4-5

 保健室に赴くと、とりあえずの応急処置を施された後、どういう経緯で怪我をしたのかをしつこく聞かれた。ひな壇を運ぶ時取り落として転んだ、と説明したが、その割に変な位置に怪我をしている。保険医は『彼』が僕を殴ったとうたぐっているようだった。じっさいその通りだが、理由が理由なので何も言えない。

 頬からの出血がひどいので、一度帰って親に説明し、医療機関を受診するように言われた。『彼』にどこかに行けと言われたが、このまま校内にいたくなかったので、この怪我は逆によかったのかもしれない。


 こんな日でも、海は変わらずそこにある。自転車を押しながら、頬に貼られたガーゼを撫でてみた。メディカルテープのざらついた感触が伝わってくる。

 自分のふがいなさや、今まで己が起こしてきた事件、問題、もう何もかもすべてに腹が立って、苛立って、むかついて、全部全部何もかもを壊してしまいたかった。

 ハンドルを握る手に力が篭もる。

 僕はもうなにをすることも許されない。まるで亡霊のようだ。実体を失い、意志だけが残されふわふわと浮遊する。もしこの瞬間が人生ゲームだとしたら、全てのマスをふっ飛ばして一気に『あがり』か、サイコロを最初から振り直してやる。突き放したこと、出会ったこと、生まれてきたこと。


 潮風が傷にしみた。彼の態度が悲しくてやりきれなかった。僕だって文島さんを悼む気持ちはあるんだ。だって彼女はぼくの友人だった。

 もういやだ、いやだ、いやだ、……。ぼくはもうぜんぶにたえられない、崩れてしまいそうだった。ずんと重い腹の底。魚を捌くかのように、心が少しずつ薄いナイフで削られて剥がれていく。希薄された僕自身が存在することを、ただ赦してほしい。たったそれだけでいいんだ。


 校門前の坂を降り、少し広い道路に出る。『彼』に殴られたせいで頭がぐらぐらするので、自転車には乗らなかった。家には帰れない、時間を潰せるような施設はこの島には無い――。


 溜息を一つつく。

 僕の足は、自然にあの倉庫へ向かっていた。



 所謂ペトリコールか。雨に濡れた倉庫は湿っぽい匂いがしていた。自転車は山道の中に停めておいた。まさか盗るような物好きはいないだろう。僕は扉を開く。くすんだコンクリートの壁が、変わりなく僕を迎え入れた。

 いつも陽気に跳ね回っているモドキの姿が見つからない。あたりを見回すと、部屋の隅の診察台の上に、『彼女』を見つけた。


 寝そべる姿に近づけば、彼女は眠っているようだった。膨らみかけの胸が浅く上下している。乱れた髪の合間からやつれた寝顔が覗いていた。

 彼女が眠っているのは初めて見る。きゃんきゃん吠える顔か、にやにや笑って僕をからかう表情しか見たことがなかったので新鮮だった。

 よく見ると、彼女のワンピースの裾がめくれて、太腿が完全に剥き出しになっていた。相変わらず白い肌に、見たことのない傷跡がいくつも浮き出ている。このままでは身体によくない。とりあえず起こそうと声を張る。


「やあ」


 寝惚けたままの彼女は、寝足りないとばかりにシーツを抱く。細い肩を揺さぶった。彼女は目もとをごしごし拭って、ゆっくりと目を開いた。彼女は黒髪を掻き上げ、気だるげに起き上がった。斜め上に視線を向け、空虚な溜息をつく。その顔つき、その目を見た瞬間、心臓が破裂しそうになった。

 息もできなかった。それは、呻きながら目を覚まし、ゆっくりと顔を上げる。一秒が果てしなく長く感じた。虚ろなつり目が僕を射る。彼女は睫毛をしばたたかせながら呟く。


「……あら、谷崎」


 僕はかろうじて喉をこじ開けた。


「――久しぶりだね、文島さん」


 伸ばしかけた手が止まる。

 彼女は髪を撫で付けつつ、眠そうに唇をむにゃむにゃさせている。僕は何を返すこともできず、文島さんのつり目をじっと見つめていた。冷や汗が背中を伝った。

 彼女の気取ったような言い方に、こわばる口を開いて、


「文島さんなのか」


 彼女は唇をぎゅっと噛んで、反撃体制に入った。


「なによ、その言い草は!? 人が寝てるところを起こしておいて、それはないじゃない! あなたって私の安眠妨害が趣味なわけ!? はっ、ほんっとうに悪趣味きわま……」


 口を手で塞いで、文島さんを黙らせる。混乱しながらその金の目を見つめた。文島さんは不服そうにほっぺを膨らませた。

 このなまいきな口調と減らず口、文島さんその人だ。僕は目を白黒させて、あたりを不安げに見渡した。


「ふん」


 文島さんは僕をちょっと見てから、シーツを脇に寄せて、部屋の中央に座り込む。白いワンピースの上、ぶかぶかのカーディガンに包まれた体をまた抱いた。


「なあ、君はなぜここにいるんだ。モドキはいったいどこへ行った?」


 焦りと混乱の中で、ぼくの白い息が空中に溶ける。この雰囲気、モドキを初めて見た時に似ていた。彼女は声を荒らげる僕を観察するように見ていたが、


「モドキ?」


 眉を上げて問いかけてきた。僕は頷く。


 「そうだよ、文島モドキだ。君がたぶん、――火事で死んだあと、僕がこの倉庫で会った、君そっくりの変わった女だよ。いっつもハイテンションで陽気で、でかい声でまくし立てるあいつ」

「ふうん、それでモドキね。あなたにしては面白いこと言うじゃないの」


 文島さんは首を傾げてくすくす笑った。僕は彼女をひっぱたきたいのを懸命にこらえていた。


「笑い事じゃないぞ」


 文島さんはふいに声を止め、僕に座るよう促した。


「すくなくとも今の私は文島希よ」


 僕は言われるがまま、一斗缶にも似た椅子に腰掛けた。彼女もワンピースを内腿に折り込んで座った。


「火事の夜のこと、覚えてるかしら」


 忘れるわけもない。僕は深く頷いた。

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