一線

ゴオルド

このままじゃ私はどこにも行けない

――全部嘘なんだってわかってるから、私にだけ嘘をついて。


 銀杏並木を並んで歩く。

 ときどき、彼の腕が私の肩に当たる。多分わざとだ。つい意識してしまって、悔しい気持ちになる。ちょっとかっこいいからって調子に乗っていると思う。あごを上げて、大きく踏み出す。彼の数歩前を歩く。でもすぐに追いつかれてしまう。結局また並んで歩く。彼が声を立てずに笑う気配を感じたけれど、気づかないふりをした。


 並木道に植えられた銀杏は、冷たい風に葉っぱを全て奪い取られてしまって、無防備で哀れだ。この姿しか見たことがない人は、この木が銀杏だって気づかないかもしれない。でも、私は春も夏も秋も、彼とこの通りを歩いたから、等間隔で地面に突きささる巨大な黒い骨の正体が銀杏なんだって知っている。


 彼は、マフラーなんかしない私の首元を見て、

「首、寒そうだね」と、言った。

「それ去年の冬も言ってたよね」

「そうだね。でも冬だけじゃないよ。いつも寒そうに見える」

「髪が短いから?」

「そうかも」

「髪が短い人ってみんな寒そうに見える?」

「ううん。寒そうなのはきみだけ」

 ふうん、と適当な相づちを打つ。

「色白で、うなじがほっそりしているせいかもね。あと髪が真っ黒で、すっぴんのときでもきみは唇が赤いでしょ。良くいえば透明感があるんだけど、悪くいえば寒そうなイメージ」

 私は彼から数歩離れた。

「そういうこと言うの、なんか観察されてるみたいで怖い」

「怖い?」

「うん」

 彼はたった一歩で距離を詰めてきた。顔が近づく。わざと怖がらせようとしている。

「俺が怖いんだ?」

「……うん」

 私の何もかもが支配されてしまいそうで怖くて、だけど、どきどきする。



 あれは大学1年の秋頃。癖毛だった私はストレートパーマをかけた。そのほうが朝のセットが楽になると美容師さんから勧められたので、そうしただけのことだった。大学デビューにしては時期が遅いけれど、実質それがデビューだったのだろう。可愛くなったとたくさんの人が褒めてくれた。

 いつしか私のあだ名が「姫」になった。長くてまっすぐな黒髪とロングスカートが、江戸時代のお姫様のようだからだそうだ。

 姫、姫と呼ばれるたび、なんだか嫌な気持ちになった。馬鹿にされた気分。

 だから、冬にばっさり切った。ばっさりいきすぎてベリーショートだ。服装もパンツスタイルばかりになった。

 みんなから「長いほうが良かったのに」「姫じゃなくなってガッカリ」と言われて、すっきりした。


「可愛いね」

 雪の積もった朝、学内で突然そう声をかけてきたのが、大学院生の彼だった。教授の手伝いで講義室にやってきて、学部生の私にそんなことを言ってきた。

「でも、ちょっと首が寒そうかな」

 彼のことは入学したときから知っている。彼は院生として、いろんな講義のお手伝いをしていたから。でも、私が姫だった秋には、特に何も言ってこなかった。それなのに冬になって髪を切ったら急に近づいてきた。

 それから1年。気づいたら彼に夢中になっていた。女慣れしている彼にとって、大学デビューした女子大生を落とすのなんて赤子の手をひねるようなものだっただろう。だけど私が近づこうとしたら、彼は逃げていく。私が逃げれば、追ってくる。愛されたいのに愛されなくて、忘れたいのに忘れさせてくれない。彼女になれないのに、体だけの関係になっている。



「おいでよ。寒そうだから、あっためてあげる」

 銀杏並木で、大きな手が、私に向かって差し出された。それだけで体温が上がる。

 選択を私にゆだねる手。

 どうするのか決めるのは私。表向きはそう。でも、本当は違うよね。

 それがちょっとずるいと思う。

「寒くないからいい」

 私が顔をそむけると、彼は嬉しそうに笑う。

「嘘。本当は寒いくせに。ぎゅってしてあげる」

「やだ」

 拒絶されると、彼は喜ぶ。今はそういう時間。だから私は嫌がるふりをする。もちろん彼の命令どおりにしないといけない時間もある。そのときは従順になる。私ってプライドないのかなって自分でも思う。

 彼は地面に片膝をついて、私に向かって両手を広げて見せた。

「ほら。おいで」

「そういうの恥ずかしいからやめて」

 さすがにこれは演技でも何でもなく本気で嫌がる私。笑いがとまらない彼。

 ねえ、なんでそんなに嬉しそうなの?

「今度マフラー買ってあげる。おそろいにして、みんなに見せつけてやろうよ」

「それ何の意味があるの」

 彼は笑うばかりで何も言わない。欲しい答えはもらえない。



 銀杏並木を通って大学につくと、私と彼は別行動となった。

 午前の講義の後、学内のカフェで友人とランチを食べていたら、「ちょっと、あれって先生じゃない?」と、友人が片隅を指さした。

 友人に言われるより先に気づいていた。可愛い女子学生と向かい合って座る彼。にこにこと愛想を振りまいている。相手の女性も楽しげに笑っていた。ちくりと胸が痛んだが、気づかないふりをする。彼はきっと女の嫉妬心なんて嫌いだろうから。

「先生、かっこいいし優しいからモテるよね。この前も別の女性と歩いてたし」

「そうなんだ。でも、私には関係ないよ」

 関係ないなんて、そんなわけがない。でも関係ないって本当に思えたらいいのに。友人は上目遣いで私を見た。

「そんなこと言ってていいの? 先生のお気に入りの座を奪われちゃうかもよ」

「いいよ、別に」

「無理しちゃって」

「無理してない。私と先生は付き合ってるわけじゃないし。そもそも講師と学生なんだから、そういう関係になるのってダメでしょ」

「えー、でもさ」と友人はしつこい。

「あんたたちが出会ったときは院生と学部生だったわけだし、付き合ってもセーフじゃない?」

 セーフってなんだろ。何がどうなるとアウトなのかな。わからないけど、セフレの私ってもうとっくにアウトな気がする。

「もっとあんたからグイグイ行ったらいいのに。もう1年も「ただのお気に入り」のままなわけだよね。いいかげん先に進んでもいいんじゃない」

 そんなことで彼女になれたら苦労しない。そう言いたいけれど、幸せな恋愛しか知らない友人に理解してもらえるわけがない。

 誰にも相談できないよ、こんなこと。

「もう、本当さ、やめよう、その話」

 私は強引に話題を変えた。



 午後、いくつか講義を受けた後、彼と一緒に電車に乗り込んだ。

「先生、また私と同じ電車だね」

「そうだね、すごい偶然」

 待ち合わせたわけでもないのに、私たちはなぜか頻繁に一緒に登下校している。きっと彼のほうが私の時間に合わせているんだと思う。わからないけど。でも多分そう。そんな事実に私はすがってしまう。ほかのセフレとは違うんだって期待してしまう。

 がら空きの電車のシートに並んで腰掛けていたら、彼が私の首を爪の先で軽く撫でた。びっくりして、とっさに首をすくめた。

「何」

「今日の昼、俺のこと見てたでしょ」

 カフェでのことだとすぐにわかった。

「うん、見たよ。可愛い子だったね」

「妬けちゃった?」

「妬けちゃってない」

 彼はくすくす笑う。

「あの子も、俺のセフレ」

「ふうん」

 だとしても、彼女じゃない私には責める権利はない。私の表情をうかがう視線を感じて、平然とした顔を装う。内心ではちょっと、いや、かなりショックを受けていたけれど。私うまく演技できているかな。

「でも、もうすぐ別れるつもり」

「そうなんだ」

 どうでもいいことのように聞き流す。けど、その言葉は心にしっかり刻み込まれる。

「あの子より、きみのほうがずっと可愛い」

 きた、私の平常心を突き崩そうとする攻撃。こんなので揺らぐようでは、そばにいさせてもらえない。

「そんなこと言われても嬉しくない」

 本当は、我ながら情けないけれど、ちょっとだけ嬉しい。でも、こんなの彼の本心じゃないだろう。ただの言葉遊びだ。

「本当はそんなこと思ってないでしょ? 先生は嘘つきだね」

 目に殺意を込めてにらんでやった。彼は目を細めた。

「うん、それでいい。お姫様はさ、こんな男のお世辞なんか真に受けちゃダメなんだ」

 やっぱり嘘だったんだ。頭ではわかっていても、少しだけ傷つく。そして、ほかのセフレと比べられて、感情を揺さぶられる自分がひどくみじめに思えた。

「お姫様ってなに。私、姫って言われるの嫌い」

「知ってるよ。でも、確かにきみは姫だから」

「それって髪が長かったからでしょ。今はもう違う」

「そういうことじゃないよ。姫って呼ばれてちやほやされて、それを自分で拒んだから、どの男にも落ちなかったから姫なの、俺にとって」

 落ちてるんだけどね、あなたに。でも、それを言わせてくれないでしょう。言ってしまったら二人の関係は終わるんだから。始まってもいない関係なのに、終わりだけはちゃんとくる。

「怒った顔、可愛い。あの子と同じぐらい可愛いよ」

「ぜんっぜん嬉しくない」

 不機嫌な芝居をする必要もなく、心からそう思う。

「いいね。その顔、最高」

 私の機嫌が悪くなればなるほど、彼の機嫌は良くなっていく。

「ごめん、やっぱり本当にきみのほうが可愛い」

「知らないよもう。というか、ほかのセフレと比べられても……」

 セフレランキングで私はいったい何位なの? そんなことを考えて泣きそうになる。

 列車内が薄暗くなった。電車がトンネルに入ったのだ。ここを抜ければ、私がおりる駅はもうすぐだ。

 私は立ち上がって、つり革につかまり、彼を見下ろした。

「セフレじゃなくて、彼女はつくらないの?」

「つくらないよ。くだらない」

 それってどういう意味? どうしてそんなに忌々しげに言うの。聞きたいのに、口にできない。知りたいけど、知りたくない。

 列車内が明るくなった。電車は減速を始める。私はつり革から手を離した。

「きみ、次で降りるの」

「そうだよ。いつもそうでしょ?」

 彼は何も言わずに、私を見上げている。

 何も言わない。じっと見つめるだけ。

 でも命令してきている。視線だけで私を従わせてしまう。

 やがて電車がとまり、大げさな音を立ててドアが開いた。


 私は身動きが取れない。

 降りないの?

 自分で自分に尋ねる。

 早くしないと、ドアが閉まっちゃうよ。

 でも。

 だってしょうがない。選択権が私にあったことなんてないんだから。

 ドアが閉まり、電車は動き出した。



「これから遊びにいこっか。どこ行きたい? 今日は気分がいいから、なんでもお願いを聞いてあげる」

 差し出された手。

 だけど私には、進むことも戻ることも許されていないから。

 私は手を無視して、彼とはす向かいの位置に座った。

「そんな離れたところに座らないで、隣においでよ」

「やだ」

 彼はすぐさま立ち上がると、私の隣に腰を下ろした。私が横にずれて距離をとると、彼は満足そうに笑った。

 二人の間にあいた、20センチほどの距離。これ以上くっつくのは、彼がしたいときだけ。

 苦しくてたまらない。

 もういっそ嫌われてみようか。そのほうが楽かもしれない。次の駅についたら、ひとりで電車をおりてみよう。わざと彼の機嫌をそこねてみるんだ。そうすれば私のことなんてすぐに忘れられてしまうだろう。かわりの女なんていくらでもいるんだし。でも奇跡が起きて形勢逆転したりしないかな。そう心のどこかで期待する自分が浅ましい。

 窓の外を流れる景色を眺めながら、自分に命令してみる。

 立ち上がれ。

 立ち上がれ。

 このままここにいたって彼女にはなれないんだ。いつか本命になれるかも、そう期待した時期もあった。嘘だ、今でも期待している。そんなこと起こらないってわかっているのに、未来を信じるふりを続ける。春も夏も秋も、冬も。ずっと。

 あなたの嘘を信じ続けるためには、私は自分の心を騙し続けないといけない。

 立ち上がれ。

 もう終わらせよう。

 電車がとまったら、立ち上がって、歩き出せ。


 耳元に吐息がかかった。

「どこ行きたい? 俺の部屋でもいいよ。いままで女を家に呼んだことないけど、君は特別だから」


 本当にずるい嘘。


<完>

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一線 ゴオルド @hasupalen

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