2-7 狼煙と夢月



 交渉が成立し、姚泉ようせん無明むみょうの手を取り空間を出ようとしたまさにその時、ふたりの横の壁が大きな音を立てて破壊された。もちろん空間なので破片などは飛ばず、ぽっかりと暗黒色の空間が生まれただけだったが、その衝撃波のようなものが、ふたりの衣を台風の如く強く靡かせた。


 ゆらりとその暗黒色の空間から姿を現したのは、細身で右が藍色、左が漆黒の半々になっている衣を纏った人物。

 美しく細い黒髪は、後ろで三つ編みにして赤い髪紐で結んでおり、左耳に銀の細長い飾りを付けている、つまり、青年姿の逢魔おうまだった。


 その金色の双眸が冷ややかに見据える先には、特級の妖鬼である姚泉ようせん、否、夢月むげつが映っていた。


「やっと、みつけた······」


「あ、逢魔おうま。どうしたの?」


 幼子の姿ではなく、いつもの姿に戻っていた逢魔おうまに、無明むみょうは首を傾げて問いかける。いつもと少し様子の違う逢魔おうまは、どこか近寄りがたい気配を纏っていたが、無明むみょうはまったくなんとも思っていないようで、隣に控える夢月むげつは目を丸くしていた。


無明むみょう、こっちに····」


 言いかけて、逢魔おうま無明むみょうの手を握っている夢月むげつに対して、冷ややかな笑みを湛えた。もちろん、夢月むげつはその変化にすぐに気付いた。そしてあえて先に口を開く。


「あら、随分なご挨拶ですこと。私があなたになにかしましたか、狼煙ろうえん様。妖者殺しで名高い渓谷の妖鬼が、こんな遠くまでご足労されるとは、お暇なんですね、」


「まあね。それにしても新しい皮の悪女面、あんたの性格が滲み出ててよく似合ってるな。似合いすぎてて違和感ないから、全然気付かなかったよ、」


 ふたりの視線の先から、バチバチと見えない閃光がぶつかり合っているような気さえする。表情はお互い至って冷静で、嫌味な笑みがそれぞれに浮かんでいたが。


「あ、あれ? ふたりは知り合い?」


「いいえ」


「まったく」


 え? と無明むみょうはふたりのその返答に対してますます首を傾げる。知り合いというほど、親しい間柄ではないと言いたいのだろうが、その反応はまるで子供の喧嘩のようだった。


「もしかして、この子と一緒にいた幼子って、」


 口に手を当てて、あら?とわざとらしく首を傾げる。明らかに面白がる材料にしようとしていることに気付き、逢魔おうまは先手を打つ。


「俺だよ。可愛かったでしょ?」


 自信満々に言い切った。


「あの目付きはどう見ても蓉緋あのこの隠し子だと思ってたのに、まさかの狼煙ろうえん様だったのですね!」


 ものすごく大袈裟に夢月むげつは驚く素振りを見せる。逢魔おうまがぴくっと口の端を歪ませ、珍しく引きつった笑みを浮かべた。蓉緋ゆうひの隠し子、と言われたのが気に食わなかったようだ。


「その方があんたたちを完璧に騙せるだろう?」


「ええ、本当に騙されましたわ。でも途中から、こちら側の者だという事だけは気付きましたけれど」


 無明むみょうを真ん中にして、ふたりの視線はいつまでもバチバチしていた。


「ええっと、ふたりとも? 知り合いってことで良いんだよね?」


「いいえ」


「まったく」


 ええ〜····と、無明むみょうは困った顔でふたりを交互に見やる。どう見ても昔ひと悶着あっただろう、知り合いにしか見えないのだが。おそらく、仲は良くないのだろうけれど。


「うーん。とにかく、状況報告をしたいから、まずはここから出よう。逢魔おうま、幼子に戻れる? あと、あなたはやっぱり紅宮ここにいて? 一緒に出て来るのを見られて、こちら側に付いたことを知られても良くないし」


「あら残念。でもまあ仕方がないわね。最後まで役は演じ切るわ」


 握っていた手を解き、名残惜しそうに夢月むげつは嘆息する。そして、くすりと笑みを浮かべると、無明むみょうの耳元に唇を近づけた。


「可愛い主、私の名を教えてあげる。私の真名は――――。ふふ。なにかあったら、私の名前を呼んでね?」


「····あ、えっと、うん! ありがとう、力になってくれて」


 その行為に、逢魔おうまは頬を膨らませて何か言いたげだったが、言われた通りに幼子の姿になり、無明むみょうの花嫁衣裳の袖を掴んだ。


「駄目だよ、無明むみょう。絶対、それ・・の真名は呼ばないで?」


 鬼神きしん四神しじん、特級の妖鬼さえも従えてしまう主に、逢魔おうまは口を尖らせて訴える。その様子を見ていた夢月むげつは、自分の知っている狼煙ろうえんが、これとは別人なのではないかと思ってしまう。


 それくらい、心を許している存在なのだろう。

 気持ちはよくわかる。目の前の少年は、本当に不思議な存在。これが"神子"という絶対的な存在なのだろうか。


 夢月むげつはいじり倒したい気持ちでいっぱいだったが、なんとか思い留まった。


「じゃあ、行くね。そろそろ姿を見せてあげないと、みんなに突入されちゃうかもしれないし」


 無明むみょう老陽ろうようから貰った羽織を頭から被り、逢魔おうまが開けた穴の方へ足を向けた。


「裏口に通じるようにしておいたから、すぐに外に出られるわ」


「うん、ありがとう。じゃあ、よろしくね」


 明るい声が響き、そして静寂が戻る。


「これが全部終わったら、今度はなにをして遊ぼうかしら」


 ひとに紛れて、普通に暮らすのも悪くないかもしれない。昔のように、ひとであった頃のように、穏やかに生きていくのも。そこには、良いことも悪いこともあるだろうけれど。


 妖鬼になった原因は、その悪いことが重なったせい。忘れることはないが、もうどうでも良いと思えるくらいの時間は過ぎていた。


 夢月むげつは椅子に座り、頬杖を付いて想う。


「その前に、まずは駒を動かしてあげないとね」


 それが、初めて自分の真名を預けた、唯一の主の願いなら。



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