2-7
あさひが文島に駆け寄るが、彼女はそっけなく追い返そうとした。あさひは文島の容態を察し、部屋に帰ろうと提案した。車椅子のハンドルを握り、けんめいに車椅子を押そうとする。文島は驚いて声を上げた。
「いいわよ、やめなさい! 怪我しても責任取らないわよ!?」
「だめ、あさひが押すの! ゆうひもね、ママがいない時、そんな顔するから!」
ゆうひとは、家族のことだろうか。あさひは幼いながらも、文島を元気づけようと必死だったらしい。文島はやれやれと肩を落とした。こんな小さい子に心配をかけるなど情けない。
「でも、あなたにこれは押せさせられないわ。動かすくらいならおねえちゃんできるから……そうね、お話でもしましょうか」
「だいじょーぶ?」
「大丈夫よ……」
あさひがくりくりした目で見てくるので、文島は作り笑顔をした。看護師に断りを入れ、先に眠ると言って帰る。
話し相手になってくれと頼んだものの、ただでさえ他人と話せない病のひねくれた文島が、純粋な男児と喋れるはずもなかった。この子には『未来』が約束されている。彼女が喉から手が出るほどほしいものを当然のように持っている。
「あさひくん、ママのこと好き?」
「えー、キラーイ! だってさ、変身ベルト買ってくれないんだもん」
「パパのベルトで代用すればいいじゃない? つけてもヒーローになれないのは一緒なんですもの……ってあ、ごめんね、谷崎がうつったわ。ごめんね……おねえちゃんが悪かったから泣かないで……?」
ついいつもの調子で暴言を吐くと、あさひは目に見えて膨れた。私って子育てなんか絶対向いてない、文島の心中は半泣きである。彼女はあさひをなだめつつ、兄の使いふるしのオモチャはまだ家にあるだろうかと考えた。
「パパ、いっつもおうちにいないの」
あさひは不満気だったが、健気にも文島のあとについていった。エレベーターを使い、看護師の手を借りつつ最下層の個室に降りる。扉を開けて、
「あさひ君、……おねえちゃんみたいになっちゃダメよ」
あさひは釈然としない様子だったが、素直に去っていった。
扉が閉まり、一人残された文島はうつむいて、こらえていた涙を一粒、膝の上に落とした。自分は器用にも強くもなれなかった。涙はやがてとめどなく流れだす。文島は子供のように顔をぐちゃぐちゃにして、声を上げてむせび泣いた。
病さえなければ自由に生きられただろうか。愚かな問いをやめることができない。
ふと胸のつかえを感じ、壁に目をやった。『彼』がくれた押し花の額が目に入る。文島は泣きそうな顔になって、誰に聞かせるでもなく弁解した。
「元はといえば全部あなたのせいなのよ。何で現れたのよ……あなたのせいで……」
文島は呪いの言葉を叫ぶ。
「あなたのせいで、まだ生きたいなんて願っちゃったのよ……」
呪った。成長した彼の優しさも、二人で浪費した秘密も、嘘をついた夜も、自分の病も。
生きることを諦めた自分の前に現れた彼は、確かに光だった。しかし、彼が生の光を当てるほど、文島は死の影を意識し、怯えだけを膨らます。
そして死別と同じくらい、自分を失った後の彼が怖かった。
彼は強くなったから、自分の代わりなんてすぐに見つけてしまう。彼の傍らに他の誰かが座って、いつかは夫婦になるなんて、全部堪えられない。繋ぎとめようとなりふり構わず必死だったけれど、死んだ後ではそれも無価値なのだ。
薄れゆく意識の中で、彼の名を涙声で呼んだ。ベッドに体を投げ出す。
「私の全部をあげます。だから、――彼を幸せにしてあげてください……」
――優しい言葉をかけて去るなんてきざな真似はできないから、いっそ叩きつけて捨ててしまおうと思ったの。そんな弱さまであなたは全部包み込んでしまったから、結局それも失敗だったけど。
見透かされるのだけは得意ね、と文島は片頬を歪め、自嘲的に笑う。
視界がピンホールカメラのように狭まり、やがて、黒に浸かった。
息苦しいし、頭が痛いし、目眩がひどい。長年ベッドにいたが、今までの症状にこんなものはなかった。ああ、これが私の最後なんだ。こんなに早く唐突に来るなんて、思ってもみなかった。羊水に包まれるように頭がふわふわするけれど、この眠気に従えば二度と目を覚まさない。
微睡みが身体を支配する。
――もう終わりなの? 最後まで他人に願ってばかりで、辞世の句なんて思いつかなかったわ。
ならせめて、こんな私を愛してくれたあなたに、
「さようなら」
文島は目を閉じ、意識を眠りへと導いた。
===
二章終了です。
お読みいただきありがとうございました。
応援いただけたら嬉しいです♪
ちなみに谷崎の誕生日は2/14です。笑
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