ただの逃げ

エリー.ファー

ただの逃げ

 さようなら。

 逃げなければならない。

 殺される。

 私は、私を取り戻すのだ。

 この牢獄から出なければならない。

 音の中にたたずんでいる自分を助け出さなければならない。

 楽譜の奴隷となっている状態では、いつまで経っても本物のピアニストにはなれないだろう。

 音楽の授業では教えてくれない。

 人生の延長で見えてくる本当の音楽。

 忘れられない思い出の中になければならない音楽。

 私は知っているのだ。

 この場所には入口がなく、出口も用意されていない。逃げる場所がなく、自分で創り出すしかないのだ。

 しかも。

 困ったことに。

 この迷宮は、そもそも存在していなかったものである。

 私がここにいることで、私の手によって生み出された迷宮でしかないのだ。私には、帰る場所がなく、行き止まりを見つけても絶望どこから安寧の地であると思えてしまうほどの心の強い揺れがある。

 助けを求めようにも、手段を持っていない。

 壁にあるのは、私から私に向けて書かれた呪いの言葉である。

 死刑になれば、音楽について考えなくなるのだろうか。私を失うためには、才能を枯れさせるしかないのだろうか。誰にも理解されないであろう悩みの中に自分という価値を見出そうとするのは明らかに自己陶酔ではないのか。

 誰かに聞かせるために音楽を奏でているはずなのに、私の姿はなくなっていく。

 文化が胡坐をかいていて、私の体はその後ろである。

 影の中に隠れて、全く見えない。

 観客たちは、何の興味もない。

 それもそのはずである。

 誰も、私のことなど知らないからだ。

 この迷宮には、脱出を目指す挑戦者が存在しないのである。

 誰も気が付いていないのだ。

 ここが、迷宮であるということに。

 夏が来て嘘をつき。

 春が来て夢を見る。

 秋にはワルツが特別合うパイを用意しなければならない。

 冬は仏の顔を見つめながら信仰対象を探す旅にいかなければならない。

 迷宮の中で、自分を見つけるなど大間違いだ。

 私には時間がない。

 即興でしか得られない快感があり、世界がある。

 その意味を多くの人に理解させなければならないのだ。

 文字数を気にして小説を書くようなものである。

 音符を見ながら、鍵盤の位置を気にしながら、客の顔を見ながら。

 演奏をするべき。

 とはならない。

 大間違いだ。

 私は誰もいない場所で、音を生み出し続ける。

 自分の知っている世界なんてものは、どこにもない。常に誰かが生み出した世界が、誰かの手によって更新され続けるだけである。黒鍵と白鍵の間に見える、本当の音を探すために、大きな音で誤魔化して拍手喝さいを貰う仕事に甘んじている。

 お金をもらう。

 金に身を任せる。

 しかし。

 その姿を見せることはできない。

 誰も見ようとしない。

 考えようとしない。

 感じようとしない。

 失おうとしない。

 私は、今、演奏という試練に立ち向かうために、自分の体を酷使している。

 もうすぐ役に立たなくなるだろう。

 けれど。

 そう思ってから、何度も使い続けて今がある。

 不思議なものだ。

 私の勘は全く当たらないのである。

 気が付けば、私は何度も限界を壊し、何度も限界を作り、そして、限界の定義自体に疑問を抱くようになっている。

 私はこの場所で音楽と共に死ぬだろう。

 


 それが最も素晴らしい人生だと確信している。

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