3-7

 台所から千円を取って弁当屋に行った。秋の午後五時となると海沿いの道は閑散としており、紅神様祭りの名残などなかった。

 潮を孕んだ、生ぬるい風が吹く。

 僕のしたことは、果たして正しかったのだろうか。

 抑圧された僕と母を救うため、父に制裁を下すため、ムカつく『彼』を文島さんから引き剥がすため……。いろいろ理由はあったが、今となってはすべてこじつけに思えてきた。


「誰か、助けてくれよ……」


 およそ自分らしからぬ細い声が漏れでた。

 二百円台の一番安い弁当をふたつ買い、その帰り道、僕は新聞を解約した。

 睡眠薬、精神安定剤、解熱鎮痛剤。いつからか、見慣れない薬の瓶が家に増えていることに気づいた。 それらは少しずつ母の身体と精神を蝕んでいくようだった。もはや薬か毒か分からない。

 僕といえば、モドキと会った日から一週間ずっと学校に行っていなかった。何もしたくないし、何かができるとも思えない。担任の電話番号を着信拒否にぶち込んでしばらく経つが、担任が家に来る気配はみじんもない。文化祭前だから忙しいんだろう。

 電気のついていないダイニングで、母と僕は向き合って座っていた。お昼のワイドショーだけがいやにかしましい。


「しんりちゃん……ママ……もう……だめみたい……」


 酒の入ったカップを手に、母がぐずぐずと泣きついてきた。僕は深くため息をついた。


「そうだね。もうみんなおしまいだ。死んでしまえばいいんだ」


 飲酒するたび、母の肌は赤と白の斑模様に染まる。皮膚はすでにボロボロに痛み、焦点の合わない目で空を見つめるばかりだ。ODと過剰な飲酒で臓器がいかれたらしい。まるで別人のようになった母をただ見つめる。


「しんりちゃんッ……みんなママから逃げてくの……友達も、パパも、おとぉさんもおかぁさんもぉ……う゛ぅ……しんりちゃんは、いかないわよね、ぇ……」

「行くもなにも、最初から父さんも僕もあなたのそばにはいなかったんだよ。僕達はもうとっくの昔からばらばらだったんだ」

「うぅっ……うっ……」


 母が嗚咽する。夫に頼り切っていた寄生虫が壊れるのはあまりにも簡単だった。夫の死という困難に立ち向かうこともせず、薬と酒に逃避するだけの弱い存在。


「……かあさん。どうしてこんな事になったんだろうね」


 生まれて一番最初に両親から与えて貰ったのは、この命だ。そして二番目に与えたのは『真理』というこの名前だ。どちらもきっと、気まぐれで与えたものじゃないはずだ。


「ねぇ。父さんと母さんは、僕に何を望んだの」


 返事はない。

 僕は愛情の中で生まれたんだよね? 僕が生まれた時、二人は喜んでくれたんでしょう? ただ、両親にそう問いたかった。僕のこの命は、誰かに望まれて生まれてきたものだと思いたい。


 いいかげん僕は、僕という人間が本当に1人の人間なのか分からなくなってきた。

 僕はあの父の子供である前に、谷崎真理というひとりの人間なのだ。僕は僕自身のために生きていいはずなのに、今も父の生死に、幻影に左右され続けている。


 父を受け入れようと耐えていたあの日々が懐かしい。自分なりに必死に努力して生きてきたはずが、結局与えられた選択肢は唯一無二の友人をこの世から殺すというものだった。

 それでも、人は必ず分かり合える、なんて綺麗事を言うのだろうか。それとも僕が耐えてきたあの日々は、他人から見れば努力とすら呼べないのだろうか。


 いずれは父の遺産も尽きる。しかし、もう全てがどうでもよかった。ヤク中アル中の中年女に人殺しの少年。死んでしまった方が世間様のためだ。


 用法用量をお守りください、用法用量をお守りください、用法用量をお守りください――。薬のパッケージには、極太のゴシックでそう書いてある。どうにも、耳鳴りが止まらない。

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