ひどいことを言われれば傷つくし、同じ本はずっと読めないし、可愛いものは好きだし、本当は友達も欲しい。

 面白ければ笑うし、心外なら怒るし、悪口を言われれば傷つくし、楽しい時は楽しいと思える。ごく普通の、なんでもない、つまらない人間。

 でも強がって、本当のことが言えなくて、黙ったままこんなにも大きくなってしまった。

 体と自意識ばっかり大きくなって、わたしの中身はまだまだ子供のまま。


「変な人って思われたいんだろうね」


 紫藤さんに惹かれるのだ。浮世離れして、誰の力も借りずともそこにいる紫藤さんが。好きなものに囲まれて、幸せそうに働いている紫藤さんが。心の底から人間を寄せ付けない、紫藤さんが。


 それになりたい。

 だから考えてしまう。

 わたしもそうなりたい。

 紫藤さんになりたい。


 笑顔の紫藤さんが恐ろしかったのは、ちゃんと紫藤さんが人間であるとわかってしまったから。

 ちゃんと笑顔がある、普通の人間なのだ。

 穴だらけのパズルにピースが埋まって、ちょっとずつ人間の紫藤さんが完成してしまいそうな、そんな焦燥感に駆られていたのだ。


 でも、まだ紫藤さんが好き。

 思いっきり吐き戻したいのを我慢して、でも涙は我慢できなくて。ボロボロとこぼれる涙は何のために流しているのだろう。

 悪口を言われたから? 紫藤さんが好きだから? 多分、両方。

 一度涙が出ると、嗚咽も酷くなって、子供みたいなしゃっくりが出る。狭いトイレの個室で、ようやく息ができた。

 モヤモヤとグチャグチャが液体になって流れると、ちょっとだけ心が軽くなった。


 好きなんだ。

 ようやくわかった。

 恋とか愛とかそういんじゃない。

 わたしはただ、紫藤さんにとんでもなく大きな感情を抱いている。


 声を聞きつけたのか、誰かがドアをノックした。「ねえ、大丈夫?」さっきの暴言を吐いていた声とは思えない、優しい声色。大丈夫じゃない。でも、さっきよりかは幾分もマシ。

 ずび、と鼻水を啜って、そのまま閂錠をスライドさせて、ドアを開く。司書室のドアよりも重みもない、何でもない板っきれ。二人の少女が立っていた。キャラクターもののポーチを持って、半開きの口をこっちに見せている。

 ああ、やっぱり同級生だ。

 わたしがいたことに驚いているのか、泣いていることに驚いているのか。

 陰口の主人公がそこにいたのだから、聞かれたのだから、きっと両方だろう。そんな顔を見せられると、ひゅっと涙も引っ込んでしまう。

「え、あ、その……」

 作り笑いを作ろうとして、上手くできていない。同級生はなんとか言葉を紡ごうとして、失敗している。


「変な人、だったらよかったのにね」


 二人に笑いかけた。どんな笑顔になったのかは、わからない。そのまま横を通り過ぎた。

 

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