4-9
僅かに腫れた目を、再度拭った。くしゃくしゃのままハンカチをポケットにしまう。深呼吸ののち、診察台の上で読書にいそしむ彼女に声をかける。
「僕は少し外へ出てくる」
「どこへ行くの。私も行くわ」
文島さんは本を閉じて切り返す。僕は身支度をしながら、
「療養所の焼け跡だ。ここからは少し山道を歩くけど、君は歩けるか」
文島さんの細い足を眺める。ずっと寝たきりだったせいで、ろくに筋肉はついておらず、血管が浮くほどに白い。長くは歩けないだろう。それでも彼女は意地からか、行ける! と軽やかに即答した。絶対にへばるなよ、と何度も念を押すと、文島さんはきょとんとした。
外は夕暮れが始まっていた。僕達は音を立てて下草を掻き分けた。虫が多いからと事前に言ったが、文島さんはいちいち悲鳴を上げて面倒臭い。目立つから黙れと言っても彼女がきかないので、最終的には僕が彼女をおぶうようにして歩いていった。
そして黒く焦げ付いた板を踏みつけて、あの場所へたどり着いた。彼女を振り落とし、地面に崩れ落ちた。がくがくする足をさすりながらうめく。
「重いんだよー、君はーっ!歩けないなら来るなって言ったろう?」
「歩けるわよ!ただちょっと……こわかっただけだもん……」
「そういうのは彼氏の前でやるこった」
僕はやれやれと肩を落とす。文島さんは拗ねてしかめっ面をしていたが、絞り出すように謝った。それから顔を上げ、辺りを見回す。
療養所跡。まだテープが張り巡らせてあり、花やお菓子などがぽつぽつと備えられている。文島さんはしゃがみこみ、置いてある菓子を物欲しそうに見た。僕が非難の色を込めて、
「うわぁ、何してるんだよ」
「ここで死んだ人達、どうせ皆食事制限かかってるから、お菓子なんて食べられないわよね」
そう言えばそうだな。文島さんの頭の一際跳ね返った髪をゆるくつまんで、
「食べたいのか?」
「いらないわよ、太るもの。あと、いたい」
文島さんは僕の手を邪魔そうに払って、目に見えて膨れた。そして、
「久しぶりだわ。……こんなになって」
文島さんは砂利をそっと撫でた。様々な思いが、彼女の中で巡っているらしかった。そしてふいに僕を見上げる。
「ねえ、ここに来て何をするつもりなの」
「ざんげ」
ひんやりとした風が吹き抜けた。彼女の後ろ髪が広がり、勢いよく空気を叩いた。
文島さんは『彼』を望み、そして望まれた。彼が言ったとおり、どう僕が償ったとしても、もう亡くなった人は帰ってこない。しかし、事件のことを黙殺すれば、たった一人の生き残りである彼女の切実な夢が叶うのだ。それならば、黙っていてあげたいと思うのだ。死んだ者より、生きている者を。そう考えてしまう僕を、どうか見逃してほしい。一生背負っていくから。
「ごめんなさい」
僕は深く頭を下げた。もう地面しか見えないくらい限界まで身を折る。
「貴方達を、心の底から、悼みます……そして、僕の過ちを謝ります」
文島さんは、そんな僕をただじっと見つめていた。
彼女も、僕の大きな過ちの犠牲者の一人である。
「ここに墓標を作りたいな」
「私たちじゃ非力で無理でしょうね」
「そんなことないよ。時間がかかっても構わないなら」
文島さんの傍らに座って、彼女に呟いた。
お父さん。その響きがどうにももどかしい。ぼくは父と、きちんと向き合えていただろうか。
僕は隣にしゃがむ文島さんを見た。
「まだ、完全にきみや父を受け入れるのは難しいかもしれない」
「いいのよ。人間、価値観ががらっと変わるのって、案外耐えきれないものだもの」
文島さんは地面を見たままぼそっと言った。いままで単純だったと話す彼女は、『彼』によって多面体とやらになったのだろう。僕は大人になる事を恐れ、愛情を拒否していた。だから、似たもの同士である彼女の変化を恐れたのだ。
「そう言えばあなた、その怪我はどうしたのよ」
「あいつと喧嘩した」
「また? 男の子って懲りないわね」
文島さんはきょとんと眼を開き、芝居がかったしぐさで肩をすくめた。僕はガーゼをさすっていたが、それに合わせて派手なため息をついてみる。
「男っていうよりか、僕達の溝がかなり深いんだよ。あいつ、僕に相当いらいらしてやがる」
「ふうん。あの子、ストレスはちゃんと発散してるみたいだし、私から言うことはないわ」
「僕はサンドバッグじゃない」
文島さんは失笑した。僕は立ち上がり、ズボンの泥を払う。
「そろそろ帰ろう。日が暮れる」
言ってから気づいた。文島さんが『帰る』のは、あの廃棄物倉庫より他にない。怪訝そうに彼女を伺うと、立ち上がって自信たっぷりに笑って見せた。
「何よ、私を気遣うだなんてあなたらしくないわ。いつも通り開き直りなさいよ」
「でも、あんな所じゃ寒いだろ。身体は……」
文島さんは口をつぐんで、何かを言いたげに視線をさ迷わせた。珍しく狼狽える彼女に違和感を感じて、何かあったのか問う。しかし彼女は怯えたように胸に手をやっただけで、すぐに僕を追い抜いて立ち去ってしまった。谷崎も早く、と向こう側から無遠慮な声がした。僕は唇をとがらせる。
「なんだよ……」
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