トーベ・ヤンソンの『猫』の思い出

鈴乃

トーベ・ヤンソンの『猫』との思い出

『あなたの思う、愛とはなんですか?』


 中学生のときの国語の宿題だ。


 クラスメイトは『素晴らしいもの』『人として大切なもの』などと答えていた。

 ひねくれたガキだった私は背中がかゆくなった。


「いや、猫の話だろ?」と。


 教材はトーベ・ヤンソンの『猫』

 自由と野生を愛する飼い猫と、そんな彼(彼女?)を家に縛り付けたい女の子の関係性を描いた短編だ。


 飼い猫は野生の強い子で、夜中に飛び出してはネズミをとってきて、女の子の枕元に置いたりする。

 女の子はそんな彼に『飼い猫らしく』してほしいと願い、たびたびヒステリックになる。

 困った家族は飼い猫をご近所さんの家の猫と交換してもらう。

 この猫はとても柔和な性格の『飼い猫らしい』猫で、女の子の理想は叶えられたかのように思われた。

 が、あろうことか、女の子は猫に当たり散らす。


「ネズミを取りなさいよ!!」

「部屋をバタバタ走り回りなさいよ!!」

「もっと『猫らしく』して!!」


 最終的におばあちゃんを夜中に叩き起こし、飼い猫を連れ戻してほしいとのたまう。

 おばあちゃんは言う。

「あの子が帰ってきたらどうなるか、わかっているだろう?」

 女の子は答える。

「ひどいことになるけど」

「私が愛しているのは、あの子なんだもの」


 うろ覚えなので細かいセリフの違いは許していただきたい。


 今なら分かる。

 これは愛の縮図だ。

 愛していても恋人を自分の思い通りには動かせない。だからって、理想そのものの別人を愛することはできない。

 だって愛しているのはあの人なんだもの。

 はーーままならないよね。愛ってそういうとこあるよね。


 だが10代の私はそうは思えなかった。

 自分とさして変わらないコムスメが猫に対して、愛なんて大げさな表現を持ち出して、自分のわがままを正当化しようとしているようにしか見えなかったのだ。


 当時我が家は犬を飼っていた。

 自由奔放、言うことを聞かない犬だった。

 もちろん今の時代、しつけの失敗は飼い主の責任なんだけど、それを差し引いても我の強い、意志の強い犬だった。

 いい友達であり兄弟だったけど。


 犬すら思い通りにならない。気ままが代名詞の猫なんてもっとだろう。それがイヤならなんで飼った。

 なぜこの女の子は相手が別の意志を持つ生き物であることを理解しない?

 なぜ家族は、おばあちゃんは、それを教えない?


 腹立たしかった。

 それはさておき私は宿題の答えを発表した。


ーーーーーー


 小学生のときは、ゲームをしすぎると親に『そろそろやめなさい』と注意された。なのに、最近は長くゲームしていても何も言われなくなった。

理由を聞いたら、


「もうあなたはゲームをしすぎると目が悪くなると知っている。リスクを知った上でやってるんだから、次はやめどきを自分で決められるようになりなさい。私はあなたがそうできる子だと信じている」


「そして、やりすぎだなと思いつつやめなかったなら、結果は自分で受け止めなさい。中学生にもなって

『親が止めてくれなかったから目が悪くなった』

と言うのは、我が家では甘えだよ」


と言われた。

 先回りして守るばかりでなく、相手が承知しているリスクを任せること。相手が責任を取れる人だと信じることが愛だと思う。


ーーーーーーー


 先生は言った。


「えらい具体的な例出てきたな」


 クラスは若干ウケた。

 が、多分私はスベっていた。

 ノートには

『物理的な概念から抽象的な表現に移行してほしかった』

と書かれていた。


 私は納得がいかなかった。


 愛が素晴らしいからなに?

 そんなのみんなわかってるし、そう言わなきゃいけない同調圧力すらあるだろ。


 具体的で何が悪い!!

『人として〜』とか『素晴らしいもの』とか、そんな誰かが言ったフワフワした表現でいい感じにしようとするな!!


 愛が原因で登場人物全員ひどい目にあってるのに、この話を見て『愛=素晴らしい』と思うのか?


 大体、愛があるせいでこんな面倒なことになってるんだ。

 愛がなければ女の子は執着しない、飼い猫は自由を縛られない、おばあちゃんは夜中に叩き起こされない。

 愛なんてないほうが幸せだ。


 だが当時の私はヘンに自意識をこじらせていた。またはこじらせきっていなかった。

「愛なんていらないものだ!!」

 なんて主張しようものなら、よくて親も教師も友達もあなたを愛しているのにとお説教がスタート、悪くて『愛を信じてないアタクシかっけー』キャラになる未来を視た。クラスメイトは気のいい人ばかりだったのに。

 まぁ本当に聖人かはさておき、少なくとも見えるところで本人の陰口をいう陰湿さはなかった。

 あれも若さかもしれない。年をとると『陰湿な自分への恥じらい』みたいなものが薄れている気がする。


 話がそれた。


 帰宅してなお悔しくてたまらない私は思った。


 そもそも、女の子のコレは愛じゃないだろ。


と。


 多分私は『自由にさせることが愛』の民族だったのだ。

 それをこのコムスメめ、『愛』を看板に束縛とヒステリーを正当化するなんて、愛持つ者の風上にもおけないーーーー


 と、心のどこかで女の子にムカついていたせいで、私はスベったのだ。


 ほらやっぱり愛なんてろくなもんじゃない。

 自分の思い描く『愛の定義』があったせいで、他人の愛を認められない。

 愛を持っていなければスルーできる問題だ。

 自分の定義を持ちつつ人の愛を尊重できれば最高だけど、そんなフワフワしたいい感じのオチにするのが最適解なのか。


 結局自分のちっぽけなこだわりを

『コレが自分の愛のカタチなんで! ちっす!』

とか言っているコムスメなのだ、今の私も。


 あの時

『あなたの思う、愛とはなんですか?』

に対し、

「褒めなしゃーないもの」

くらい言ったらウケたかもしれない。


 度胸とユーモアが足りなかった。

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トーベ・ヤンソンの『猫』の思い出 鈴乃 @suzu_non

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