[5] 逃亡

 川の底にたまった粘っこい泥をかき混ぜてるみたいな音。

 どこから聞こえているのか。耳のあたりを手で払う。何もない。

 もっと近くで鳴っている。頭の中。脳みそをぐるぐる攪拌する。

 ゆっくりと丁寧にかき回す。均一になるように。かたちを失くしてその意味を忘れるように。


 小さな小さな手。無数の手。手慣れている。事務的な手順。退屈な作業。

 時には遊び心をさしはさんで。根気よくつづける。

 こねてこねてまぜあわせる。気持ちいい。不必要な枷が外れていく。

 過去の状態へと遡る。塗り広げられて、元に戻る。なんでもなかった地点まで。


 頬を涙が流れていた。熱い。

 逃げろ。

 誰かが言った。自分だったのか、刃金だったのか、それとも私たち以外の誰かだったのか。

 誰でもいい。


 玄関扉が泡立つ。黒いゼリー状の何かが地面から湧き上がる。表面を覆い隠す。

 刃金。その名前を私は叫んだ。実際に声に出ていたのかはわからないけれど。

 彼女が私の手をつかんで走り出した。その場所から遠ざかるよう、階段を駆け上がる。

 入ったときから2階まで見えていた階段。それなのにひどく長く感じる。


 見下ろせば黒い泥は私たちがさっきまでいた場所を覆いつくしていた。うねり波打ち浸食を広げる。

 蛸なんてものじゃなかったんだなとふと思った。わかったところでどうしようもないが。

 依然として音は脳の奥で鳴り響いている。甘美に、私の思考を奪いとろうとするかのように。

 すでに蝕まれているのかもしれない。境界は曖昧でどこまでが自分のものなのか定められない。


「これって逆に追い詰められてないかな」

「2階ぐらいならいざとなれば窓から飛び降りても大丈夫だろ」

「まあ足の骨の1本2本で助かるなら」


 急な階段を上った先、扉は1つきり。勢いのまま刃金はそれを蹴破った。

 大きな窓が開かれている。

 変わらない曇り空がどんよりとたたずむ。停滞した雲の流れはあまりに遅く、私の目にはそれが動いていることがわからない。

 薄汚れた青い屋根がつづく。わりと安全に抜け出すことはできそうだ。


 違う。だめだ。何かがおかしい。ゆがんでいる。道理に合わない。

 すぐそこにある脱出口に向けて足を動かせばいいのに。できない。違う。やってはいけない。

 警告音。そうか。大きくなっているのか。頭の中で鳴り響くその音が。

 刃金の手をぎゅっと力強く握った。ぎりぎりのところで自分を現実につなぎとめる。

 現実? それが不確かであろうと少なくとも自分はその場所がそうだと思っている。


 窓ガラスは一瞬にして黒一色に塗り替わった。

 逃げることなんてできてなかったんだ。やっぱりただ追い詰められただけ。

 じわじわと首を絞められるみたいに自分の居場所が少なくなっているのがわかった。

 取り込まれて一緒になって輪郭を失くす。ただの物質であった状態に帰る。


「だいじょうぶだよ」と刃金は言った。

 絶え間ないノイズの中、その声だけはなぜかはっきりとクリアに聞こえた。


 一歩前に出る。刃金は黒い泥へと近づく。

 ポケットからマッチ箱を取り出した。よくそんなものを持ち歩いてたなと私は変に感心する。1本だけ、その頭を箱の側面でこすれば、火が生まれる。

 生まれたその火を黒い泥に向かって投げ捨てる。

「こういう手合いは火に弱いって相場が決まってるんだ」

 くるりと振り返りながら刃金はそんなことを言った。


 火は泥へと飲み込まれる。そして、消えた。


 私の表情の変化に気づいたのか、刃金は首だけ動かして自分の背後を確認する。また私の方に向き直ったときさっきの気取った笑みは失われていた。

 だめじゃん。明らかに火、きいてないじゃん。

 というか冷静に考えたら火がめっちゃきいてたとしてたら、家ごと燃えて囲まれてる私たちも危なかったのでは? 高確率で巻き込まれて焼死してたと思う。


「どうすんの」残された時間は多くないという感覚が私にはあった。

「万策尽きたね」刃金は肩をすくめる。

 その仕草が妙にさまになってるのがむかつく。こいつ裏で練習とかしてたんだろうか。こんな時なのにどうでもいいことを私は考えている。

 諦めるとかでなく超天才ならなんとかして欲しい。

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