2-4

 休日が明け、終業式が行われた。

 昨日のことを思えば、『彼』があんなに素直に謝ったのも、文島さんの前でことを荒げたくなかったからかもしれない。その証拠に彼は、面会終了時間までずっと彼女の傍を離れようとしなかったからだ。


 集中力が完全に切れ、あたりに視線をさまよわせる。

 そういえば美保さんは委員長だから、最前列に座っているんだった。

 三つ編みの後ろ姿は難なく見つかった。背筋をのばし、校長の話に耳を傾けている。彼女を声もなく見つめていると、不意に彼女が振り返った。完全に目線がぶつかり、美保さんはほんのすこしの間僕を見る。

 そして、舌を出して笑った。


 予想だにしなかった反応に動揺し、ただ彼女を見つめ返すうち、美保さんは前へ向き直る。苦い後悔が胸に残った。

 なんでもっと愛想のいい反応ができなかったんだろう、手でも振ればよかったかな。嫌われていないといいけど。

 ……僕はなんでこんなこと考えてるんだ? 美保さんに好かれようが嫌われようが、どうでもいいだろ。



 紅神様祭り当日。療養所では無事、花火鑑賞会が行われることになった。

 五階のホールには、まばらに患者の姿が見られた。僕たちより小さい子も、高齢者もいる。入り口では看護師達が顔を見合わせて話をしていた。


「谷崎! 本当に見られるそうよ! 信じられる!?」

「信じられるも何も、僕が言い出しっぺなんだぜ」


 文島さんがはしゃいでいるので、冷たく言ってやった。

 車椅子に乗ったまま、点滴に繋がれたままでも彼女の表情は晴れやかだ。ガラス越しの暗い海を、期待に満ちた目で見つめていた。

 『彼』といえば、自販機で購入したミルクセーキをひっきりなしに口に運んでいた。そして横目で文島さんをちらちらと見ている。こいつの色ボケにはもういい加減うんざりしてきた。


「上がるぞ」


 腕時計をちらっと見て、『彼』が低くつぶやいた。電気が消され、奇妙な緊張が伝わる。


 黒、黒、真っ暗な空に、ひびが入る。

 鋭い火花が走り、直後、白い太陽が夜空に爆裂した。鮮やかな色彩が全天を彩り、水面に光が照り返す。遅れて雷のような重低音が響いた。

 横で文島さんが息を呑んだ。『彼』の裾を握る細い手が震えている。普段やりあっている姿とはかけ離れ、小さな子どものようだった。

 また一発、一発と花火が上がっては散った。文島さんの瞳は、きらきらと空に溶ける花火を映している。

 脇ではしゃいでいる子供が、文島さんに声を掛けた。

「おねーちゃん、花火、きれいだねえ!」

「そうね。花火を見るのは初めて?」

「あさね、四歳だからー、三回見た! でもね、ここから見るのは初めてなんだ」


 黒の短髪の、顔立ちの整った男児だ。なんとなく見覚えがあるような気がするので、僕は彼に声をかける。


「あさくんって言うの? 僕は谷崎。よろしくね」

「うん! ぼくねー、とつみやあさひ! ねーおにいちゃん、これ持っててー!」


 あさひ君は満面の笑みで言ってのける。待て待て、都都宮なんて苗字は珍しいから、この子は弓子さんの息子じゃないだろうか。とするとこの子と僕は異母兄弟の可能性が高い。

 片や未来の美男子、片や眼鏡そばかすのヒョロもやし。父親は同じはずなのに何でこんなに顔面が違うんだ、クソッ。

手渡された紙袋には、線香花火とライターが入っていた。


 あさひ君はサッシに額を押し付け、花火が一発上がる度にはしゃいでいたが、しばらくすると眠くなったと言って奥へ引っ込んでしまった。おねえちゃんおにいちゃんばいばい、目をこすりながら手を振る背中を、何も知らない文島さんは愛おしそうに眺めていた。そして、


「これは、紅神様に捧げる花火なのね」


 文島さんがぼんやりと呟く。ああ、と『彼』が返した。彼女はおもむろに車椅子を窓辺へ動かした。赤い蓮の髪飾りから数枚花弁を抜き取り、サッシ戸を開いて空へ奉じた。赤の雫が、夏の夜風に晒されて彼方へ飛んで行く。綺麗だと彼が言う。


「……私もあんなふうに死ぬのかしら?」


 ふと漏れた言葉に、『彼』が凍りついた。またセンチメンタルないちゃこらが始まるのかと思いっ切り半眼になってみせた。呆れて息をついて、


「僕はもう帰るよ」


 『彼』がうろたえて返事を返した。それを無視してずんずん歩く。

 年配の看護師にぶつかりそうになって、弓子さんのことを思い出した。

 僕がナースセンターに電話をかけた時、応対したのは弓子さんだった。先日の嫌味を微塵も伺わせない明るい声。文島さんの病状について大雑把に話してくれた上、花火鑑賞にも協力してくれた。それを大人の対応というのなら、僕も何事もなかったように弓子さんにお礼を言うべきだろう。これは貸しだと後でゴネられないためにも。


 そう考え、僕は弓子さんの姿を探す。人気のない廊下をさまよっていると、処置室から明かりが漏れていた。彼女の声も微かに聞こえる。声を掛けようとして僕は固まった。


 僅かに開いたドアの向こうには、信じたくない世界が広がっていた。

 父の膝の上に弓子さんがまたがり、切なげな目線を交わしていた。唇を重ね、手を組み、肌に触れ合って、部屋は熱情に汚染されていた。弓子さんの声で、なにか聞こえる。ねだるような、女を丸出しにした声、声、声――……。嬌声。母の顔が脳裏をよぎった。

 その先は見たくなかった。わかっていたはずのことなのに。

 たまらず駆け出し、男子トイレに飛び込んだ。洗面台にしがみつき、呻きながら嘔吐する。透明な胃液だけが口端を伝う。


 顔を上げた。

 そばかすの浮かんだ顔の少年が僕を見つめている。瞳は酷く虚ろだった。その瞳を抉り出し、脳を押し潰したら、今の光景は嘘になってくれるだろうか。

 僕はひとりきりで嗚咽し続け、何も出なくなった頃、家へ帰ることにした。

 祭り囃子がひどく滑稽に響いていた。

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