004. 選択と集中は正しいのか?

 003では日頃のストレスからか内輪ネタに走ってしまったので反省しつつ、004。

 本稿では「カオスと非カオスの接続・統合」を扱う。ここが「選択と集中の妥当性」に繋がるので、じっくり(?)と読んで頂けると幸いである。


 カオス理論や非カオス(=一般の学問)については、よく知られていると思うので、思い切って省略する。

 地球42億年の歴史を語る上で、「日頃絶対に起こらない出来事」が「大きな影響を及ぼしてしまう」といった事は、よくある事・・・・・である。


 こうした「確率が異常に低く、日常の想定に入れるのに不適」だが「起こる時には起こる」といった出来事に関する扱いは、2通りある。

 ①起こるかどうかに関わらず備える

 ②徹底的な分散により生存戦略を採る


 ①に関しては、地震や火山噴火といった「予測し得る災害」に関して有効である。そのため、「予測し得る災害」には大抵このアプローチが取られる。


 しかし問題は「予測不能な災害・全くのカオス」に対してである。これに関して有効なのが「多様性による回復力 (resilienceレジリエンス)の確保」である。本来多様性云々の議論には、こうした側面がある筈なのだが、どいつもこいつも回復力の議論に持ち込まないので、変な方向に飛んで行っている感が否めない。


 これはあくまで「万学に通じる一般理論としての、カオス性と非カオス性の統合」を図る試みであるので、予測不能なカオスに対しても想定せねばならない。


 カオス性が生じる時と、そうでない時、殆どが後者であるが、前者をカオス期、後者を安定期と呼称する。またカオス的イベントの事を「インパクト」と呼称する事とする。インパクトが生じる時には、カオスの影響が通常法則に優越する。


 カオス期を挟んで、前安定期と後安定期では次のような法則が成立する。

 ①カオス期には、前安定期で通用していた法則が通用しない。

 ②前後の安定期で発展した形態は「その環境において効率的な形態」である。

 ③カオス期に発展した形態は、効率的だとは言えない。


 ①については、カオス期が「カオス性に支配された混沌とした時期」であり、前安定期に通用していた常識が通用しない。そのため、効率的なものが死滅する事や、非効率的なものが逆転する事が、十分あり得る。

 ②については、当然安定期においてはカオス性が存在せず、普通の古典法則が成立しているのだから、それに則って効率的なものが残る。「ボクのかんがえた進化論解釈」の誤謬はここにある。カオス性を考慮しないが故に、自然淘汰によって、効率的なものしか残らないと信じ込んでしまっている。弱肉強食、強いものが残ると信じている大馬鹿者も居る。困ったものだ。

 ③については、カオス性が支配する環境で生き残ったとて、それは全て偶然の女神が微笑んだだけに過ぎないので、そのもの自体に何か優劣がある訳ではない。カオス期において、全ては偶然なのだから。


 ★ ☆ ★ ☆ ★


 では「選択と集中」と「全域に分散」と、どちらが耐久性が強いのだろうか。

 どちらが「優れている」と言えるのだろうか。


 まずは「優れている」という言葉の定義をたださねばならない。

 大概の人間は「繁栄」と答えるのではないだろうか。しかしこれは現在における繁栄を指すのであって、現在という時の軛を解き放ってしまえば、この定義は宜しくないのではないだろうか。

 古生代に繁栄した三葉虫、中生代に繁栄した恐竜、新生代に繁栄している人間。これらは「優れている」のだろうか。三葉虫はP-T境界に起きた2段階の環境変動に耐えられなかったし、恐竜は隕石を前に全くの無力だった。人間だって絶滅を前には無力だろう。

 生物は多様性を持つ事によって、絶滅の中でも生き残る種を生み出してきた。つまり、「何が・・どの種が・・・・優れているか」を論じる事自体が無意味ナンセンスなのである。


 どれが優れているか、を論じる事が無意味だとは示せたが、では「どういう在り方が」「生物全体としてより良い形」なのだろうか。ここで001の「生物とは」という問題に立ち返る。生物とは自己増殖するものである。この定義において、つまり本稿においては、細胞ではないウィルスやプリオン、コンピュータウィルスや言語・概念・法人・情報なども、幅広く生物として包摂している。

 そう考えると、生物として「優れている」のは、「自己増殖 = 生き永らえる事」にあるのではないだろうか。(この定義は、私の親しい人間の、カトリシズム者としての「生物としての在るべき姿」という言説に強く影響を受けている点があるかもしれない。追記しておくと私は真言宗智山派の信者であるのだが)


 突然襲い来るカオス期には、多様性や分散で対抗するしかない。


 ここで思考実験をしよう。

 ①前安定期において、原点Oに近いほど穴を掘り易いという法則がある

 ②カオス期には、法則がぐちゃぐちゃになる上、隕石が降ってくる

 ③後安定期において、法則は変化しており、変化後の様子は予測不能である


 こうした状況において、人間をどのように配置すると、掘った部分を最大化できるか。但し、前安定期、カオス期、後安定期がどれほどの長さであるか、後安定期にどこが最も掘り易いか、こうした情報は一切分からないのだ。勿論、隕石が頭上に落ちれば死んでしまうし、隕石の大きさも全く分からない。

 (※掘り易さ関数についてここでは考えない。掘り易さ関数が原点O以降の定義域において単調減少関数であれば、どんな関数でも問題なく考える事が出来るからである。)


 この時、「各時点での掘った部分の最大化」に照らして考えると、前安定期には原点O近くに人間を集めて一気に掘らせるのが一番である。これが「選択と集中」の基本理念であり、間違いだとは言えない。

 しかし、隕石がどこに落ちるかは全く分からない。微小規模のものが全然違う所に落ちるかもしれないし、原点目掛けて隕石が落ちてくるかもしれない。


 仮に生存を最優先するのであれば、効率度外視で全域に散開させれば、超広範囲に対するインパクトでない限りは生き残り得る。厳密には隕石という表現よりも「どの場所にも均等に1/2の確率で降り注ぐ災厄」と言えば、より妥当性が伝わるかもしれない。1/2としているのは、カオス期に起こるインパクトがどこに影響を与えるかなどを予測のしようがなく、そんなものは全て(取り敢えず)1/2と仮定するしかないからである。


 ここで、穴の掘り易さ = 効率性、人員配置 = 特化の度合い と考えると、より一般化できるだろう。(繰り返すが、これは「万学に通じる一般理論としてのカオス・非カオスの統合を図り、選択と集中の妥当性に関して検討するもの」である)


 では、最適なリソースの配分とは?

 答えは「考える意味がない」。というのも、インパクトによって法則がしっちゃかめっちゃかになり、後安定期の法則なんて前安定期に予測する事が不可能であるからである。

 なので、「選択と集中」に関しては、刹那的に生きる、前安定期に於ける最適化を目指すのであれば結構であるが、長期的に考えると「優れてるとも劣ってるとも言えない」が事実といった所だろうか。第一、まずどこに配分すれば滅ばないか、滅ばない所のうちで最も効率的な場所がどこか、そんな分からない事について考えても「仕方がない」のである。

 ただ1つだけ言える事があるとするならば、「選択と集中」はリスク分散の観点では、やはり危険性があるという事である。


 結論: 選択と集中は、優れても劣ってもいない。

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