2-6

「あれーっ、さっきのめがねのお兄ちゃんはー?」

「谷崎ならもう帰っちゃったわ」


 あさひがトイレから戻ってきた。その頭を撫でながらやさしく話しかける文島。


「じゃあおねえちゃんとおじさんだけかぁ」


 谷崎と同い年だというのに、おじさん呼ばわりされた『彼』が固まった。文島はこらえきれずに吹き出す。あさひはその二人の様子を不思議そうに見た後、ぷぅっと頬を膨らませた。


「あさひ、あのお兄ちゃんに花火セット預けてたのにー。またママに買ってもらわなきゃ。ママとねーあさひとゆうひでね、花火すんのっ!」


 あさひがニッコリ笑った。それから彼は、花火がより綺麗に見えるところを探そうとフロアを駆けまわる。残された文島は『彼』の手を握り、寂しそうに呟いた。


「……私にもお兄ちゃんがいるのよ。一人は高校生で、もう一人は大学生なの。離れて暮らしてるから、ほぼ一人っ子みたいなものなんだけどね。あなたは?」

「俺も兄ちゃんがいたらしいんだが、俺が生まれる前に死んじまったらしい。兄弟、欲しかったな」


 『彼』は少し躊躇ってから切り出す。


「あのよ、文島。俺ぁ手前に言いてぇことがあんだ」

「なぁに?」

「俺はずっと馬鹿にされてばっかりだったんだが、手前に出会って、いろんなもんの見方を変えることができたんだ」

「そう……ありがとう。私も、あなたに大切にしてもらえて嬉しかったわ」


 文島は花火を見ながら柔らかく笑った。

 口の中から水分が一気に引いていく。心臓の鼓動がうるさいくらいに脳に響く。目を見開いて文島を見る。――文島が彼の方を見た。口を開く。


「――俺と付き合ってくれ」

「……っ、……ごめんなさい」


 文島はすぐに応えた。


「私、あなたの恋人にはなれない」

「……どうして?」


 聞いてはいけないとわかっていたが、つい身を乗り出してしまった。


「私に価値がないからよ」

「価値のないやつなんて好きになるかよ」

「私は外に出られないのよ?」

「話してるだけで手前を好きになったんだ。今更外へ出られないなんて些細な事だろ」


 鋭く返すと、文島はいきなり形相を変えて彼を睨んできた。


「……もう、じれったいわねッ! あなたなんか嫌いよ。嫌い、きらい、だいっきらい! あなたは性欲と愛情を混同しているの。そのくらい自分で気づきなさいよ!」


 高い声で罵倒するが、彼は何も言わなかった。文島はしばらく無言でいたが、やがて彼に問いかける。


「……傷ついた?」

「いいや」


 彼は大きな溜息をつき、しかし困ったような笑みで文島を見た。


「最初に会った日、『皆がどう言おうと馬鹿だとは思わない』って言ってくれたろ。……俺があの言葉にどれだけ救われたか、手前にはわからないだろうな。世界の見え方が変わったんだ。……手前の言葉を受け止められるくらいには、強くあれるぜ」

「あら、あの言葉も嘘だったとしたら?」

「本心でどう思ってたとしても、沈んでいた俺にああいうべきだと考えて、手前はああいう言葉を掛けてくれたんだろ」


 『彼』は泣くことも罵ることもせず、背筋を伸ばして立っていた。文島は『彼』を呆然と眺めていたが、機嫌悪そうにうつむいた。


「帰って」

「帰る理由がない」

「私が不快なのよ! 帰ってって言ってるでしょ!」


 大きい声で叱ると、『彼』はやれやれと肩をすくめる。


「帰る。でも、また来るからな」


 文島は何も応えず、振り向くことすらしなかった。『彼』はエレベーターに乗り込もうとしたが、跳ねまわるあさひの姿を見つけ、文島の元へ行くように頼んだ。

 文島といえば、袖で顔を拭いながら、谷崎に言われた言葉を思い出していた。


 ――『君は突飛な恋愛に憧れ、彼を利用して恋愛を疑似体験しようとしてるんじゃないのか』。

 だって、お前はどうせもうすぐ死ぬんだから。


 ひときわ大きい花火が、フロアを照らす。

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