2-17 少女、鬼に助けられる



 それは、まだ"ひと"だった頃の話。

 ニ百年以上は昔の、苦い思い出である。


 少女の視界は生まれつき歪んでいた。生まれた時から、視界に映るモノがぐにゃぐにゃに歪んで見え、正しい形を成していなかった。


 少女は奇形というわけでもなく、見た目は可愛らしい女の子だったため、周りの者たちは天涯孤独の身となった彼女の事を、助けてくれることが多かった。


 顔が良いというのは、得をするのだな、と少女は幼いながらに思ったが、時に身の危険を覚えたこともある。


 普通ではない、ということがその者たちの性癖を刺激したのだろう。何度か酷い目に遭いかけた経験が物語る。


 だから、少女は賢い頭で考えた。


 どうしたら自分は、たったひとりで、自分の力で、この世の中で生きていけるだろう、と。


 弱いと思われたら、付け入る隙を与えてしまうし、強いから大丈夫だろうと思われたら、助けてもらえなくなる。


 少女は考える。


 この地は日中と夜の顔ががらりと変わる、金華きんかの地。妓楼と呼ばれる夜の見世が、ずらりと建ち並んでいるのだ。


 その見世のひとつである、「紅椿楼コウチンロウ」と呼ばれる見世で雑用をさせてもらい、食べ物を貰うのが少女の日々の暮らしであった。


 十二歳の少女に客の相手をさせるほど、不条理な世の中ではないようで、その点だけは助かっている。住み込みなのもいい。日々の少ない駄賃をちょっとずつ貯め、いつかのために備えているのだ。


 歪んだ視界が彼女の日常であるため、今更これに対して何か思ったりはしない。ぐにゃりと拉げた姐さんの顔も、兄さんの顔も、お客さんの顔も、猫も犬も。触れてみれば全く違っていて、その不思議な違和感が楽しかったりもした。


 猫はふわふわで、耳がぴんとしていて、尻尾もゆらゆらのんびり。

 犬は口が大きく、もふもふで、嬉しいと尻尾が高速で動く。


 ひとは優しかったり、嫌な奴だったり、厳しいけど実は優しかったり、変だったり、色々違うのだ。


「······最悪」


 数刻前、道に迷っていた時に助けてくれた男がいた。手を引かれ、疑うことなくついて行った先で、襲われかけた。必死に逃げてきたのはいいものの、ここ、どこ? 状態なのである。


 葉っぱがざわつく音がする。

 空気は冷たい。


 獣の声が遠くから聞こえる。鳥とかそういう類のものとは別に、なんだか人の唸り声のようなモノに似ていて、怖かった。


 市井しせいの楽し気な賑わっている雰囲気はまったくなく、ニオイは土とか自然の香り。もしかして、森の中なのでは? と今更ながら気付く。


 しかも肌寒さを感じるので、夕刻が近付いているのだろう。

 金華きんかの地の近くの森などひとつしかない。


(ここって、もしかして······殭屍きょうしの森?)


 本来の名は違う気がするが、皆が口を揃えて"殭屍きょうしの森"と呼んでいる場所で、その名の由来はそのまますぎて説明はいらないだろう。


 殭屍きょうしを閉じ込めている、"動く死体"だらけの森ということ。


 そもそもあの男が、自分をどこへ連れて行こうとしていたのか。市井しせいのニオイや音が、少しずつ離れていくのを不安に思った少女は、男に訊ねたのだ。


「お兄さん、どこに行くの? 私、紅椿楼コウチンロウに帰りたいのだけど」


「もうすぐ着くよ」


 男は、なにを訊ねても「もうすぐ」と言って、手を離してはくれなかった。少女はまずいと思い、声を上げて暴れだす。しかし助けてくれそうなひとが周りにいないことにも気付く。


 この地は、賑やかで華やかな市井しせい、つまり中心地と、貧しい者たちが住まう地域が、まるで線を引いたかようにふたつに分かれている。


 この地を治めている雷火らいかの一族は、この格差に対して特にになにかするわけでもなく、日々市井しせいで起こる怪異を鎮めることに専念している。


 時に、無法者たちの犯罪行為を取り締まることもあるが、要請があれば、なのだ。なので、市井しせいには対人用に、自警団のようなものがいくつか結成されており、人同士の揉め事はそちらに任せているというのが、現状である。


 そんな無法地帯となっている地域に連れ込まれたようで、そこから真っすぐ逃げてきたつもりなのだが、戻ろうにも道がわからない。森のどの辺りに自分がいるのかさえ、分からないのだから。


 そんな中、突然現れた気配に気付き、少女は警戒する。音もなく、それは本当に突然現れたので、少女は青い顔で、そこにいるのだろう"なにか"に問いかける。


「あ、あなたは······なに?」


 訊ねるのと同時に、なにかが弾け飛ぶような音が後ろの方でした。悍ましい声も同時に鳴って、すぐに消えた。


「なに、って言われても。俺は、そうだな、君たちが言うところの"鬼"みたいなもの、かな?」


 鬼、とは。

 恨みや未練を残して死んだ幽霊のようなもの。


 市井しせいにもよく幽鬼や亡霊、鬼が騒ぎを起こす。しかし、実際見たことなどないし、術士のひとたちが勝手にやっつけてくれるので、あまり関りはない。


 少女はますます顔を青くする。そんな者が目の前にいるなんて、もう、死亡確定ではないだろうか?


「まあ、とりあえず、ここにいると殭屍きょうしの餌になるだけだから、一緒に森を出るっていうのはどう? 君の後ろにいたのは、もう片付けたけど。ここの森のはキリがないし、俺も面倒なのは御免だ」


「た、助けてくれるの? 鬼なのに?」


「鬼がひとを助けるのは、おかしいこと?」


 目の前で衣が擦れる音が微かに聞こえた。歪んだ視界に映るのは、やはり歪んだモノばかりで、この鬼がどんな顔をしているのかさえわからない。しかしその声はどこか含みがあるが、悪いひとには思えなかった。


 おそらく、自分の前に手を差し出してくれているのだろう。


 少女は戸惑いながらも、今の状況をなんとかするには、この自称"鬼"のお兄さんに、頼るしかなかったのだ。


 その先で食べられるかもしれないという考えも過ったが、その時はまたその時考えようと決める。殭屍きょうしたちの餌になって、生きたままこの身を食い散らかされるよりは、幾分かマシだと思ったのだ。


「私、目が良く見えないの。というか、歪んで見えるんだ。だから、お兄さんがどんなに醜くて怖い顔をしていても、全然驚いたりしないんだからね!」


 それを聞いた鬼は、ひと呼吸おいて、けたけたと笑い出す。少女はいたって真剣で、笑われるのは不本意だった。


「はは。君の知ってる鬼って、醜くて怖いんだ? まあ、それも面白いよね」


「なにも面白くなんかないわ。私、これからあなたに食べられるかもしれないんでしょう? 笑ってないで、少しは私の心情を考えてよね!」


 少女はむっと頬を膨らませて、声のする方を見上げる。すると、鬼はますます可笑しく思ったのか、とうとう「はは! 君、ホント面白いね!」と笑い出す始末。


 そしてひとしきり笑った後、鬼は少女の手を取り歩き出す。その手は死人のように冷たく、少女の手だけが温度を持っていた。


 気付けば、市井しせいの音が耳に戻ってくる。握っていた手の感触はいつの間にかなくなっていた。あの鬼は、単純に自分を助けてくれただけ? なんの見返りもなく?


 少女は自分の身体がどこも欠けていないことを確かめ、首を傾げる。


(夢でも見ていたのかな? でも、まだあの冷たい手の感触が残ってる)


 怖い思いと不思議な思いを一度に経験してしまった少女は、とにかく見世に帰ろうと、本来の目的を思い出す。

 

 賑わい方から感じるに、もう夜になっている気がする。人々が行き交う市井しせいの温度と、見世に呼び込みをする者の声。



 少女はその声に導かれるように、紅椿楼コウチンロウへと帰還するのだった。



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