第閑話 嬢たちの理由 ココ嬢の場合

 ココ嬢。


 娼館『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』所属の『花弁付き』嬢。

 一昨年『三枚花弁トレス・フォリュムフロリス』に昇格し、それ以降位階を落とさずに維持し続けている。


 このままでいけば来年は『高級娼婦クルティザンヌ』入りが確実視されている、トップ娼館である『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』のなかでも上位陣の売り上げを誇る嬢の一人である。


 綺麗だが癖の強い桃色の髪を長くのばし、大きな深い蒼の瞳をしている。

 整ったかんばせは綺麗というより可愛らしいといった方がしっくりくる方向だが、すらりと脚が長く、肉づきの良い整った体とのアンバランスさが人気の理由の一つだ。

 少女と女性の間を揺れているような表情と、完成された男好きのする体の組み合わせの破壊力は侮れない。


 店では屈託のない元気キャラとその恵まれた容姿で、多くのお客様スケベヤロー共を虜にしている。

 とはいえそのキャラクターは作られたものというわけではなく、私生活プライベートでも基本的には同じである。


 ここ最近立て続けに申し込まれた身請け話をすべて断っているのは、ココ嬢がすでにその気になればいつでも引退できる身であるからだ。

 まあそれ以外の理由のほうが大きくはあるのだが。


「たっだいまー!」


 『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』から最も近い居住区の、かなり高級な借家でココ嬢は暮している。

 高級住宅だけはある重厚な扉を開きながら、帰宅を告げる言葉を発する。

 ココ嬢には独り言をいう癖はないので、つまり一人暮らしではない。


 そもそも『二枚花弁ドゥオ・フォリュムフロリス』からは『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の建物内に部屋を得る権利を持っている。

 所有者オーナーが商売におけるイニシャルコストという概念をまるっきり無視したとしか思えない『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』に部屋を持つことは、娼婦たちの憧れの一つである。

 

 『三枚花弁トレス・フォリュムフロリス』としてその権利を持つココ嬢が、高級とはいえわざわざ借家に住んでいるのには当然のことながら理由がある。

 『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の嬢達に与えられる部屋のある階は、支配人マネージャー以外、男性は立ち入り禁止。

 となれば、権利を持っていても外で暮らす嬢たちの理由はほぼ限定される。


 同居人――多くの場合は男の存在だ。

 中には同居人が同姓という例外もいるにはいるのだが。

 

「おかえりなさい、ココ」


 落ち着いた声で迎えの言葉を口にするのは、この家でココ嬢と共に住んでいる青年ラクェウス・ヴェストアゲイル。


 つまりココ嬢の理由も、多くの例に漏れないというわけだ。

 いつでも引退できる身でありながら、ココ嬢が娼婦を続けている理由でもある。


 線は細いが、鳶色の髪と瞳をしたその顔は美青年と言って充分通用するだろう。

 広い居間に画材道具を展開し、絵を描いている最中のようだ。


「描いてたんだ?」


 ラクェウスは画家である。

 ただし今のところ自称の粋を抜け出せてはいない。

 つまり絵だけでは食べてはいけない、という事だ。


 熱狂的なファンは幾人かいるものの、その人たちへの売り上げだけでは食べていけるほどの稼ぎにはならない。

 はっきり言ってしまえば、ココ嬢のヒモのような暮らしをしているのが現状だ。


 ここのところはあまり絵を描いておらず、主夫業に専念していた。

 だからこそココ嬢の言葉が疑問形になっている。


「うん。――どうしても今日中に完成させたいんだよね」


 受け答えはしてくれるものの、ラクェウスの視線はキャンバスに固定されていてココ嬢のほうを振り返ってはくれない。

 描かれている絵はラクェウスの体で隠れていて、ココ嬢からは見えない。


「見てもいい?」


 同居人の描く久しぶりの絵がどんなものか見たくて聞いてみる。


「完成したらね」


 だがやんわりと断られた。

 これはまあいつものことだ。


 ラクェウスは完成前の絵を見られることを嫌う。


「ぶー、完璧主義者め」


 口ではそう言いながらも、ココ嬢はラクェウスの言葉に従って描きかけの絵を見ないように、椅子に座って絵を描くラクェウスの背中に自分の背中をそっと合わせる。


 ラクェウスもココ嬢が自分の言う事に従ってくれることをまるで疑っていない。


「今日中には完成させるよ」


 くすくす笑いながらフォローを入れるように、背中を触れ合わせるココ嬢に告げる。


「何の絵かは聞いてもいい?」


 基本的に「どこにも存在しない風景画」を描くことを軸足としているラクェウスが、久しぶりに描いている絵が何なのか興味がある。

 見ることは許してくれなくても、何の絵かくらいは教えてくれるだろう。


「ココの絵だよ」


「えー。またエッチな奴?」


 ラクェウスには前科がある。

 一度だけ描かれたラクェウス曰く「一番僕が綺麗だと思うココ」の絵は、すごく官能的な表情をした自分の裸婦画だったのだ。

 自分でも恥ずかしくなるくらいのその絵を、ひょんなことから支配人マネージャーに見せることになったときは、娼婦の自分なのに顔から火が出るかと思うくらい恥ずかしかった。


 それ以来、支配人マネージャーは「画家ラクェウス」のファンになったのだが。 


「さてどうだろう?」


 自分の絵を描かれていると知って、照れ隠しのように以前の絵のことを口にするココ嬢を、ラクェウスは笑ってはぐらかす。


「じゃあ今日は集中だね」


「うん、ごめん」


 ココ嬢はラクェウスの絵にほれ込んで、一緒に暮らしだしたのだ。

 その絵の邪魔をする気は元よりない。


「気にしないでー。じゃあ私は寝るから、完成したら起こしてね」


 なぜ急に描く気になったのか。

 それが風景画じゃなくて、自分の絵なのはなぜなのか。


 聞きたいことはいくらでもあるけれど、それをのみこんで我慢する。

 完成したら、それらの理由も教えてくれるだろう。


「了解。朝ご飯はテーブルの上に用意してあるから、おなか空いていたら食べてね」


「ありがとー」


 会話が切れると集中してキャンバスに向かうラクェウスを邪魔しないように、そっと背中を離して、食事を用意してくれているという食堂へと静かに移動する。


 ――あーあ。


 もう終わりなのかなあ、とココ嬢は内心で涙色の溜息をつく。


 いつも通りのように見えるラクェウスの態度だったけれど、ココ嬢は職業柄、「何かを決めた男の人の貌」というのはすぐにわかる。

 わかってしまう。


 伊達にトップ娼館で売り上げ上位の嬢を維持しているわけではないのだ。


 ――明日でちょうど一年だって、ラクェウスも覚えていてくれたのね。


 だからこそ、けじめをつけようという顔をしているものか。

 ココ嬢が縋るようにして始まった二人の暮らしだったけれど、それもおしまいという事なのかなあ、とココ嬢はちょっと泣きたくなった。


 形こそラクェウスはココ嬢のヒモの様になっているが、それは何もラクェウスが望んでそうしているわけではない。

 ラクェウスの絵に惚れこんだココ嬢が、半ば強制的にこの同棲暮らしへと引きずり込んだという方が正しい。

 ココ嬢と暮らしだすまでのラクェウスは、自分でちゃんと仕事もしながら、夜や休日に市のたっている広場で己の絵を売るという、貧しいながらも自立した暮らしを送っていた。


 だからこそ、ココ嬢との暮らしでは食事の用意、洗濯、掃除といったいわゆる主夫業に関しては、己が絵を描くことよりも優先してきちんとやってくれていた。

 働かなくても好きなだけ絵を描いてもいいよというココ嬢の誘いにのった、ラクェウスなりのけじめだったのだろう。


 ――あの日は酔っぱらってたのよね、私。


 出逢いの日。


 ラクェウスが休日の市で自分の絵を売っているところへ、酔っぱらって絡んだ自分の事を、ココ嬢はよく覚えている。


 自分が娼婦として『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』で働いていく理由すらもなくなった日、自分は確かに途方に暮れていたのだ。


 ココ嬢が『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の所有者オーナーと交わした約定。


 今はもう無くなってしまった自分の村の生き残りを、ちゃんと生活できるようにしてもらう事。

 村を襲った犯人を特定してくれること。

 

 それと引き換えに、自分は『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の嬢として体を売ることを了承したのだ。


 自分にとってのどうしても譲れない事。

 それを叶える為であれば、叶えてくれるのであれば、体を売ることくらい耐えてみせると思えたのだ。


 体を売る仕事は楽じゃない。

 そんなことは当たり前だ。


 最初は泣いたし、心が壊れそうになったことも何度もある。

 自分がどうしようもなく汚くなった気がして、吐き気が止まらなくなった夜も数えきれない。


 それでもいつしかよくしてくれる御贔屓筋ができ、同じ『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』で働く嬢達や、嘘みたいな魔法を自分たちのために使ってくれる支配人マネージャーと「同じ釜の飯を食う仲間」だと思えるようになった。


 そのうちに、二度と心から笑う事なんかないと思っていた自分が、しんどくても辛くてもたまに心から笑える時が、無数の辛い夜の間にふいに訪れるようにもなった。


 種族的に恵まれた容姿のおかげで、無理してでも笑えるようになればお客様は増えた。

 それゆえに増えた辛さもあったけれど、それは仲間たちが支えてくれた。


 気が付くと自分は『三枚花弁トレス・フォリュムフロリス』という売れっ子嬢の一人となっており、自分の女として通用する時間をすべて使っても清算できないと思っていた「代価」を、あっという間に払い終わるに至った。


 今では自分が人として心を開いていると思える支配人マネージャーに、今期で自由の身になるがどうするね? と聞かれた時は頭が真っ白になったのだ。


 自由の身という意味は、馬鹿じゃないので当然理解できる。


 だけど今更自由になったところで、どうすればいいというのだろう。

 しんどくても辛くても、歯を食いしばって無理をして、何とか頑張れるようにはなった。

 そんな日々の中で、無理せず心から笑える時も持てるようにもなった。

 お金で買われているとしても、情みたいなものが存在するお客様も確かにできた。


 だけどそれは夜街という、普通の世界、お日様のあたる世界から隔離された世界の中においての話だ。


 今更、普通の世界に放り出されてもどうしていいかなんてわからない。


 『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』のココ嬢じゃなくなった自分など、体の汚れた異族の娘でしかない。

 自分が体を売ってまで叶えた仲間たちの穏やかな暮らしを、今更自分自身が乱したくもない。


 途方に暮れたのだ。


 毎夜いろんなお客様に体を売り、支配人マネージャーの魔法をかけてもらう暮らしが当たり前になっていたココ嬢は、どうするか決めるまでもらえた休みさえ持て余した。


 娼婦の仕事に誇りに似た思いを抱くようにはなっていても、好きなわけではない。

 でも今更「元娼婦」として、市井の暮らしになじめるとも思えない。

 普通の女の子なら夢見るであろう、誰かのお嫁さんになってその人との家庭をささえるなんて、自分でも笑えるくらいにありえないような気がした。


 どうしていいかわからずに呑んでみた慣れない酒が過ぎ、何を思ったか休日の市場へ酔っぱらって出かけたのが、ラクェウスとの出逢いとなった。


 ――みんなが楽しそうにしてる休日に、お日様の下に行けば私も一緒になれるとでも思ってたのかな。


 市の隅っこで、上手だけれど「普通の風景画」を並べている画家さんの周りには、誰もお客さんなんかいなかった。

 だけどココ嬢はその絵の中に、今はもう無くなってしまった自分の村の風景によく似たものを見つけて、酔いの勢いに任せてふらふらと話しかけたのだ。


「上手だねえ」


「でも売れないけどね」


 自分でもそれなりにいい女だという自信はあっても、泥酔している娼婦が昼間っから絡んで来たら誰だって嫌な顔をするだろう。


 商売の最中であれば尚の事だ。


 そう思っていたのに、意外な返事が返ってきたことにココ嬢は一瞬驚き、なんだか楽しくなってしまった。


「普通の景色だもんねえ」


「――多くの人にとってはそうだね」


 迷惑そうでもないかわりに、泥酔した女の子にの視線を向けるわけでもない。

 かといって自分の絵を買えと売り込んでくるわけでもない。


 理不尽極まりないことだが、高級娼館の人気嬢である自分にを向けない画家さんがちょっと憎らしくなって、酒の勢いも手伝って誘惑でもしてみようかしら、などと考え始めていたココ嬢である。

 

 だが画家さんのその返事で、そういう気はなくなった。

 

 マイペースな画家さんは、画材道具を取り出して何かを描く準備を進めているようだった。

 ココ嬢は女としての身勝手な自尊心よりも優先された疑問をその画家さんに投げかけた。


「普通の景色に見えない人もいるの?」


「その景色が故郷の人だね」


 そう言われて、ココ嬢はものすごく納得した。

 言われてみれば自分がこの場に引き寄せられたのも、故郷にどこか似ている絵に引き寄せられたからだった。

 不思議な会話をする画家さんを、この時点でココ嬢は気に入っていたと今でも思う。


「なるほどねー。だけどそれを普通の人たちに売ろうとするのは無理がない?」


「……違いない。盲点だったな。――そりゃ売れない訳だね」


 そうか、そりゃそうだよね、などとぶつくさ言っている画家さんがおかしくて、ココ嬢はここしばらくふさぎ込んでいた気分が晴れたような気がしたのだ。


 そこからは悪酔いは心地よい酔いになり、迷惑だっただろうにたくさんお話をした。

 にこにこしだしたココ嬢は本来の魅力を発揮し始め、いちを訪れているお客さんたちの視線を集めたが、誰も絵描きさんとの会話に入ってくる人はいなかった。


 今思えば大概の営業妨害である。

 自分がいなかったら売れていたかと言われれば、ラクェウスは笑うだろうけれど。


 話をするうちに、画家さん――ラクェウスの事がわかってきた。

 

 たくさんの人に故郷の話を聞いて、頭に浮かんだ風景を絵に描くことが好きだという事。

 話から空想する景色なので、当然その人の本当の故郷の風景とは似ていても違う事。

 それでも話を聞かせてくれた人たちは、嬉しそうに、懐かしそうにその「故郷の絵」を見てくれること。

 最初の一枚は話を聞かせてくれた人に無料で進呈し、聞いた話から想像する「故郷」を描く許可を得ていること。

 実際は見たことのない、多くの人たちの故郷が自分の中で地図になり、世界が広がっていくのが楽しいのだという事。


 故郷の記憶を持たない自分は、そうやって故郷を得ようとしているんじゃないかな、とラクェウスは笑って言っていた。


 話の中で、ココ嬢は自分の事もたくさん話した。

 普通なら初対面の人に話すはずのないようなことまで。


 自分は娼婦であること。

 故郷は滅ぼされてしまってもうない事。

 今更娼婦を辞めてよくなっても、どうやって暮らしたらいいかわからないこと。


 ふうん、と興味なさそうに聞くラクェウスの興味を引きたくて、自分の今はもうない故郷の話もした。

 

 人里離れた、田舎と呼ぶのもおこがましい山の中にポツンとあった村だったこと。

 でも近くの川が綺麗で、夏の川遊びが好きだったこと。

 村はずれの崖から見る夕日が嘘みたいに真っ赤で、大好きだったけどそれを見るとなぜか寂しくなったこと。

 うつろう季節はどれもみな綺麗で、貧しい村の暮らしは厳しかったけど自分もそこで大人になり、誰かと家庭を築いて次の世代を育んでいくのだろうと思っていたこと。


 思っていたのに。


 なんで自分は今、こうなっているんだろう。


 泣いていたと思う。

 お客様に夢を見せる、一流の娼婦にはあるまじき醜態だったはずだ。

 それでもラクェウスは嫌な顔一つせず、故郷の話には興味をもって聞いてくれていた。

 

 絵を描きながらではあったけれど。


 一通り話し終えて、すんすんとしゃくり上げるだけになっていた迷惑極まりないココ嬢に、


「こんな感じかなあ?」


 といって、話を聞きつつ描いていた絵を見せてくれたのだ。


 それは切り立った崖から見える、沈みゆく真っ赤な夕日の風景画だった。


 ココ嬢の記憶にある故郷の崖とは似ていても違う。

 本物は絵ほど切り立った崖でもないし、沈む夕日に照らされる景色もまるで違っている。

 それは当然だ、この絵はココ嬢の話を聞いて、ラクェウスの中で想像された「ココ嬢の故郷」なのだから。


 だけど見た瞬間、それがココ嬢の「故郷の風景」だと、すとんと心に落ちた。

 似ていて違うのに、ラクェウスに「故郷」を描いてもらった人がみな懐かしそうな顔をする理由が強く理解できた。


 正確じゃない。

 まるで違う部分のほうが多いくらいだ。


 でもだけど。


 自分が経てきた人生で色付けられ、あるいは「美化」という名のフィルターがかけられた「かくあれかし」という故郷の風景を描き出されるからこそ、その故郷を語った人にとっては唯一無二の「故郷の風景」となるのだ。


 その絵を見て再び大泣きし、まわりきったお酒のせいもあったのかそのままココ嬢は泣き疲れて寝てしまった。

 無防備とかそういうレベルじゃない。

 後日その事実を知った支配人マネージャーからは、初めて見る真剣な表情でお叱りをくらった。

 確かに相手がラクェウスでなければどうなっていたかわからないので、ココ嬢は大いに反省したものだ。


 目が覚めると、そこは知らない部屋だった。

 

 当時ラクェウスが暮らしていた、狭い部屋。

 その隅っこのぼろっちいベッドに、ココ嬢は寝かされていた。


 今思い返しても失礼極まりない行動で嫌な汗をかいてしまうが、まずココ嬢が確認したのは、自分が何もされていないかどうかだった。

 娼婦歴もそれなりに長いココ嬢は、すぐに自分がなにもされていないことを確認してほっとした。


「心配しなくても何もしてないよ。ここへ運ぶときに体に触れたことは勘弁してほしいけどね」


 と言って笑うラクェウスの声に、今までの人生で一番赤面して、一番真剣に謝罪したことを覚えている。


 笑って「気にしないで」というラクェウスを、ココ嬢はその場で口説いた。

 あなたの絵が好きだから、私と一緒に暮らして好きに絵を描けばいいと。

 

 依存だったと、そう思う。


 絵に惹かれたのは嘘じゃないし、人としても惹かれたのは事実だ。

 酔っていたとはいえ泣くほど惹かれた「故郷の風景」だったし、お客様たちとは全く違う反応を見せる男の人に興味があったのは間違いない。


 でも娼婦じゃなくなることに戸惑っていた自分が、無理やり娼婦を続ける理由を作ろうとしたのだということはよくわかっている。


 ラクェウスもそれがわかっていたからこそ、驚きながらも了承してくれたのだろうと思う。

 それほど当時のココ嬢は不安定だったのだ。


 そうしてココ嬢は『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』に与えられていた自分の部屋を引き払い、今の借家でラクェウスと暮らし始めた。


 むちゃくちゃなはじまり方をした二人の暮らしだったけれど、それはココ嬢にとって楽しい暮らしだった。


 お客様と娼婦ではなく、一人の男と女として同じ家で暮らすこと。

 「いってきます」と「ただいま」を言えること。

 「行ってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言ってくれる人がいてくれること。


 すべてが嘘みたいに楽しくて、幸せで、あっというまにココ嬢はラクェウスに夢中になった。

 ラクェウスも気ままに絵を描きながら、家事全般をこなして、にこにこと日々暮らしてくれていた。


 誰かの故郷を空想して描く風景画が好きなラクェウスを、不思議な故郷らしい支配人マネージャーに逢わせたりもした。

 その時に自分の「裸婦画」を見られたりしたのだが、その時から支配人マネージャーとラクェウスは馬が合うようで、友達付き合いをしているようだ。


 支配人マネージャーの不思議な故郷の話を聞いて、ラクェウスが描いた風景画は、ラクェウスを含めて誰も見たことがない不思議な光景だった。

 四角くて嘘にみたいに高い建物がいくつも並ぶ巨大な街が、世界で最も明るい夜を持つといわれる王都グレンカイナよりも光に溢れた夜に包まれている、不思議な絵。


 その絵を見た支配人マネージャーが、しばらく沈黙した後涙を流したのを見てひどく驚いたことをココ嬢は覚えている。


 いや何事にも動じない人だと思っていた支配人マネージャーの涙にも驚いたが、それを見た自分なんかでは足元にも及ばない高級娼婦クルティザンヌ、『五枚花弁クインケ・フォリュムフロリス』であるルナマリア、リスティア、ローラの三人が本気で慌てふためいていたことのほうが驚いた。


 雲の上の人たちという表現が大げさでは無い貴顕のお客様たちを手玉に取る彼女たちが、支配人マネージャーの涙にそこらの小娘のように動揺していたのだ。

 自分たちまで涙目になってしまうくらいに。


 それを見ていいなあと思ったのだ。

 自分もそんな風に想い想われるように、ラクェウスとなれればなあと。 


 その時からラクェウスが支配人マネージャーと男友達として付き合いだした事もあって、なんとなく今の暮らしがずっと続くものだと漠然と思っていたのだけれど。


 ラクェウスは何かを決めた顔をしていた。

 今の状況で何かを決めるとしたら、この暮らしを止めることくらいしかココ嬢は思いつかない。


 ――何か嫌われること、したかなあ……


 涙目になりながら、嫌な現実を忘れるようにココ嬢は眠りにつく。








「ココ、ココ。起きて。――出来たよ」


 ぐすぐすとぐずりながら眠るココ嬢を、ラクェウスが優しく揺り起こす。

 絵が完成したのだ。


 今のラクェウスがどんな自分を描いてくれたのだろうと、少しだけ寝ぼけた頭でココ嬢は思う。

 絵を見せてくれると同時に、ラクェウスが何を決めたのかも伝えてくれるのだろう。

 

 この一年でずいぶん落ち着いた私に、もう自分は必要ないとか言われるのかな。


 貴方がいてくれるからなんだけどな、と心の中でだけ溢す。


 冗談みたいなはじまりだったけど、今はちゃんと好きなんだけどな。

 娼婦で異族な私だけど、ほんとうに楽しい毎日だったのに。

 

 終わっちゃうのかな……


 泣いて嫌だよと縋ろうかなと思ったココ嬢に、ラクェウスの意外な言葉がかけられる。


「ちょっと照れくさいけど、会心の出来だから見てくれる?」


 そういって見せられた、ラクェウスの描いたココ嬢の絵は――


 自分でも見たことがないと思えるほど、とびっきりの笑顔で笑う自分だった。

 こんな風に笑えたらいいな、と思っていた自分だった。


「こ、これって……」


「えっと、今から勝手なことを一方的に言うけど、聞いてくれるかな?」


 常ににこにことしているラクェウスが緊張した表情をしている。

 ある意味支配人マネージャーと同じくらい、何事にも動じない人だと思っていたラクェウスのこんな顔を見たのは、一年近く一緒に住んでいても初めてのことだ。


 言葉だけなら別れを切り出されても不思議はないものだが、その表情がそんな話ではないことを雄弁に物語っている。


「はいっ」


 勢い、ココ嬢もその表情に呑まれて緊張する。


 おかしなはじまり方をした二人は、一年近く同じ家で一緒にいながら、男と女の関係どころか、手を繋いだことすらない。

 さっきのように、背中を触れ合わせるくらいがせいぜいという、誰かに話しても信じてもらえないような距離感を保っていたのだ。


 それを信じてくれたのは支配人マネージャーくらいだ。


「――娼婦の仕事を、辞めてくれないかな」


「え?」


「絵はやめないけど、僕が働く。こんな立派な家で住むことができなくなる貧乏暮らしになるかもしれないけど、そんな暮らしの家を支えてくれないかな?」


 混乱はしているけれど、ココ嬢はバカではない。

 ラクェウスの言葉が、だろうということは理解できる。


 ラクェウスは娼婦を蔑んだり、憐れんだりしたことは一度もない。

 だからこそなのか、ココ嬢に娼婦を辞めろなどと言ってきたことは一度もなかった。 


「平気なんだと思ってた」


 ココ嬢が毎夜お客様に抱かれていてもそんなことには頓着しない人。

 一方で、そういう欲望を自分に全く向けてこない人。


 なのに一緒にいてくれる人。

 だからもう終わりなのかと勘違いしたけれど、ラクェウスが決めた覚悟はココ嬢が恐れたものと真逆のものだったのだ。 


「そんなわけないだろ。僕も男だからね、カッコつけたりはするよ」


 最初はカッコつけではなく、気にしていなかったという。

 でも一緒に暮らすうちに好きになると、途端に苦しくなったと。


 ある日ココ嬢が帰宅すると描きあがっていた、ココ嬢の艶絵。

 あれはココ嬢がお客様と閨を共にしている夜、地団駄を踏みたくなるようなラクェウスの気持ちから描かれたという。

 嫉妬している自分を自覚して、気が狂いそうになりながらそれでも浮かんでくる妄想であり、間違いなく現実でもあるココ嬢の様子は、美しく悩ましい、あの絵のようであったのだと。 


「でももう我慢したくないから、みっともないけど伝えるよ。ココの心も体も、これからの時間も、全部僕だけのものにしたいと思ってる。そして本物のココも、この絵みたいな笑顔にしたいと願ってる」


 過去は問わない。

 いや問わないわけじゃない。


 でも好きになったからこそ生まれる突き刺すような痛みの感情も抱えて、これから先を一緒にいたいとラクェウスは望む。

 辛さに呑まれて、なぜ辛いのかという本質を見失わない。


 好きだからこそ、娼婦であった事実が辛いのだ。

 だけど辛いから好きであることを止めるなんて馬鹿なことはしない。


 ココ嬢に惚れるということは、それすらもひっくるめて好きだという事だ。

 自分でもわからなくなりそうになる本当の気持ちは、絵に描いてみれば明白だった。


 自分でも会心の出来だといえるココ嬢のあんな笑顔がかける自分は、間違いなくココ嬢の事が好きだと確信できた。


 だから自分の想いは、絵とともに全部告げた。


 だからあとは……


「……返事を聞かせてくれるとありがたい」


 ラクェウスの言葉に、ココ嬢はどうしていいかわからなくなる。


 伝えたい気持ちは、それこそ山ほどある。

 だけどそれをもれなく伝えるには、言葉じゃまるで足りない気がする。


 ココ嬢はふいに理解した。


 ――こんな時の気持ちを正しく全部伝えたくて、人は肌を重ねるんだわ。


 私はラクェウスみたいに、口下手を補う様な絵なんて描けない。

 だけど女の子には、気持ちを伝えるとびっきりの手段がある。


 ココ嬢はその手段を正しく行使することにした。


 暮らし始めて一年を迎える前日の今日。

 初めて女の子として、男の人であるラクェウスに触れる。


 高級娼館の人気嬢とも思えない、震えるつたな接吻キス


 それはラクェウスが描いてくれたとびっきりの笑顔のココ嬢と同じくらいの正確さで、ココ嬢の答えをラクェウスに伝えることに成功した。


「――私の本当の名前はね?」


 その上で伝える、もう二度と口にすることはないと思っていたココ嬢の本当の名前。

 今はもうなくなってしまった村でお嫁さんになることを夢見ていた少女の夢は、遠く離れた王都グレンカイナの地で今日叶う。


 今日、今この瞬間に至るために今までの全てがあったのだと思えば、辛い記憶も抱えて生きていけると思える。


 今日で『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の『三枚花弁トレス・フォリュムフロリス』であるココ嬢はいなくなる。


 たった今からは絵描きのラクェウス・ヴェストアゲイルのお嫁さんの――







 後日譚。


 引退することを伝えるココ嬢に頭を抱えた支配人マネージャーが、共に挨拶に来ていたラクェウスから「想いを伝える笑顔のココ嬢」を見せられて、ある依頼をラクェウスにお願いする。


 それは王家や有力娼館と協力して作成する計画がある、王都グレンカイナにおける「花弁付き」の嬢たちの目録、仮称『夜街花弁目録』に、ラクェウスの描く嬢たちの『艶顔』と『笑顔』を載せようというものだった。


「こういうのはイラストが命だって、どこの世界でも相場は決まってんだ」


 などと謎の言葉を支配人マネージャーは口にしていた。


 支配人マネージャーが提示したのは、かなりの枚数に上る嬢達の絵を一定の金額を払って買い取るのではなく、販売する『夜街花弁目録』の売り上げの一部を売れる限り支払うという不思議な条件。

 

 描けることを喜ぶラクェウスはその辺の条件に無頓着であったが、発刊後テラヴィック大陸中で飛ぶように売れた『夜街花弁目録』からの収入が、ラクェウスとココ嬢の暮らしを豊かなものにし、画家としてのラクェウスの名前を大陸中に響かせることになるのは、また別のお話。

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