3-3

 家に戻ると、母は眠ったようだった。リビングのソファで眠る母にブランケットを掛け、洗い物を片付ける。途中、カップを取り落として割り、舌打ちをした。後片付けが面倒だ。

 父が死に抑圧から開放されたはずなのに、沈む母がどうしても理解できない。火加減を間違え、初めて作るカレーは鍋底で焦げ付いてしまった。

 その夜は、僕は図書館で借りてきた谷崎潤一郎の短編集を読んでいた。文島さんを偲ぶつもりだったが、やはり読書は苦手だ。


 翌朝。夏の終わりの肌寒さで、僕は目覚めた。右手を天井に掲げ、


「……寝坊した」


 時刻は昼前だった。昨日ひどく夜更かししていたのが響いたらしい。

 母に学校を休むと告げると、複雑そうな表情をして了承してくれた。辛いとは思うけど、海でも見て気持ちを切り替えてきなさい、ということだろう。

 学校を休むのは僕の方ですよ、なーんて教師に言ってこれとは笑わせる。まあ父親も焼け死んでるし、学校に行っても学ぶものはないし、別にいいだろう。彼は今頃、学校に行っているだろうか。僕と同じように休んでしまったのだろうか。文島さんを失ったから。

 秋始めの金曜日、外は曇っていた。冷たく塩っぽい、雨の匂いが鼻腔を満たした。遠く水平線の向こうでは、船が小さくゆらいでいた。

 僕を捨てて、どこか遠くへ行ってしまいたい。例えば、あの海の向うに。


 風に煽られ、不意に山の方へ目をやった。あの坂道を上りきれば、変わらずに白い洋館があり、文島さんが待っているように思え、僕は療養所への道を歩き出した。初めて訪れたあの日と違い、汗もなく、踏みしめる足取りも確かだ。


 ――文島さん、君は僕を恨むだろう。でも、あの行動こそが正義だったんだ。


 やがて僕は道を辿り、開けた場所を視界に入れた。

 洋館があっただろう場所は、凄惨な焼け跡だけが残っていた。木々に囲まれた中で、大敗した焼け跡だけが異様に浮いていた。黒ずんだ柱や板があちらこちらに散らばっている。建物の柱だけが陰鬱な黒で残っていた。まさに、廃屋。

 僕は身をかがめ、地面に手を置く。火にあぶられたであろう砂利をやさしく撫ぜた。父の世界が壊れた愉悦に、思わず笑みが洩れる。僕の密やかな微笑みは唇から漏れ出てやがて笑い声になった。

 そんな僕に、後ろから思わぬ声がかかった。


「――人生は、楽しいかい?」


 聞き慣れた声だ。しかし、この声がここに存在するはずがない。再度、少女が呼びかける。大変弾んだ声で、


「まぜてよ」


 よく知った声。――文島希の声。

 冷や汗を垂れ流しながら振り返る。

 長い黒髪にシフォンの白ワンピースの少女が、冷ややかな目で僕を見ていた。前髪をぱっつんにして、赤い蓮の髪飾りを付けている。


「どう、……して……」


 嗚咽に似た、掠れ声だけが出る。

 思わず血相を変え掴みかかると、細い身体は抵抗もせず地面に倒れた。僕は彼女の胸の上に馬乗りになり、首根っこをつかんで彼女の顔を見る。問い詰めようとして固まる。文島さんのはずだった。

 しかし顔をよく覗き込むと、『それ』は、――文島希本人ではなかった。

 顔立ちと背格好は間違いなく文島さんだ。しかし吊り目は黒から不気味な金色に染まっている。ぱっつんに切った前髪の左半分を後ろに流し、蓮の髪留めで留めていた。顔横を隠していた横髪は、耳にかけて肩に流しているし、髪全体がきつい外ハネになっている。


 ……ならばこの少女は何者だ?


「大丈夫。君の性癖は黙っておくよ」


 文島モドキの彼女は、にやりと酷薄な笑みを浮かべ、僕を見据えた。違う。文島さんの笑い方でも、口調でもない。


「父の不倫から恋愛嫌いになり、ナマモノから逃避した先が死体性愛。父の仕事上、きみにとってそれらは身近なものだったからね。だから文島に耽美派の文豪を進められた時、読書が嫌いなのにわざわざ調べたりして素直に手を出した。倒錯性癖は自覚していたもの」

「ちがう! お前ッ……どこまで知ってる!? 一体何なんだよっ!?」

「手を離し給え、少年」

「療養所はこんなざまだから文島さんが生きているはずがない! 生きていたとしても、喋り方や眼の色が違うし、病気持ちなのに外でぴんぴんしてるのもおかしいし……なにより、どうして僕の恋愛対象について知ってるんだ!」

「誰にも話したことがないのに?」


 モドキは嘲笑した。肩に雨粒がぽつぽつ当たった。


「意味がわからない! ちゃんと説明しろ!」


 モドキはやれやれと頭を振る。


「花火の日、君が帰った後、『彼』は文島希に告白したんだ。文島も彼に惹かれてたけど、自分には余命があるからと彼をつっぱねた。その後病室に戻った文島は、『自分の全てをあげるから、彼を幸せにしてあげて欲しい』と祈った」

「うん」

「そして此が降臨したんだよ」

「いやだから降臨するまでの話を聞きたいんだけど。その話と君の登場には何も関係ないだろ」


 モドキは目を閉じてにかっと誇らしげな顔をした。

 そこで僕は、文島さんが蓮の髪飾りを千切り、空に捨てたことを思い出した。エジプトや仏教の世界では、蓮は神聖な花とされており、花言葉は「清らかな心」「神聖」「救ってください」。神に捧げる供物として不足はないだろう。


「君は紅神様なのか」

「神なんて谷崎らしくもないことを言うね。此は文島希であり、文島希ではない」

「わからないな」

「分からなくていいんだ。自分の知っているものに当てはめてまで無理に理解しようとするから、破綻して、放火なんてことが起こる!」


 モドキが挑戦的にこちらを見た。


「……どこまで知ってる」


 またモドキを睨むうち、雨は段々激しさを増してきた。モドキは暗い空を眺め、それから僕を見た。


「谷崎、場所を変えよう! 風邪は引きたくないだろ?」

「逃げるなよ」

「嫌だなぁ、逃げるわけがないだろう! 谷崎は友達じゃないか」

「文島さんならともかく、文島モドキと友達になった覚えはない」


 吐き捨てて、彼女から退いた。モドキはゆっくり身を起こし、服の泥を払った。

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