4-8
「あなたのお母さんだって人間だわ。周囲の目を気にしたり、沈むあまり全てを投げ出したりする弱さもあるけれど、息子を守るために強くなることもできた。優しくて強いだけの人はいないけど、100%弱くて脆いだけの人もいないはずよ。人間は多面体なんだわ」
彼女は、白い首筋に浮き上がった赤い噛み跡を撫でて呟いた。それは彼女が『僕の友人』だけではなく、『彼の恋人』でもあることを克明に示していた。
「君もまた多面体か」
「ええ、そうね」
文島さんは恥じらって笑った。
僕は黙り込んで、所在無さげに右手を開いたり閉じたりを繰り返した。文島さんはそれをずっとずっと見ていた。そして、彼女は僕の背中に手を回す。温もりが直に、渇ききった肌に伝わってきた。眠りに落ちる子供を抱く母親のようだった。僕は抵抗せずに、その温度に身を委ねる。
「僕がずっと恐れていたのは、他の人をまともに好きになること、あと、きっと、君達が親になる事だ。愛情は朧気で、そんなものはないと思っていたし、今も……信じられない」
掠れてぎざぎざになった声が続く。文島さんの表情がほどけた。その様相を見て、心が弾け飛ぶようだった。たまらず涙声が漏れる。
「ごめん……ごめん……!! 僕は君を殺してはいけなかったんだ。君は僕を友達と認めてくれたんだ。だから僕は、きみの幸せを願うべきだったんだ。なのに、なのに僕は……!! あの頃の僕の敵は父親ただ一人だった。だから僕は、療養所に放火することこそが正義だと思っていたんだ」
手の甲で目尻をゴシゴシと拭った。心臓のリズムに合わせて、掌が僕の背中を撫でる。
う、と濁りきった嗚咽が絞り出された。鼻がつんと窄まって、洟水が滲んできた。文島さんは穏やかに声をかけた。
「ずっと否定されるのが怖かったんだわ。けれど、自分を傷つけないものばかり愛しても、あなたが本当に望むものは得られないでしょう?」
「うん……うん……」
細くなめらかなあの手が、僕の髪を撫でた。僕は文島さんの細い肩に手を伸ばし、その背中を引っ掻きながら静かに泣いた。
「愛することを恐れないで」
僕は鼻を啜りながら頷く。
「存在を認められて初めて、大人になることができるのよ。だから私たちは、体や頭は少年少女でも、こころは子供のままだったんだわ。ねえ谷崎、何も恐れることはないの」
「ごめん……ごめん、ごめんなさい…………ごめんなさい……」
僕は涙ながらに何度も繰り返した。文島さんはさらに深く僕を抱きしめる。
「私はあなたのこと、赦すわ。抜け殻だったあなたと、病床にいた私と……ねえ、私達、ともだちよ」
押し潰されてきた感情が一気に溢れ出す。僕は無様に泣き喚いた。
文島さんの肩を掴んで、まるで子供のように身を寄せて激しく嗚咽した。耳鳴りも心の痛みもすべて振りほどいて、まるでぶつけるように割れるような声で。すべて耳元で、文島さんの声が聞こえた。
「あのね、谷崎。私は読書が趣味なの」
「知ってるよ。なんだい、まだ何かあるのか」
僕の目尻の涙を不器用に拭って、文島さんが言った。
「『真理』にはね、どんな時でも変わらないただ一つの筋道、って意味があるのよ」
文島さんはほほえみながら、僕の体を優しく抱きしめた。僕は洟水をすすって眉根を下げ、顔面をぐしゃぐしゃにして、口角を円に曲げた。我ながらひどい顔だ。だけどそんな言葉ってまるで、
「希望みたいだ」
■
文化祭の準備を終え、彼は夕日を浴びながら帰路についていた。自転車小屋の前で、『彼』は三つ編みの幼馴染の姿を見つけた。彼女が自分を見つけて駆け寄って来るのを見て、彼はうんざりと声を上げる。
「何だよ美保、お迎えかァ? 小学生じゃねぇんだ。とっとと一人で帰りやがれ」
しかし、美保は何やら思いつめたような顔で彼を睨んでいた。少しだけ怯えて、『彼』はおずおずと、
「ンだよ、……その顔」
「ねえ。今日も谷崎くんを殴ったとか聞いたんだけど、どうなってるの? あんた達、グルになって私に何か隠してることない?」
「あったとしても、手前には関係ねぇだろ」
内心びくびくしながらも、彼ははっきりと口にした。
夕日によって逆光の位置に立つ彼女の顔はよく見えない。ただ、いつものような快活な笑みでないことは分かった。
「私、谷崎くんと女の子が廃棄物倉庫で話してるの見ちゃったんだ。あんた、あの山によく通ってたよね。最初は、あんたの好きな子を弔ってるのかと思ったけど、違うんだよね」
美保は顔を上げた。
「あんた、なんてことしてるの。いくら恋人だからって女の子をあんなところに閉じ込めて。心配してる家族の方も居るし、その子の記憶が事故解決の手がかりになるかもしれないのに。何よりその子、病気なんでしょ。あんな不衛生な倉庫にほったらかしておいて」
「違ぇよ……」
彼は必死に釈明しようとするが、うまく言葉が出てこない。そう、と美保が呟いた。
「文島希さん、生きてたんだね?」
美保の咎めるような目線が刺してくる。彼はまるで心を串刺しにされたような気がした。遠くで、獣のような鳴き声が聞こえた。
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