[4] 探索

 仮に黒蛸と名付ける。

 廊下の奥の暗がり、床板と壁との隙間にそいつは潜っていった、ように見えた。


 常識的な感覚で考えてみる。まずこんなところに蛸はいない。

 それから1mmか2mmしかないような隙間に蛸は入っていけるようなものではない。

 しかし私は別に蛸の専門家ではないから、そんな蛸も世界にはいるものなのかもしれない。

 食材としての蛸から想像を広げたところで全然わからない。多分ない気がするけどあっても不思議でない。


 刃金は懐中電灯をとり出してその隙間に光を当てるとかがみこんで奥を覗き込んでいる。

 よくそんな危ないマネができるものだと感心する。同時に命知らずだなって呆れてるけど。

 あの触手が戻ってきて目を突き刺すかもしれない。あるいは謎の液体を噴き出してくるかもしれない。

 よくよく迂闊な女である。


 迂闊な女は何事もなく立ち上がると私に問いかけてきた。

「あれ、何だったと思う?」

「蛸」

「蛸って陸地に生息してるものなのかい」

「それは私も知らない」

「僕も知らない」

 話は簡単に行き止まりにぶち当たった。なんというか頭の悪い会話だと思う、我ながら。


 刃金は再び歩き出す。手近な扉を開いていく。どれも鍵はかかってなかったようだ。

 便所やら風呂場やらの水回り。それなら推定蛸がすんでてもおかしくない?

 いやいい加減に蛸から離れた方がいいのか。蛸にこだわりすぎてる気がする。

 蛸っぽい何か。見た目が蛸に似てるだけの別種の生物。


 台所、リビング、和室。家自体はそんなに広くない。外から見た通り。

 刃金はためらわずにずんずん進んでいく。私はその背中を追いかける。

 危険かもしれないけどその危険はまず刃金に降りかかるからいいだろう。後ろから来られたら私の方が危ないかもだけど、そこのところは深くは考えないこととする。


 電話が鳴った。黒電話。高く澄んだ耳慣れた音。畳の真ん中にそれは直に置いてあった。

 今までそこにあったのか。気づかなかった。不意に出現したという可能性もある。

 どっちだろう? 現実なのか幻想なのか。


 待っていたり待っていなかったり。

 電話はいきなり鳴り始める。生活に無遠慮に入ってくる。

 頭の中で鳴り響いてることもあれば、頭の外で鳴りやまないこともある。


 どっちでもいいよと前に彼女は言っていた。

 僕と君とは同じ夢を見ている、もしそうだとしたらそれだけで十分すぎるじゃないか。

 お互いがお互いの幻想を強めあっているということもあるかもしれないね。

 あまり細かいところにこだわりすぎると全体の形を見失ってしまうよ。


 刃金の右手が受話器を取り上げる。

「こちら探偵名木沢刃金、依頼ですかそれ以外ですか」

 なんでこいつは普通に出て普通の対応をしているのか、少しは状況を考慮しろ。

 それきり黙る。相手の返答を聞いているのだろうか。私にはそれは聞こえてこない。


 最初は口元だった。そこに私が注目していたせいだろう。それに気づいた。

 顎の力が緩んで徐々に開いていく。唇の表面は濡れていた。端からあふれ出した唾液がこぼれそうになる。

 視線を上げる。目は虚ろ。正面に向けられているが何も映っていない。

 ただ光を取り込んでいるだけ。頭の中で情報は処理されない。通過していく。


 腕をつかんで名前を呼んだ。「刃金!」

「おはよう」間の抜けた返事。

「寝てたの」

「寝てはいない、ただなんだろう、恍惚としてた?」

「は?」

「ゼリーを指でくちゃくちゃする音を聞かされてた」

「なにそれASMRってやつ」

「だいたいあってる」

 あってるんだ。


 電話はいつのまにか消えていた。初めからなかったのかもしれない。

 目の前の扉を開ける。玄関。これでちょうと一回りしたらしい。

 変なことがあったと言えばあったけど、なかったと強弁してもいい気がした。

 その程度だった。


「あ」

 唐突に刃金が声をあげる。

 こいつ何かやらかしたのかとその視線を追えば、足元によくわからないオブジェが転がっていた。

 コンクリートの破片と針金を組み合わせて、ところどころ赤いペンキをぬりたくったもの。

 直前までそれは意味のある形をしていたかもしれないが、すでにぶっ壊れている。もとから意味を見いだせないものだったかもしれないけど。


 ぺちゅぺちゅ、ぺちゅぺちゅ。耳元でそんな音が聞こえた。

「これだよこれ、さっき聞いたの」刃金が言う。なんでちょっとうれしそうなんだ。

 鳴りやまない。うん、これはおそらくたぶんきっと――よくないやつだ。

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