1-2

 文島さんは枕に肘をついて、憮然とした表情で続ける。


「大体谷崎、さっきから何なのよ、全部上から目線で自己中心的だわ。自分に酔ってるの?」

「お互い様だよ」

「指摘され慣れてるようね」


 僕は気まずくなって目をそらした。同時に、ベッドサイドに置かれた大量の文庫本に目をやる。古今東西の文豪の本が山積みに並べられていた。

 視線に気付いた文島さんが声をかける。


「三分の二くらいしか読んでないわよ」

「そんなにか」


 僕は何気なくフォークナーの短編集を手に取り、ぱらぱらとめくってみた。納屋は燃える。


「そういえばこの小説家、あなたと苗字が同じだわ」


 文島さんが本の山から一冊を抜き出す。国語の資料集で目にした表紙だ。


「谷崎潤一郎」


 表紙を指で叩かれるが、読んだことがない作品なので返答のしようがない。


「どんな作品なの」

「恋愛小説」

「恋愛も小説も嫌いだ。恋愛小説はもっと嫌い」

「この本はそうだけど、他にも色々な作品があるのよ」


 文島さんは意外にもロマンチストなようで、遠くを恍惚と見て呟いた。何かを夢見るような、または憧れの視線だった。君はろくな死に方をしないだろうね、と告げる。

 恋愛小説はいただけないが、変態的というのは少し興味がある。恋愛小説以外にもあるのかと聞くと、文島さんは満足気に語り始めた。


「この人の作品は身が痺れるような快楽を与えてくれるのよ。でも私自身はもう、恋愛なんてしないつもりなの。こんな身体じゃどうにもならないでしょ」


 幼いながらに高潔を気取る彼女は、思い出したように付け加えた。乾いた笑いが漏れた。そのすぐ後に扉が開き、看護師が入ってきた。


「文島さん、真理くん。そろそろ検診の時間だから、いいかしら」

「はい」


 僕はそっけなく返して席を立った。

 病室を出る直前、文島さんに呼び止められる。上目遣いで、


「あの、……また来てくれる?」


 いいよと答えると、文島さんは儚げな笑みを浮かべた。きっとあの気の強さは取り繕っているだけで、死と孤独に怯えるこちらが彼女の本性なのだろう。

 看護師に無言で礼をして療養所を出る。無性に心が浮き立っていた。

 今日僕は、友人ができた。



 心がふわふわしている。

 山道を降り、海沿いの道路をぼんやりと歩いていた。蒸し暑さの中、時折吹き抜ける風が心地よい。

 交差点にさしかかり、海へと目線を移す。夕日が沈み、墨色に濁る海には、小さな漁船がちらほらと浮かんでいた。

 コンクリートで固められた海岸線に人気はない。林民家、墓地が夕日に照らされ並んでいる。

 ありふれた離島の風景だが、僕はこの風景が気に入っていた。あの海には、何人の人が身を投じたのだろう。

 ぬるま湯に浸かっていた意識を、声が叩き割った。


「危ない!」


 慌てて振り向くと、二台の自転車が坂道を下り、まっすぐこちらへ向かってきていた。

 ぶつかる、と思ったその瞬間、僕はコンクリートにしたたか身体を打ち付けた。


「いっ、たぁッ……!!」

「大丈夫!? ケガしてない!?」


 傷口からは真っ赤な血が流れ出ており、痛みは感じないものの、腕がわなわなと震えだす。顔の泥もそのままに、僕を轢いた犯人を見上げた。


 自転車に乗っていた片方は、三つ編みセーラーの利発そうな少女。

 もう一人は僕を撥ねた方だ。180センチ強の凶悪な顔つきの青年だった。顔立ちからして東欧系だろうか。白髪のせいで年を食った囚人のように見える。二人の着ている制服は僕の中学校の物だった。


 三つ編みの少女がハンカチを取り出し、僕の傷口に処置を施した。デカブツは傍らで不安げにそれを眺めていたが、彼女に一喝され、茂みに放り出された僕の靴を救出してくれた。


「あっりがと、えっと……」

「美保、よ。おんなじクラスの灯椿美保。あなた、谷崎くんよね? とりあえず家に帰りましょう」

「でも、歩ける状態じゃねぇだろ、その傷じゃ」

「おぶうのよ。谷崎くんをはねたのはあんたでしょ?」


 美保さんがまたデカブツを叱咤した。この女、口喧嘩とかめちゃめちゃ強そうだな。気の強さだけなら文島さんに匹敵するかもしれない。

 デカブツといえば、憮然とした表情でこちらを見ている。なんだよ、その表情。僕だっておまえみたいな暴れ牛に背負われるのはごめんだ。


 しかしながら足もないので、僕はデカブツの硬い背中に背負われ家路についた。

 腕と足の痛みに耐えながら進むと、西洋風の一戸建てが視界に入った。白い壁の前にはしゃれた外車が停まっている。

 邸を指さし、あれだよ、と二人に合図する。デカブツがぼそっと呟いた。


「随分でけぇ家だな。海にも近ぇし、土地も高ぇだろ」

「それはどうも。デートの邪魔をして悪かったね」

「あはは、私とこいつはただの幼馴染だよ。こいつ、昔っからぼやっとしててね。本当にごめんね」

「い、いや……美保さんが謝らなくても……」

「まあ、真理ちゃん! ひどい怪我!」


 口ごもっていると、連絡を受けた母が顔色を変えて出迎えてくれた。美保さんが一部始終を説明する。

 いきなり治療費に言及した母に、デカブツがさっと顔色を青くした。思い出したように美保さんが付け加える。


「それなんですけど……突然、治療費みたいなまとまったお金を出すのは少し難しいかと……」

「そう言われてもねえ、ほら、うちの真理ちゃん怪我しちゃってるじゃない? 聞いた話では、ほぼそちらの過失でしょう? 怪我をどう補填してくれるのかしら」


 母は腕組みしながら言った。大人の悪意を明確に感じ取り、美保さんは途端に黙りこんだ。デカブツは口をもごもごとさせてどうにも頼りない。

 気まずい沈黙の中、さざなみがただ響いている。


 それと同時に、僕は僕にとって完璧なアイディアを思いついた。

 母の肩により掛かり、二人に聞こえないように囁く。


「美保さんもこう言ってるし、結局は保護者と話すことだし、治療費の話をここで出すのはやめておこうよ。下品だ。美保さんもこのなんとか君も、僕のクラスメートだから関係悪化は避けたいし……」

「……パパに相談してみるわ」


 一方デカブツと美保さんは安堵の表情を浮かべていた。


「えーと、何君だっけ。とにかく、治療費うんぬんの件は後で保護者さんに連絡しておくよ。家庭事情のこともあるだろうし、できるだけ安くできるようにお母さんには言っておく」

「い、いいのか!? そんなことしてもらっちまって」

「もちろん、タダでとは言わないけどね」


 鋭く言うと、デカブツ君と美保さんが心配そうにこちらを窺っていた。

 文島さんの眉を釣り上げたあの顔を思い出す。小学生相手の対話ボランティア、このままこいつも巻き込んでしまえば僕の負担が減るだろう。


「実は僕は、療養所の対話ボランティアをやってるんだ。気難しい患者の相手を一人で行うのは本当に大変でね……そこで一つ提案があるんだ」


 おずおずとデカブツが頷く。不安げにこちらを見る彼に、満面の笑みで一言。


「君は美保さんなしだとまったくもって何もできないようだけど、変えるべきじゃないかな? 僕と一緒に、ホスピスで奉仕活動してくれないかな」


 デカブツは驚愕し、うなだれ、その後半目になった。


 ■


「ごめんね、真理ちゃん」


 夕食中、母がぽつんと呟いた。ソテーにナイフを入れながら、


「どうして母さんが謝るんだよ」

「今日の、真理ちゃんの怪我のこと。ママがちゃんと働けてたら、いきなり治療費の話なんてしなくても良かったのに。ママ、何も出来なくてごめんね」

「いいんだよ。怪我はどうしようもない話だし、母さんが働けないのもしょうがない話でしょ。父さんの稼ぎだけでとりあえずはなんとかなるんだから」

「でも……」


 もう母親のご機嫌取りはうんざりだ。そういえば、とスプーンを置く。


「父さんは?」

「仕事場の人と食事だから、夜はいらないって」


 ……外食、ねぇ。

 苛立つ気持ちを抱えながら、最後の一口を飲み込んだ。

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