002. 恋愛とは

 恋愛とは何だろうか。


 広辞苑第6版によると「男女が互いに相手をこいしたうこと」、新明解第7版には「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」とある。


 私の場合は「互いに」が成立した先例ためしがないので、新明解の定義「他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情」を採用している。(これなら片想いだって恋愛って言えるからね!!!)


 恋愛感情については「19世紀になって生まれたものであり、それ以前は存在しなかった概念・・」だという話もある他、恋愛結婚が浸透する以前には「結婚してから好きになる」という考え方の方が主流だったという。


 001で述べた「情報的生物/情報体」と「物質的生物/物質体」、理性と感情というように分類するのであれば、恋愛感情・・とは、本当に感情なのであろうか? という疑義が提出可能である。


 日本では「結婚→出産」の流れが普通であるが、欧米などでは「出産→結婚」といったデキ婚ルートも多く、最初に知った時には大変驚いたものである。唐突に何の話だと言われそうだが、恋愛結婚が主流となった現代日本は特異・・かもしれないという事である。

 恋愛とは「何もない所から生まれるもの」というのが、日本社会的な解釈だろう。しかし実際の所は「何かあって発展するもの」らしい。


 実際、幼稚園時代には「小学校になったら」、小学校時代には「小学校になったら」、中学校時代には「高校生になったら」、高校生時代には「大学生になったら」、という風に出会いに期待し、玉砕し続けた人は少なくないのではなかろうか。


 我々現代人が「恋愛感情・・」と呼んでいる概念・・は、本当の所は感情ではない・・・・・・のではないかという疑問に関して、それを支持する傍証ばかり提出できてしまえている。


 はてさて、「恋愛」は感情なのか、理性なのか。

 まず「恋愛=感情」だと仮定して検討してみよう。


 恋愛が感情であるのであれば、それは単なる化学反応に過ぎない。故に人類やその他社会性を持つ生物以外、それこそ有性生殖を行う全ての生物が持ちうる反応という事になる。


 ……はたして、恋愛感情とは反応なのだろうか?

 単なる物質的なものであるのであれば、それは単なる「愚かな反応の1つ」として捨て去る方がより効率的で生存に適している事になってしまう。

 実際、新明解の定義「全てを犠牲にしても悔いないと思い込む」に則れば、非効率な事極まりなく、辞書的定義は「感情」だという判決を下している事になる。


 単なる物質的反応であるというのを、敢えて私は否定したい。というか、私の信条として「どうにか否定したい」。という訳で、ここから先は「ボクのかんがえた恋愛論」である。身勝手を嫌う者は次話へGO。


 そもそも、私が恋愛を理性的なものとして捉えたいのには理由がある。それは機会不平等性である。感情的な反応と捉えるならば、それは「反応が起こるかどうかの偶然」でしかなく、そんなものを待ってはいられない。待っていたら孤独死するに決まっているからである。(割と短絡的だなオマエとか言わない)

 若くして死んだ者と、寿命を全うした者、この間の機会不平等が存在する事を、私は肯定したくない。死んでしまえば全て終わってしまうからね。この世がいつまで続くかも分からないし。


 恋愛を理性的なものと捉えるという仮定に於いて、恋愛感情とは「極めて自発的なもの」である事を認める。

 議論が混雑するので整理すると、①恋愛が感情であるという仮定においては、「偶然に左右されて自然と恋する」、②恋愛が理性であるという仮定においては、「この人間が好きだという判断を下す」というと正しいと思う。


 要は「待っていても仕方ない」「待ってても恋愛できるのは極一部の幸運な人間だけ」「故に恋愛している状態を自ら定義してしまおう」という主張である。


 では、どうやって恋愛するか。

 日本社会に於いては恋愛結婚を前提とするので、「将来的に結婚出来る相手」から探すのが適当だろう。そう考えるとなると、親戚などの反対を受けにくい存在、家柄などを事前にある程度調べ上げておくのが良いだろう。

 最近は都会でもない限りは名字と出身地域から大抵の事が分かるようになっているので、そうしたデータの採り易い相手ばかりになるが、これは予算制約上仕方のない事である。(本気で調査するのなら、戸籍などを調べれば良いだけの話)


 親戚から反対を受けにくい人間を選び出したら、次は「自身と合うかどうか」である。例えば自身にコミュニケーション能力がないのに、相手にもコミュニケーション能力がない人間を選んでしまったら、そもそも会話が成立しない。

 また、自身との兼ね合いを考えてみよう。私の場合なら「年上はまず力関係的に無理、年下か同級生が良いけれども、牽引しなきゃいけないのは疲れる」など。


 そうして選び出せば、「(自分側の制約上では問題なく)好きになっても良い相手」が弾き出せる。あとは簡単。その人間の事を好きだと思い込めば良いだけの事である。


 更にここからが問題である。当然、恋愛・結婚というのは自分だけの事柄ではない。(独我論を展開するならば話は別だが) 基本的には2者間の出来事である。当然相手にとっても条件が整っている必要がある。

 また、自分は「恋愛 = 理性」と考えていても、相手はそのような考えを適用していないかもしれない。というかその可能性の方が遥かに高い。そう考えた時に、やはり脈アリ・脈ナシというのは重要になってくる。

 相手が自身の事を好きではない場合、相手についてイチイチ噂話になるようなアプローチを掛けてしまうと、それはただの迷惑行為である。こうした相手は「(相手側の制約上で)好きになってはいけない相手」である。


 ……とここまで考えてきた訳であるが、根本的な問題が1つある。

 結局の所、「好きになる事が許される相手」が全ての人間に存在するとは限らない。


 そもそも、寿命による恋愛の機会不平等がある他、相手が存在するかどうかという問題にも左右されるので、どうしようもないという事に気が付いた。

 ただ1つ、個人的経験として言える事は、「好きになる事が許される相手」というのは、年齢に伴って減少していくように感じるという事だ。失った過去を悔やむよりも現在を生きる志向で居る事が、「更に失われる未来での絶望」からの、取り得る唯一の逃避行動なのかもしれない。




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