1-4
売店があるのは一階のロビーだ。
文島さんの病棟から出るため、廊下の端でエレベーターを待つ。その横に、あの看護師が立った。
「こんにちは、真理くん。また来てくれたのね」
都都宮弓子。僕と文島さんを冷やかした看護師だ。
すらりとした長身。黒い髪をひっつめ髪にして佇むその姿は清潔感に溢れている。口元のほくろが印象的な、柔和な美人だ。
ついいつもより低い、無愛想な声が出るのが分かった。エレベーターに乗り込み、憂さ晴らしとばかりにボタンを叩いた。
「こんにちは、弓子さん」
「どうしたの? 体調でも悪いの?」
「やめてください」
僕は、弓子さんが差し伸べた手を強く払った。怒り、軽蔑、惨めさ。様々な感情が心を引き裂いていく。
エレベーターは一階に到着し、とびらがゆっくり開いた。声を潜めて囁いた。
「……あなたと父がどういう関係なのか、知らないと思ってるんですか。かま掛けてるわけじゃないですからね」
心当たりがあるのか、弓子さんは妖艶に笑った。女の苦い、ほの暗い一面と言ったところだろうか。
僕だって昔から父を嫌っていたわけじゃない。しかし、父が様々な女性と関係を持っていると知った時から、僕は彼に軽蔑を覚えるようになった。看護師の弓子さんも愛人の一人のはずだ。
「誰かにバラすなんて出来るわけないわよね。真理くんのお母さんは専業主婦だから、先生に離婚されちゃったら実家に戻るしかないらしいし?」
まくし立てて、弓子さんは笑った。彼女の化けの皮が剥がれた瞬間だった。
「その実家も、父方の援助で保ってるんだってね。真理くん、容姿はともかく中身はお母さん似ね。貧乏くささがにじみ出てるわ」
彼女には余裕しかない。
大人で、美人で、それなりの金も稼ぎ、父に愛されている弓子さんと、子供で、なんの力もなく、父からは名字で呼ばれる立場の僕。力の差は歴然だった。
「真理くんに一つ質問するね。――もし谷崎くんが、この先の人生を約束してくれる未亡人に出会って、人生の安定と引き換えに恋人になって欲しいって言われたら、断れるかな?」
「母は死んでませんが」
「少なくとももう、先生の中では死んでるよ。それとも真理くん、君も自分がまだ生きてるとでも思ってるの?」
「……どういうことです」
「死に憧れてるんでしょ。そうでなきゃ、中学生が好きこのんでこんな所に来るわけないじゃない」
「好き好んで来たわけじゃ……」
意地汚い女だ、と再度思う。先日の夕食の相手もきっと弓子さんだろう。不倫と同時に、父がどれだけの金をこの女につぎ込んでいたかを思うとさらに怒りが高まる。無言で睨む僕と、穏やかに笑う弓子さん。そんな僕達二人に、楽しげな声がかかる。
「何言ってるんですか? 谷崎くんは生きてますよ」
僕ははっとして振り返る。美保さんだった。
「こんにちは」
彼女はいつものセーラー服ではなく、淡い黄色のノースリーブワンピースを身にまとっていた。普段は制服の袖に隠れている肌があらわになっている。
彼女ははにかんだように笑って、顔にかかった髪の毛を掻き上げた。
「あら、こんにちは。入居者さんのご家族さん?」
「違います。谷崎くんの友人です」
美保さんは満面の笑みのまま言い放つ。
「看護師がボランティアを虐げるような施設に家族を入れたくないですから。お忙しいでしょうし、失礼します。行こ、谷崎くん!」
美保さんが僕の手を取り、ロビーへ導いた。弓子さんの背がどんどん遠くなる。
美保さんが言った言葉なんて、中学生の幼稚な皮肉だ。弓子さんは変わらず笑ったままでいる。僕の立場は何も変わっていない。むしろ女子に庇われて恥ずかしいくらいなのに。
なのにどうして、――僕は泣きそうなんだろう。
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