3-8 償い



 成長してこの紅宮こうきゅうを出る日までは、翠花すいかとして夢月むげつは生きることを決めたが、その前にやらなければならないことがあった。


 ひとつは姚泉ようせん亡き後の紅宮こうきゅうに、新たな主を据えること。もうひとつは、生前の翠花すいかがあの金木犀の根本に埋めていた箱の中身を燃やすこと。


 入れ替わる前、あの子と最後に交わした約束。母親のことを守って欲しいという願いと共に告げられたそれは、遺書の処分。


 いつ死んでもおかしくないその身で、ひとの目を盗んで必死の思いで埋めた箱の中に。書いたのはいいが、結局は母親を悲しませるだけだろうと思って隠したもの。


 瞳は朱であったが、その頃の翠花すいかは身体が弱すぎたことと、術士としての修練を行っていないこともあり、の一族の能力を持っているにもかかわらず使うことが叶わなかった。


 薄暗い中、箱を開けて中に入っていた文を取り出す。小さな手の平の上にぽっと生まれた小さな朱色の火は、一瞬にしてその文を灰にした。


(····これで、あなたとの約束は叶えたわ。今生の未練は捨て、輪廻転生の輪に加わるといい。もうひとつの約束も必ず守るから心配は無用よ)


 灰は風に乗って舞い上がると、灯篭の灯りでぼんやりと照らされた庭の花々に見送られ、やがて闇の中に消えてしまった。


蓉緋ゆうひと話がしたいわ。問題はどうやって、彼のいる鳳凰殿まで行くかよね。変にこの子の姿で能力以上のことをすれば怪しまれるし、今後、動きづらくなる。蓉緋ゆうひ紅宮こうきゅうに来ることはまずないから····)


 さっきここにやって来た逢魔おうまに頼めばよかったのだろうが、話の流れ的にそういう状況ではなかった。となると、後は無明むみょうの力を借りるしかないだろう。あの子が光焔こうえんを去る前に。


 逢魔おうまが言うように自分のしたことで主となった無明むみょうが胸を痛めていたのなら、謝らなければならないという気持ちもあるが、直接伝えるのは難しいかもしれない。


(本当に不思議な子よね。私なんかのために、)


 もはやひとですらない特級の妖鬼として存在する、自分。

 悪いこともたくさんしてきたし、その行いによって死んだ者もいる。


 それでもこの手を取ってくれるのなら、これからはあの子のために生きようと決めた。


 誰でもないあの子のために、今更だけど善行をしても遅くはないのではないか。新しい身体を手に入れたばかりで、馴染むまでは少し時がいる。いつか、必要な時に役に立てるのなら本望だ。


 土で汚れた手を池の水で洗い、持っていた可愛らしい布で拭く。少しの疑念も持たせてはいけない。ただ花の様子を見にいく、そういう約束だったから。邸内に戻ると、母である翠蘭すいらんが部屋の扉の前で待っていた。視界に入った途端、心配そうにしていた顔が花のような笑顔に変わる。


「おかえりなさい。用事は終わった? お菓子を貰って来たから、一緒に食べましょう、」


「うん。ねえ、お母さん。私、お手紙を書きたい。この地の守護聖獣さまがお戻りになられたとみんなが話していて、ぜんぶ神子さまのおかげだって言っていたわ。私ね、神子さまに御礼のお手紙を届けたいの」


 ちょっと強引な理由かもと自分でも思ったが、翠蘭すいらんは「あら、素敵なことね」と素直に喜んでくれた。基本的に甘いのだ。今まで苦労をした分、少しでもこんな風に明るく笑っていてくれたら、翠花すいかも救われるだろう。


 ふたりでお菓子を食べた後、筆と紙を用意してくれた翠蘭すいらんに習い、わざと下手に書くのは少し骨が折れたがなんとか形だけの文が完成する。子どもの書く文だから、単純な言葉で綴られた御礼の手紙で十分だった。


「神子さまはとてもお優しい方のようだから、きっと受け取ってくれるわ」


「でも、私なんかが会えるかな? どうしたらお手紙渡せる?」


「手渡しをしたいの? そうね····明日、護衛の方に事情を話して、蓉緋ゆうひ様に取り次いでもらえないか頼んでみましょう。蓉緋ゆうひ様もお忙しいでしょうから、お願いが叶うかはわからないけれど、」


「その時は、蓉緋ゆうひさまから神子さまに届けてもらえるかな?」


 そうね、そうしましょうと、翠蘭すいらんは頷いた。夜。隣で眠っている翠蘭すいらんを起こさないように寝台を抜け出す。机の上に置いていた文の入った包みを開けてそっと抜き取り、目を盗んで書き直した文と中身をすり替えた。


(これで、よし、と)


 それは無明むみょうに当てた文と、蓉緋ゆうひに当てた文。無明むみょうなら後で読むなんてことはせず、その場で一緒に読むだろうと予想。


 無明むみょう逢魔おうまから翠花この子夢月だと聞いただろうから、話は早いはず。こんな遠回りな計画を立てなくてはならないのは、無明むみょうが呼べば従者となった自分はいつでも召喚されるが、自分からはどうにもできないからである。


 いつもの如く、魂が完全に定着すれば本来の力も戻り、姿を消して逢いに行くことも可能なのだが、如何せんこの子の身体は弱い。鍛える必要があるが、明確な理由がなければ母親が危険なことはさせたくないはず。心配をかけるのはこの子との約束を破ることになってしまう。


 とにかく制約がありすぎるので、このようなやり方しか今はできないのだ。逢魔おうまも話したいことは話しただろうから、もうここに来る理由もない。


 後は半分運任せだ。ゆっくりと足音を立てないように寝台に戻ると、横で穏やかに眠る翠蘭すいらんのぬくもりに抱かれる。母親という存在。過去の記憶の中をどう探しても見つからないもの。


 ひとだった頃。視界に映るモノがぐにゃぐにゃに歪んで見え、正しい形を成していなかった。天涯孤独だったあの頃、妓楼の姐さんたちが唯一の家族だった。顔もよくわからないので、声とそのぬくもりだけが記憶に残っている。


(母親か····色んな身体に魂を移し続けてきたけど、まさかこんな風に普通に生活をする日がくるなんて、考えもしなかったわ)


 いつだって、自分の憎しみのために力を頭を使ってきた。最低な男どもを最悪な死に方にさせるため、様々な謀をしてきた。そんな自分が、まさか普通の子どもとして母親に抱かれる日が来るなんて。


(私の策のせいで死んだ男たちに対して罪悪感なんて微塵もないけど、彼女に対しては少し想うところがある)


 だからせめて、翠花すいかとして生きている間は彼女を悲しませないようにしないと。それが、彼女の大切な娘の身体を使わせてもらっている、せめてもの償いになればいいのだけれど。


 夢月むげつは少し重たくなってきた瞼を閉じ、朝が来るのを待った。



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