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『ハヤカミ』という
それがどうしてこんな甘えん坊になってしまったのか。
まったくもって最大の謎である。
あまりに家が厳しすぎて反動が出ているのかもしれないという推測くらいはできるが、実際のところは私にはわからない。というか理解できないだろうと思っている。
それと――私にとって雲の上の天上人と変わらない存在が、私のような地味で友達もいない一人ぼっちでつまらない人間にこんなに
こんな私を見せるのはヒナだけだよ、と当人も認めているのでその認識は勘違いではないが、そんな事実をどう解釈すればいいかもわからない。
わかることと言えば、
「ヒナちゃん、お返事は?」
「何の話ですか」
「髪のお手入れをちゃんとしなきゃダメって話」
「……
「うん、それがいいよ」
風紀委員長の表情を緩めて嬉しそうに弾んだ声でうなずくと、先輩は私のあごの下をこそこそと指で
「……よし」
今日のデータ入力のノルマを終え、間違いがないかを確認してからデータを保存してコンピュータをシャットダウンした。
そしてもう一つの仕事に取り掛かるため席を立つ――が、先輩はまだ私の髪を触っていた。
「先輩、見回り……」
「もうちょっと待って……うん、これでオッケー」
馴れた感じで手早く髪を編むと、私に似合わないピンク色でフリフリレースが踊りまくる可愛いリボンをつけてパチパチと手を叩いた。
「すごく可愛いよ。ヒナ」
「そうですか」
しかし、館内の見回りなんて特に楽しくも何ともない仕事なのに、どうして先輩はこうも面白そうにしているのだろうか。放置された本を書架に戻したり、出しっぱなしの椅子を元の場所に戻したり、忘れ物がないかを確かめたりと、その程度のことしかすることがない、これまた地味で面倒な作業だ。それを先輩は後ろからついてきて、ニコニコしながら見ている。
楽しいと思うことというのは個々人で違うものだとよく言うが、私にはこの作業の楽しさというものがさっぱりわからない。
一度先輩になんでそんなに楽しそうなんですかと訊いてみたところ、楽しいから、とトートロジーのような答えではぐらかされて不明のままだ。
だから答えを求めるのは、もう諦めている。
図書館と言ってもそれほど広いわけでもなく、見回りも五分あれば一周できる。その後は出入口や窓の施錠を確認して本日の仕事は終了、鍵を職員室に返して帰宅するという流れだ。
「先輩、今日はどうします?」
「ん。クッキーを焼いてきたんだけど、感想を聞かせて」
「わかりました」
出入口のドアに内側から鍵をかけて、貸出カウンターの奥にある『司書室』と書かれた
そこは八畳ほどの部屋で、簡素なテーブルと椅子が部屋の中央にあり、奥の壁際に冷蔵庫と食器棚、シンクが並び、手前には本棚、事務机が設置されている。
本来、この司書室に許可なく生徒が立ち入ることは禁じられているが、私たちは水曜放課後の仕事の後にここでコーヒーや紅茶でおやつを楽しむのが
これは学園に数十人いる図書委員の中でも私だけの特権で、司書さんから「普段から人一倍お仕事を頑張ってくれてるし、特別にね」と司書室の水道設備や電気ポット、食器類を自由に使っていいとのお許しをいただいている。
他のやる気のない委員たちに代わって(というか押し付けられて)図書館に通いつめ、彼らの分も働いた報酬のようなものだ。
貸出業務当番のとき、利用者がいなければカウンターで本を読んでいても構わないということで
まったくもってこの図書館は、読書が唯一の趣味である私にとって、カラカラに乾いた学園砂漠の中に湧くオアシスである。
「セイロンでいい?」
先輩は司書室に入るなり勝手知ったるなんとやらで、戸棚から紅茶セットを取り出してお湯を沸かし始めた。
戸棚には十種類を超える
ティーセットも、ブランドに
これらはすべて先輩の私物で、
先輩の家は名家なのだから高級
「それともスリランカにする?」
「両方とも同じじゃないですか。お任せします」
「お、博識だねぇ。よろしい、任されました」
ちょっとウイットに富んだジョークを交えながら、先輩は缶を一つ棚から下ろした。
正直、私には
やはりこういうものを最高の状態でいただくなら、慣れた人に丸投げするのが一番だろう。
流れるような手際でポットに
「お待たせしました、お嬢様。ダージリンとハーブクッキーでございます」
妙に芝居がかった所作で紅茶とクッキーを丸テーブルに置き、早く座ってと椅子を指した。
席に着くと、先輩は私の隣の椅子を引いてそこに腰を下ろした。
こういう場合、普通は対面に座るものだと思うのだが、この人はさも当たり前のように隣へ座るのだ。
「お砂糖は一つだったよね」
と嬉しそうに笑み、角砂糖(これも有名なメーカーのものらしい)を私のカップに入れてかき混ぜる。すっかり好みを覚えられてしまった。
「さ、どうぞ」
「いただきます」
準備万端さあ召し上がれ、と先輩は私がお茶を飲んでクッキーを食べる姿をじっと至近距離で見つめてくる。
いつものことながら恥ずかしいのでやめてほしい。
……と言っても聞いてくれないから困りものである。
紅茶を一口。
「……って、ダージリン? セイロンじゃないんですか?」
「うん。このクッキーにはダージリンが合うの」
「じゃあ、さっきのやりとりはなんだったんですか」
「ヒナのツッコミが見たかっただけ。的確だったよ。さすが」
この人は……。
気を取り直してクッキーを手に取る。
とてもリラックスする感じの香りで心地いいが、なんというハーブを使っているのかはわからない。それが甘く香ばしい生地の香りととてもマッチしている。これは食べなくても美味しいに違いなく、実際に食べてみると想像通り、極上の味わいだった。
そして何より、紅茶とクッキーの相性が抜群に良い。互いに互いを高め合っているとでも言おうか、この組み合わせだからこその……ああ、私の貧弱な
そんな私を見つめる先輩の目が、どう? 美味しい? と語りかけてくる。
「美味しいですよ」
「ありがと、ヒナ。がんばって作った甲斐があったわ」
愛想も素っ気もない一言にも、先輩は嬉しそうに微笑んだ。
千言万語を用いて美味しさと感動を伝えるべきお茶とお菓子なのに、それができない私には単純な言葉を返すことしかできない。なんだか申し訳ない気持ちになる。
それでも先輩は怒ることもなく、誰でも言えるような単純な言葉だけで本当に嬉しそうに笑うのだ。
風紀委員長として見せる、澄んだ湖水のごとく
私としては――無垢な笑顔のほうが先輩らしくていいと思っている。
風紀委員長としての笑みは、どこか作り物みたいで少し怖いと思うことがあるから。
「…………」
「…………」
「…………」
「なんですか先輩。私の顔に何かついてますか」
あまりにも私をじっと見つめてくる視線に耐えかね、少しうつむいて訊いた。
すると先輩は決まって、
「ヒナが可愛いから、いつまでだって見つめていたくなるの」
と全校生徒公認の美人さんが、十人並みにも届かない私に対してこんな冗談を返してくるのだ。今までに何度もこのやりとりをしてきたが、やはりからかわれているようで慣れない。
「そういう冗談はやめてくださいって言ってるじゃないですか」
「本気よ? 私、ヒナのこと大好きよ。ヒナのためだったらなんだってしたいもの」
なんてことを真剣な顔でのたまうのだ。
なんで、よりにもよって地味で目立たない、読書しかとりえのない一人ぼっちの私にそんな冗談を言うのか。
私がそれに面白いリアクションをするならともかく、いつも冷たくあしらっているのに全然めげることなく言い続けるそのメンタルのタフさは、ある意味賞賛に値するのではないだろうか。
……いや、言われて嬉しくないわけではないのだ。決して。
「なんでもしたいって……私に甘えたいのか尽くしたいのか、どっちなんですか」
「んー……両方? ヒナが気持ちよく私を甘やかせるように、目一杯尽くすの」
頭が痛くなるほど意味不明である。
本当、この先輩は……よくわからない。
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