1-6

 一息をついて、青年は文島希を見つめた。白い肌に大きな目、長く整えられた髪。周りではめったに見ないタイプの少女だ。人形のような顔立ちが綺麗だとつくづく思う。


「それにしてもこんなところに閉じ込められて退屈だろ」

「いいえ! 本を読んだり音楽を聴いたり映画を見たり、いろんなことが出来るからそう悪くないわよ。勉強もしなくていいしね。甘やかされてるの」

「わかんねぇな」


 『彼』は右手で頭を掻いた。

 この少女といるとどうにも調子が狂う。この少女のそばにいるだけで、自分の奥の奥から、何かが目覚めそうなそんな気配がするのだ。まるで自分が自分ではないような。


「皆そうよ。皆私のことをかわいそうって言うけれど、外にはどんな楽しみがあるの? 外も中もそう変わらないような気がするわ」


 文島が唇に手を当てて呟いた。


「外には、いいものがいっぱいあるぜ。例えばほら、うまい食い物だとか、友達とか、景色とかよ」

「景色はテレビと何が違うの? 友達だって私には谷崎がいるし、食べ物だって病室に運んでもらえばいいわ。どうして外でないといけないの?」

「生き物にとって、外にいるのが自然だからじゃねぇの」

「私にとっては屋内が自然よ。それに生物の本能を引き合いに出すなら、巣穴で休むのが自然じゃないの? ねぇ、中と外とは何が違うの? 答えて?」

「んなこと言われたってわかんねぇよ。俺は馬鹿だからよ」

「私はそうは思わないわ」


 いやに鋭い口調だった。文島は強い目で『彼』を見た。


「谷崎は散々に言ったけど、私はあなたのこと、馬鹿だなんて思ってないわ。そんな立派な身体もあるし、家のために働きに出る強靭さだってあるじゃない。どうして、自分は臆病で馬鹿でとろいなんて決めつけて、可能性を狭めるの?」

「俺はそんなに立派な人間じゃねぇよ……」

「立派でなくとも自立したまっとうな人間だわ。それだけで十分凄いわよ」

「……よせよ……」


 『彼』は口に手を当てて目を伏せた。はっきり物を言える文島がまぶしく感じる。


「ねぇ、外と中との違いってなぁに?」


 文島がねだるような視線を向ける。上下する唇が、彼の視線を捉え、離さない。


「受け売りなんかじゃない、あなたの答えを聞かせて」


 彼は不器用で、あまりにも素朴だった。目の前の少女と美保とは、自分の魂にとって別格の存在なのだ。気づいてはいても、その感情を言葉にできず、ただ表情をこわばらせて、文島を見つめ返す。数秒の思考を経て、『彼』はぼそぼそと呟いた。


「……空気だろうな。朝夕は冷たいし、夏は熱くて、冬は寒ぃ……ここには、それがねぇんだ……」

「空気。そうね。ここでは何も感じることができないわ。私はそんな素敵なものを知らなかったのね」


 文島の瞳は深い黒に染まっていた。青年は激しい動悸を覚えながら、彼女の瞳を覗き込む。たった少しの会話は既に枷となり、彼の魂をきつく締め上げていた。

 狂い出しそうだ。

 彼は必死で言葉を探し、文島に捧げる。


 「教えてやるよ」


 ありがとう、と文島が笑う。首を傾けたせいで黒髪がふわりと揺れ、流れた。なんでもない会話のはずなのに、心の奥底で興奮を覚える自分がいた。震えながら問いかける。あの、と前置きし、


「触ってもいいか?」

「構わないわ」


 突然こんなことを言い出す自分、許可を出す文島。異常であることは十分わかっていた。

 右手をそっと文島の頬に添えた。意外にも彼女の肌は乾燥しておらず、滑らかな弾力を与えてくる。自分のごつごつした手では痛いだろうなと彼女を見やるが、文島はゆるく目を伏せ、彼の手を甘んじて受け入れていた。

 彼女に直に触れてやっと、青年は気づく。目の前の少女の一挙一動に、激しく揺れ動く感情。

 この感情にいちばん近いものは、――食欲だ。愛情ではない。対象を噛みちぎり、喰らい、自分の一部にしてしまいたいという欲求。


 彼はベッドに腰掛け、文島の細い肩に両手を置いた。そのままおもむろに身を近づけ、白い首筋を甘噛みした。自身がどうしようもなく昂ぶっているのを感じる。文島が目を細めて吐息を漏らした。

 ああ、このままこの首筋に歯を立て殺してしまえばどんなにいいだろう。猟奇的な妄想に浸りながら、『彼』は文島の首筋に何度も噛み付いた。


「あの子から聞いてはいたけど……ほんとうに躾がなってないじゃない? これでは獣だわ」

「なら飼い慣らしてみろよ」


 唾液で濡れた肌から口を離し言い放つ。文島は高飛車に笑い、彼を己の胸に抱き寄せた。彼女の鼓動の音と、強気な声音が重なる。


「いいわよ。怪獣じみたあなたに、私が人間を教えてあげる」



 病室の扉を開くと、文島さんと彼の視線が一気に僕へ向けられた。『彼』はスツールに腰掛け、文庫本に目を通してている。彼の視線が何かに怯えたようだったので、笑いながら声を掛ける。


「どうしたんだ、君みたいな脳筋が本に目を通すなんて。明日は雪だな」

「別に変わったことはないわよ。――ねえ、そろそろ面会時間が終わるわ」


 文島さんが甘ったるい声で言った。


「そうそう、きみ、上に美保さんが来てたよ」

「げっ……。あ、美保っていうのは俺のクラスメイトなんだ。谷崎とも友達で」

「そして君は美保さんにおんぶにだっこ。しっかりした幼馴染がいてよかったね」

「余計なこと言ってんじゃねぇ」


 彼が顔をしかめる。文島さんは上機嫌に目を細めた。


「とりあえず俺はもう行く……じゃあな、文島。絶対にまた来るから」

「はぁい」


 文島さんは心底愉快そうに手を振った。美保さんのことをからかわれたのを怒ったのか、彼は乱雑に扉を閉めてどすどす歩いて行った。にやにや笑いながら文島さんに話しかける。


「やぁ、新しいおもちゃはどうだったかな? 僕よりは扱いやすいだろう。彼は木偶の坊だから」

「あなたって本当に悪趣味よね」

「そんな僕を友人にしたんだから君も大概だよ」


 混ぜっ返すと、文島さんは舌舐めずりをした。


「そうね。私たち、初対面のとき、すぐに意気投合したわよね。私は病室の籠の鳥、あなたは人間嫌いなのに」

「そりゃあ、あの本のおかげだろう? 『すぐ他人と仲良くなれる!』とかいう」

「私も最初はそう考えていたけど、違うみたいだわ」

「どういうことだい?」


 彼女が言わんとしていることが分からず、僕は首を傾げる。文島さんは薄ら笑いを浮かべた。


「似たもの同士なの。私も悪趣味ってこと」


 その言外に隠された意味を分かるはずがない。しかし、その微笑に、弓子さんと同じような気味悪さを感じた。




===

一章終了です。

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