思った事を綴ってみる場所 【不定期】
曽我二十六
001. 生物とは
生物とは、細胞で出来たものらしい。
とはいえ、現代の学術的定義は些か「現代的でない」と感じる。
世の中にはプリオンという「自己増殖する
生物という語の社会的定義とは、恐らく「自己増殖して子孫を残すもの」といった所だろう。ネットでよく見かける「ボクのかんがえた進化論解釈」でも、こうした定義を前提にして語られる事が多い気がする。気がするだけかもしれないが。
2~3年ほど前だっただろうか。
青い呟き鳥の会社かどこかが、言語を扱う人工知能を2基作って互いに会話させ始めると、独自言語を開発したのでターミネート(抹消)したというのは。
ターミネートされた人工知能と、よく未来SFに我々が思い描く「機械生命体」とは何が違うのだろうか。
ここで本稿では、生物を社会的な意味合い、則ち「自己増殖するもの」として定義してみよう。
この定義の場合、人間の生み出す社会や言語なども生物に当て嵌まる。
人間は、社会や言語・概念といった「情報的生物」と、人間の体といった「物質的生物」の2つで構成されているといえるだろう。社会通念、道徳といった規範的なものは前者、感情や咄嗟の反応といった類のものは後者に当たると考えられる。
両宋時代において中国では「永遠の命とは、公的文書に記される事にある」という考え方が流行し、『宋名臣言行録』といった本が記されるなどしたのだが、この考え方は「情報的生物の自己増殖の形」と捉える事が出来るだろう。
コンピューターウィルスと一緒で、情報的生物というのは、物質体に寄生・依存しつつも、その上でただ自己増殖を図っているのだ。極端な話、宗教の経典や教義だって、「情報的生物」という事が出来るだろう。
こうした「情報的生物」は人間のみに存在する訳ではない。
有名な実験がある。
10匹の猿を入れた籠に「触ると全ての猿に冷や水を浴びせる餌」を置いておく。猿たちは学習し、やがて餌に触らなくなる。そこで猿を1匹取り換えると、何も知らない猿は餌を触りに行く。他9匹の猿は、何も知らない1匹の猿を滅多打ちにする。
そうして何も知らない猿は、何も知らないまま、餌に触らないようになる。同様にして、残り9匹も順次取り換えていく。
するとそこには「何も知らない猿10匹」が存在するだけなので、餌に触れても冷や水を浴びせるシステムを解除したとしても、11匹目に無知な猿を投下すると滅多打ちにされる。
この実験は人間社会に於いても言えるのではないだろうか。
第1世代の人間たちが失敗した事を、第2世代に対して戒める。第1世代が去った後、実は失敗しないようになっていたとしても、第2世代には「失敗の記憶」があるため、行おうとしない。
失敗に限らず、第1世代が「何かの理由により禁止した事」を第2世代に伝えると、第1世代の死後になって、「理由が分からないけど慣習により禁止された事」が残る。
世の中の道理に合わぬ慣習なんて大抵こんなものだ。
「前の人間がダメといったからダメなんだ」
理由も考えず、人間は特殊かもしれぬ先例を妄信する。
こうした伝染性の情報が、「情報的生物」の一例だ。人間に限らず、猿や様々な生物において、「情報的生物」は存在する。
根絶すべき害悪たるデマや陰謀論も「情報的生物」の一種である。
学問だって一種の「情報的生物」といえるだろう。全人類を使って並列演算し、それで得られた経験則を収拾し、蓄積したものを法則として体系化する営為。法則は新たな疑問や知識を生み、新たな法則が見出される。これを生物と言わず、何と言うべきか。
こうした「情報的生物」は勿論玉石混交であり、何が正しくて、何が誤りであるかを一言で表すのは困難である(不可能かもしれない)。我々近現代人類は、宗教や神といった情報的生物を殺し、学問という情報的生物を新たな寄生虫として歓迎したに過ぎないのだから。
★ ☆ ★ ☆ ★
対して「物質的生物」とは何だろうか。これは感情とも換言可能である。
感情とは所詮ドーパミンやらオキシトシンが作用して反応しているに過ぎない。「可愛い女の子に、おねだりした品物を贈られる」という展開があれば、大抵のヒトの脳では快楽物質が分泌されるだろう。しかしそれが「気色の悪い中年オヤジに、頼んでもない虫や下品なものを贈られる」だったなら、殆どのヒトの脳では不快感を催すだろう(※1)。
銀行のカードローンの広告には大体「可愛い女性」が用いられる。これは女性の顔であれば安心感をもたらす (と信じられている) からである。
麻薬をやれば抜け出せないのも、そうしたヒトの脳内では快楽物質が分泌されるからである。(だから興味本位だろうと「ダメ、ゼッタイ!!!」なのである)
こうしたものに関しては、咄嗟の脳内反応が関係している。そこに社会通念や道徳は絡まない。だから、感情は「物質的生物」なのである。
※1: 但し、先に述べた例はこれでも社会通念的なものを含んでいるので、例として不適である――中年オヤジなどといった抽象的概念を用いているから。
人間の争いやトラブルの殆どは、こうした咄嗟の反応を、理性が統御できない事にある。デマや陰謀論自体は「情報的生物」であるが、これに危機感や妙な正義感を覚え、情報の精査を怠って拡散に加担してしまうのは、愚かなる感情が理性に先んじて判断を下してしまう事にある。
コンピューターウィルスの場合だってそうだ。コンピューターウィルス自体は「情報的生物」だが、寄生する先に脆弱性がない限り、寄生・自己増殖する事が出来ない。こうした脆弱性は、人間の操作や設計のミスに依存する。そうしたミスは「理性が完全優位ならば引き起こされない」。
ではミスは何故生じるのか。全ての人間が「情報的生物=理性」を100%にすれば、世の中の争いは全て解決するのではないか。そう短絡的にはいかない。
「情報的生物」は物質に依存する。ソフトはハードに依存する、といった方が伝わるかもしれない。
相異なる素数pとqとに素因数分解できる、100桁の数があるとする。RSA-100と呼ばれる、1991年に解かれた素因数分解である。これを今のスパコンに入力してしまえばすぐに解けてしまうが、1946年の
どれだけ優れたアルゴリズムがあっても、計算能力には限界がある。
私だって、起床後36時間経った後に質疑応答を交わした際、自分では「どうにか答えられている」と思ってはいたが、後からログを見てみれば支離滅裂で会話が噛み合っていなかったり、やはりハード面での限界が存在すると痛感した事がある。
情報的生物は、物質的生物に優越し得ない。
社会通念や道徳、法規意識や理性といった情報的生物は、物質面である感情にどうしても左右されてしまう。最近話題の「機械に裁判をやらせる事は是か非か」というのだって、人間の演算能力が機械に及ばないから問題になるのであって、人間の演算能力が機械同等にあれば、認識ズレは生じ得ない筈だ (と私個人は信じている)。
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では、情報的生物は何故生じたか。これに「自然淘汰」と答える馬鹿者は今すぐ去れ。「ボクがかんがえた進化論解釈」でしかない。「適者生存」なら及第点といった所か。
物質的生物(細胞)にせよ、情報的生物(経済)にせよ、重要なのは「限られたリソース(資源)の最適配分」である。その場その時での繁栄のために全資源を使ってしまう愚か者は、数世代後には滅んでいるだろう。
ここで重要なのは「他者に勝つ事」よりも「自分が生き残る事」である。この辺はカオス性と非カオス性の統合においても詳述するが、大局的には「勝つ事」より「生き残り」に重きを置く方が生き残っている。
詳述はしないが、恐竜がその場その時に最適化して空前の繁栄を遂げた後、隕石というカオスが降り掛かり、環境が激変した。急速な変化に対応する前に滅んだ恐竜。
重要なのは、これらは
非カオス性の中で特化したものは、確かに「生じた環境に於いて最適」といえるだろう。しかしカオスの中で生き残ったものは「偶然生き残っただけ」でしかない。これを最適と考えてはいけない。
情報的生物とは、あくまで「偶然生き残っただけ」であって、ここに最適もクソも、理由なんてない。全ては無為の自然にして、理屈などそこに無し。
仮に他の物質的生物、それこそ恐竜や三葉虫、アンモナイトの類が生き残っていたとしたら、全く別の情報的生物が生じたり、生き残っていた可能性は否定できない。とはいえ、非カオス性の中で最適化を辿ったもの以外は、この世のものは全て「偶然性の産物」でしかない (※これについては後に詳述すると思うので待たれよ)。
何故生物が存在するのか。そんなのだって全て偶然だ。特段の使命や理由がある訳でもない。ただ、理由があると信じ込んだ方がラクではあるかもしれない。目的性を失ってしまうからね。
情報的生物=理性は、明確な目的・目標に対する意識を持って計画する事を得意とする。物質的生物=感情はそれの足枷である。無目的となってしまえば、そこには足枷しかない。足枷しかなくなった人間は無気力の極致に達し、何をするにも
この世に生を受けた理由、そんなものなんてない。
では何故意思があるのか? 否。自由意思など存在しない。感情はただの化学反応、理性は他人から掻き集めた思考のトレースでしかないから。そこに「自ら生み出したもの」は存在しない。
さて、我々人類は「誰から押し付けられた理性」に基づいて生きているのだろうか?
勿論それは、知識という経験則を生み出した先人たちである。我々が出来る事は、世界に散在している足枷を組み合わせ、より強い足枷を生み出す事だ。学問を極める、思想・信条を極める、こうした行いは全て「より強い足枷を生み出す営為」である。未来に爪痕を残すといっても良いだろう。こうして我々の情報的生物は「自己増殖」する事が出来る。
1つのものに詳しくなっても仕方がない。それは偉大なる先人のトレースに過ぎない。2つ以上のものに詳しくなり、それを結合させる事で、誰もまだ見ぬ新境地に至る。そうやって「在るものを組み合わせる事」が、我々の出来る事である(※2)。
(※2: 勿論、世の中には「基礎研究」といって、経験則自体を疑ったり、見つけたりする学問もある。これも1つの選択肢だと思う。しかし座学だけではどうにもならんので私はその道を取っていないだけである)
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