5

 私が大人しくして、沈黙を守り、先輩から距離を置いていれば――おおむね平和だった。

 先輩はあれから私に近づいてくることはなくなり、取り巻きたちも相変わらず私を敵視しているが、直接何かをしてくるようなことはなくなった。

 図書館で貸出業務をしていても、先輩が図書館に現れることもなくなった。閉館日の水曜日も同様だ。

 正門前の服装チェックで顔を合わせても、先輩は登校してくる生徒たちの服装に厳しい目を向けるだけで、一切表情を変えなかった。

 私は先輩のいない『以前の日常』を取り戻していた。

 普通に授業を受け、休み時間は本を読んで、昼休みと放課後は図書館で委員の仕事をして。

 いて言えば仕事の後に司書室でお茶を飲まなくなったくらいだが、概ねその繰り返し。

 変化にとぼしくとも穏やかで無難な日常は、地味な私にお似合いだった。

 近くに先輩がいる日常が異常だったのだ。

 無論、寂しい気持ちがないと言えば嘘になるだろう。私だけが知っている『先輩』を見られないのは、やはり寂しいと思う。

 だが……これでいい。

 取り戻した日常の中で、そんな気持ちはいつか忘れていくだろう。

 忘れられるなら、それでいい。



 戻ってきた平穏。

 少しだけ伸びた髪。

 恰好かっこうだった額丸出しの前髪も、どうにか見られるようになった。

 これで『デコメガネ』なんて嬉しくもない呼び名を返上できるだろう。

 そんなことを思う、ある水曜日の朝。

 正門前では恒例こうれいの、風紀委員による服装チェックが行われていた。

 私は今までどおり、歩きながら読んでいた本をバッグに仕舞い、風紀委員に目をつけられないように門を通り抜けた。

 もちろん委員長である先輩もそこにいたが、他の生徒に何か注意しているようで、私には気づいていないようだった。

 もっとも、気づいていても、これまでのように何も言って来ないだろう。

 私と先輩の関係は戻ったのだ。放課後の図書館で出会った、あのときより前に。


「…………」


 ちらり、と先輩がこちらを見た。

 一瞬だけ目が合って――凛々りりしい瞳に少しだけ揺らぎが見えた。

 彼我ひがの距離は十メートルを超えていて、メガネで視力矯正を必要としている私にそんなものが見えるはずがないとわかっているのに……確かに揺らいだ。

 私を見て、迷っている――どうしてか、それがわかった。

 しかし先輩は何も言わず、何もせず、振り向いて背中を向けた。

 今までと同じだ。

 このまま校舎に向かって教室の席に着けば、そこから私の日常が始まる。


しまっ! ヒナぁぁぁぁぁーっ!」


 ……そのはずが。

 そんな期待通りの日常は、今日のここにはなかったらしい。

 脳天を突き抜けるようによく通る大きな声で、誰かが私の名を叫んだ。何事だ、とその場にいた全員が声の主に注目する。

 私はその声に驚いて立ち止まったが、振り返りはしなかった。

 呼んだのが誰なのか、考えるまでもなく理解していたから。


「ヒナぁっ!」


 再び私に向かって放たれた言葉に遅れて、周囲の目が私に向いた。

 私は先輩とは逆の意味で有名人だから、先輩が誰を呼んでいるのかがすぐにわかってしまったようだ。

 こつに表情を変える生徒もいた。先輩の取り巻きたちはあからさまに敵意を向けてきた。あらゆる感情を内包した何十何百の視線が瞬時に私の全身に突き刺さった。

 ……何のつもりなのだろう。

 やっと取り戻した平穏な日常を壊すつもりなのだろうか。

 冗談じゃない。何のために我慢してきたと思っているんだ。私がどれほど苦しんだと思っているんだ。

 こんなときにワガママな駄々っ子の面を出すなんて。

 みんなの風紀委員長様のモットーは謹厳実直きんげんじっちょくだったんじゃないのか。


「…………」


 かつにも立ち止まってしまった以上、聞こえなかったことにはできないだろう。

 でも、無視することはできる。

 止めた足を動かして、一歩踏み出す。

 もちろん、先輩とは逆の方向へ。


「ヒナ!」


 三度目の呼びかけにも応えず、二歩、三歩と歩みを進める。

 わざわざ嘘をついてまで先輩と距離を置いた意味を、先輩ならきちんと理解してくれているものだと思っていたのに、それは私の希望に過ぎなかったというのか。

 ああ、また取り巻きたちに嫌がらせをされる日々に逆戻りか、せっかく前髪も伸びたのに、と心底からのため息が漏れた。

 このまま保健室かトイレに逃げ込んで、授業が始まったら家に帰ろう。さすがにこんなことになっていながら教室に向かう勇気はない。サボりもやむなしだ。

 そう決めて早足で校舎に向かい――


「逃げないで、ヒナ」


 腕をつかまれて引き止められた。

 振り向かずとも、それが追いかけてきた先輩だということはわかった。

 二人きりの図書館でしか聞けない少し甘えたような声と、ふわりと鼻をくすぐる先輩の匂いが妙に懐かしい。

 だがそれを態度に出すわけにはいかない。表情を変えてはいけない。


「なんですか、委員長。私は別に、服装の違反はしていな……ッ」


 無感情な反論は途中でさえぎられた。

 とんでもない方法で、先輩は私の言葉を封じてしまったのだ。

 大勢の生徒全員が私たちに注目しているその場で。

 先輩は。


「んっ……ッ!」


 私の口を、

 唐突過ぎるキスに、片手を握られたままの私は呆気にとられて抵抗もできず、腰に回された先輩の力強い腕でぐっと抱き寄せられるままに硬直していた。

 何だ? 何が起きている?

 周囲から「きゃあ」という悲鳴のような声がいくつも上がっているのは聞こえた。

 しかし、その意味がわからない。思考がぐるぐる回るだけで、何一つ形にならない。何に対して声を上げたのか、考えることすらできなかった。

 唇に伝わる温かで柔らかな感触。

 甘くとろけるような吐息。

 先輩の前髪が私の額を撫でるこそばゆさ。

 それらが、ただただ気持ちいいと感じるだけ。

 ……ダメだ。力が入らない。意識がぬるま湯にたゆたい、膝から下が溶けてなくなっていくような、ふわふわとした曖昧あいまいな感覚。

 先輩の腕が私を抱き寄せていなければ、立っていられず地面にへたり込んでいただろう。


「ふ……ぁ……」


 唇が離れた瞬間に自分のものとは思えないような色っぽい吐息が漏れた。頬が紅潮こうちょうして焼けるほどの熱を帯びているのがわかる。

 私は今、どんな顔をしているのか……考えるだけで鼓動と体温が際限さいげんなく上がっていく気がした。

 それを見て先輩は嬉しそうに、


「大丈夫だからね、ヒナ。もう大丈夫」


 と優しい笑みを浮かべた。

 何が? と問い返す間もなく、先輩は急にキッと表情を引き締めた。

 ……まずい、これは何かをやらかす顔だ……! と悟り、先輩を止めようとした。


「ここにいる全員に告げる!」


 しかし間に合わず、りんとした声が辺りに響き渡った。

 風紀委員長の唐突な行為に浮き足立ったようにざわめいていた周囲がしんと静まり、続く言葉に息を呑んだ。


「私、かみアスミは、この子、しまヒナが好きだ! 愛している!」


 いきなりすぎるキスに続いて、とんでもない告白カミングアウトをぶちかましてくださいました。

 もうだめだ、と絶望に似た感覚が私の過熱した意識を真っ黒に塗りつぶしていく。

 私の平穏な生活は

 ざわ、と周囲がざわめいた。

 当然だろう、風紀委員長の肩書きを持つ学校のアイドル的人物が、その肩書きゆえに軽々しく言ってはいけないことを叫んでいるのだから。混乱が沸き起こるのは当たり前のことだった。

 それに構いもせず、先輩は続ける。


「だから! ヒナを傷つける者を、私は決して許しはしない! 誰であろうと! 私はこの子を全力で守る! どんな手を使っても!」


 今までに見たことのないほど先輩は怖い顔をしていた。鬼気迫る表情とはこういうものを指すのだという見本のようだった。

 いや、表情だけでなく、発言も十二分に恐ろしい。

 これは

 誰にでも優しく、誰のものでもないが特定個人を愛のもとに庇護ひごすると言い放ったのだ。

 それが「あー、はいはい。わかりました」と公認されるわけがない。そんな勝手が許されるはずがない。

 なのに、どうして先輩はこんなバカなことを言い出したんだろう。

 ……どうして?

 そんなの決まっている。

 考えるまでもない。


 


 私が取り巻きたちに嫌がらせをされていることを知って、私の代わりに怒ってくれたのだ。

 私が隠していることを敏感に感じ取って、私を守るためにこんな暴挙に出てしまったのだろう。

 取り巻きたちを糾弾きゅうだんしてもその恨みが私に向くだけだと悟って、いろんな方法を考えて……その結果がこれだったのだろう。

 私に向けられる敵意が少しでも自分に向くように、彼らの偶像を演じる舞台から自分勝手に降りて、その役目を放棄したのだ。

 私を困らせるのではなく助けるために、先輩は築き上げてきたすべてを捨てる覚悟で、公然とワガママな駄々っ子に

 本当に。

 どこまでも真っ直ぐで、強くて……救いようのないバカな人だ。

 私なんかのためにこんなことをするなんて、愚かにもほどがある。


「い、委員長……そんな、校則違反を取り締まる立場の風紀委員長が……そんな発言をするのは拙いですよ……」


 風紀委員の一人なのか、困った顔をした女子生徒が恐る恐る近づいてきて先輩をいさめようとした。

 しかし先輩はにっこりと微笑んで、その生徒をじっと見返した。


「私の記憶では、校則に恋愛禁止の項目はありませんでしたが」

「ですが、不純異性交遊は禁止されています! 先ほどの行為はそれに該当するのでは」

「その項目はだから問題があるのであって、は禁止されていません」

「は……? いや、そんな屁理屈が通るわけ……」

「ならば、あなたが風紀委員副委員長として、校則に従って私を処罰なさい。そうなれば私もいさぎよく罰を受け入れ、責任を取って委員長の職も辞しましょう。役職も肩書きもいりません。私はただ、ヒナを守りたいだけです。そのためならなんだってします。それだけです」


 言って、先輩は笑みを深めた。

 暴論。べん。子供の言い訳。

 冷静に聞けばそうにしかならないが、先輩の固い意志の前では万人を説得できる立派な正論のように聞こえる。現に、誰一人としてそれを指摘してこない。これが先輩のカリスマ性なのか、単に意見することが恐れ多いだけか。

 こういう人が間違って独裁なんかに走ると危ないんだろうな……と私は先輩の腕の中で見当違いなことを思っていた。

 副委員長が沈黙すると、先輩は私をぎゅっと抱き締めた。それだけでまた周囲がざわつくが先輩はまったく気にする素振そぶりがなかった。

 彼女は私しか見ていない。


「ごめんね、ヒナ。ごめんね。もっと早く守ってあげられなくて」

「……何やってるんですか、先輩……。バカになっちゃったんですか」

「そうかもね。ヒナが可愛すぎてバカになっちゃったのかもね」


 私の呆れ返った一言に、先輩は笑いながらおどけて答えて――また、キスしてきた。

 今度は周りの誰もがぜんとしたままで、声一つ上がらなかった。

 それも仕方のないことだろう。

 優しくも厳しい風紀委員長が公衆の面前ですることではないと呆れるよりも、

 涼やかな作り物の笑みしか知らない周囲の人間には、まるで別人のように見えたことだろう。


「ヒナ、大好き」

「……あなたという人は……」


 私の口からため息とともに、笑みがこぼれた。


 まったく、とんでもない人に好かれたものだ。

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