2-5

「真理ちゃん、おかえりなさい」


 家に帰った時、時刻は二時を回っていた。祭りに浮かれる外とは裏腹に、邸には不気味な静けさが漂っている。母は泣きはらした顔をしており、顔面に大きな痣ができていた。痣について聞くものの、転んだだけだとはぐらかす。


「馬鹿にするな! 転んだだけでそんなひどい痣ができるわけないだろ!?」


 母はうつむき、何も応えない。とすると、


「……あいつかよ!?」


 兆候はあった。尊大で自己中心的、呆れるような行動しか取らないあの男。僕達に暴力を振るわないのは無関心の証拠だと思っていたが、単にきっかけがなかったからだろう。

 母は浮かない顔のまま僕を寝かしつけようとするが、従うわけにはいかなかった。

 その内、電話がかかる。こんな遅くにどこのどいつだ。


「……はい、谷崎です。……真理ちゃん、お友達」


 友達? 母から受話器を受け取り、憮然とした声のまま応える。くぐもった低い声。『彼』だった。僅かに焦りの色がある。


『遅くに悪ぃ、美保が出なかったからかけちまった。文島のことなんだが、』

「知るかよそんなの! 僕が君たちの恋路に否定的なのは知ってるだろう!」

『わかってるけど、でも』

「黙れ!」


 彼が何かを言いかけたが、強引に電話を切った。母と押し問答を続けていると、不意にドアが開いた。あいつだ。


「お前か。突っ立てないで部屋に戻れ」

「その前に、母さんの痣について説明してくれよ。あんたがやったんだろ」

「お前には関係ない」


 父が靴を脱ごうとするが、立ちふさがって制止した。彼は眉をひそめ、


「思い上がるな。誰のおかげで飯が食えていると思ってる!」

「お前のせいで母さんは精神を壊したんだろ。そのくせ気に入らないことがあれば暴力かよ!」


 呆れるほどの理不尽に、内臓が溶けていくようだ。靴べらスタンドを蹴り、父の目を激しく睨みつけた。父の目は怒りで据わっている。


「俺の何が気に入らねぇって言うんだ。お前らを養うために働いて、今日だって」

「あんたは僕達のこと虫けらぐらいにしか思ってないんだろ! 都都宮弓子。車を買ってやるんだってな!」

「ごちゃごちゃ言うなッ!」


 顔を真っ赤にして、父が僕に向かって拳を振り上げた。頬に鋭い一撃が入り、僕は床に倒れ伏す。でも父に向き合うことはやめなかった。どれだけ顔が腫れ上がろうがもう知ったことか。


「育ててやった恩を仇で返しやがって。お前なんか俺の息子じゃねぇ」

「それならあんたなんか父親じゃない!」

「いいだろう、じゃあとっとと荷物をまとめて、あの女とここから出て行け!」


 叫びながら、殴られながら、ひどく胸が痛んだ。玄関の段差で頭を打ち、激しい耳鳴りが始まった。母が僕に馬乗りになった父にしがみつく。


「あなた、やめて!」

「うるせえ、お前は何様のつもりだ! 俺に命令できるほど偉いのか!?」

「ごめんなさい」


 母は、何も逆らわずに頭を垂れた。


「私が原因なら私が謝ります。ごめんなさい」


 そして僕の方をちらっと見て、謝罪するよう促した。僕は思い切り噛みつく。


「なんでだよ! 母さんこそ怒るべきだろ!? こいつのせいでどれだけ人生が、」

「真理ちゃん。早く」


 その顔は蒼白だった。母の視線に負け、僕は起き上がって頭を下げた。僕が殴られるのはかまわないが、僕のせいで母に害を与えたくはない。


「……すいませんでした」

「何が悪かったのか言ってみろ」

「何もわかっていないのに馬鹿なことを言ってすみませんでした」


 彼は怒りが静まらないようで、椅子に大仰な音を立てて腰掛けた。違うだろう、と告げられた。そして、下を指差してみせた。


「土下座して謝れ」


 頭を下げて口で言うだけでプライドを満足させられるなら安いものだ。

 心はいらない。

 エントランスの冷たい床に、額を擦り付ける。


「何の稼ぎもなく、何の地位もない、クソガキのくせに、ここまで養って、育ててくださったあなたに、生意気な口をきいて、すみませんでした」


 声が震えた。

 僕を鼻で笑う声が聞こえる。頭をたれたままの母、ふんぞり返るあいつ、玄関口で土下座する僕。他人から見れば酷くシュールな光景だろう。確実に壊れていた。無性にきれいな水が飲みたくなった。

 何秒経っただろう。父に部屋に戻れと告げられた。怒りを治めるためゆっくりと階段を上った。これから父は療養所に戻るらしい。残された母はまた暴力に晒されるのだろうか。部屋に入り、壁に拳を一発打ちつけた。鈍い痛みが伝わってくる。


 父さん。僕ははじめからあなたを嫌いたかったわけじゃなかったんだ。


 口の中が酷く渇く。この渇きは、いったいどうやったら満たせるのだろうか。


 一息ついてベッドに倒れこむと、あさひ君から預かったままの紙袋が目に入る。返さなければならないとは思うが、ひどく眠い。

 二人のために何が出来るだろうと考え、僕は部屋の電気を消した。

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