第捌話 シンシア嬢―古参の場合

「……終わってみればあっという間だったわねえ」


 シンシア嬢――俺としちゃシンシア姉さんと呼んだほうがしっくりくるが、支配人マネージャーである以上は呼び捨てならまだしも、姉さんと呼ぶわけにもいかない。とてもじゃねえが呼び捨てなんてできねえしな――が深いため息とともに、ぽつりと言葉をもらす。


 栗色の緩やかに波打つ髪と、同色の瞳。

 バランスのとれた肢体は女性にしちゃ背が高い。


 特段胸がでけえ訳でも、ケツがでけえ訳でもねえが、すらりと長くて綺麗な曲線を描く御美脚おみあしに踏まれたいってなお客様スケベヤロー共は、かなりの数に上がる。


 黙ってりゃ優しげ、儚げってな表現がぴったりくるかんばせの割にゃ、結構鋭い舌鋒をお持ちだ。

 ルクレツィア嬢クラスには耐えられなくても、適度に虐げられたい類の方々にも結構な人気を誇っていらっしゃる。


 ギャップってな、どのジャンルでも一定の評価を得るもんだ。

 

 だがこのシンシア嬢は、本日をもって娼婦を引退するひく


 最後にちっとドタバタしたが、シンシア嬢が娼婦として胡蝶の夢うちで働いているであった借金がすべて清算されたからには、続ける理由がない。


 胡蝶の夢うちの娼婦たちは、それこそ所属する娼婦たちの数だけので己の躰と時間と技術を売って稼いじゃいるが、それがだっていう嬢はめったにゃいねえ。


 ――中にゃあいるのが、恐ろしいっちゃ恐ろしいが。


 己を恥じちゃいねえし、胸張って稼いじゃいるものの、が消えちまっても娼婦を続ける嬢はほとんどいない。

 娼婦が天職だってな嬢もいるにゃあいるが、多くの嬢にとってキツイ仕事だってのは間違いのない事実ではある。


 想い人が出来たりした日にゃなおのことだ。


 シンシア嬢にしたって、ダレンの旦那と自分自身ののために引退するんだといっていいだろう。


 事実、借金完済にゃあまだもうちっと残っていたところを、ここ王都グレンカイナで店開いてるダレンの旦那が、その店処分して残金に充ててくだすったんだ。

 引退した後は、二人でダレンの旦那の田舎に帰ると聞いている。

 その田舎で、王都の店売って残った金で小さな店を出すそうだ。


 己の夢であっただろう王都の店を処分してでも、一日でも早く辞めさせたい。

 男によっちゃ、惚れた女にさせるにゃそれだけキツイ仕事ってのは理解できる。

 借金返し終えたら、その身以外は何一つもたねえシンシア嬢を嫁にしようってんだ。

 娼婦を馬鹿にしているわけでも、蔑んでいるわけでもないのは間違いねえ。

 

 ――つくづく娼婦って商売は因果なもんだと思い知る。


「そんなこたねえだろ。九年間ってなあっという間と言うにゃあ長い月日だ。しかも娼館での九年だからな」


 シンシア嬢が「胡蝶の夢うち」で娼婦となったのは九年前、17歳の時だ。

 それから26歳となる今日まで、「胡蝶の夢うち」の中堅どころを張ってきてくれている。

 今じゃ最年長の一角でもあり、ルナマリアやローラ嬢、リスティア嬢もなついている、いい「あねさん」だ。


 支配人マネージャーとしてだけの判断なら、引退されちまうのは少々痛い。


 売り上げやなんやを除いても、店の嬢たちの精神的な支えってなあ得難いもんだ。

 ルナマリアやローラ嬢、リスティア嬢のようなトップ張ってくれる連中はある面の支えになれもするが、人気的には中堅どころでも、長くやってくれてる嬢にゃあまた別の支え方ってえもんがある。


 ――事実、うちのトップ3も揃ってシンシア嬢にゃ懐いていやがるしな。

 

「無粋ね、支配人マネージャー。――あっという間だったとしておいてよ」


 シンシア嬢が苦笑いを浮かべる。

 九年間があっという間なはずがねえことなんざ、シンシア嬢こそが一番知っている。


 そりゃそうだ。


 ――ほんとに俺は気が利かねえな。


「そういうもんか。――すまねえ」


「馬鹿、冗談よ。――小娘だった17の時には自分を憐れんで泣きもしたけど、おかげできっちり借金は返せたし、娼婦を嫁にしたいってモノ好きにも出逢えたわ。まあキッチリ返したと胸を張るには、ダレン様に負担かけたのが心苦しいんだけれど」


 本気で詫び入れたらくすくす笑われた。


 この辺の、手慣れたとの会話の機微ってやつは、未だに俺にはよく分からねえ。


 『おまいさんには艶が足りない』


 って所有者オーナーに言われた言葉が頭に浮かびやがる。


 すいませんね、何年娼館の支配人マネージャーやらしてもらっても、身につかねえもんは身に付きませんな。

 ゼロに何かけたってゼロにしかならねえわな。

 うっかりマイナスだったりした日にゃ、艶どころか終いにゃ錆びてんじゃねえかな。


 まあそれを言うなら、ダレンの旦那も俺とご同輩じゃねえかと思うんだがな、シンシア嬢?


じゃねえのかい」


「心の中じゃあそう呼んでるから勘弁してよ。支配人マネージャーの前でそう呼ぶのはどうにも照れくさくってさ」


 文字通り百戦錬磨、シンシア嬢の言うことであればルナマリア達でも一応は聞くような娼婦の大先輩が、演技や駆け引きでなく頬を染めてもじもじしてら。

 色恋ってなすげえもんだと思う以上に、って生き物の多面性にびっくりさせられる。


 「三枚花弁トレス」としてお客様スケベヤロー共を満足させる手練手管と、想い人を何と呼ぶかで頬を染める乙女が、双方とも矛盾なく同居してるってんだからおっかねえ。


 実際、借金返済だけを目的とするならシンシア嬢を身請けしようってな貴顕の連中は結構な数が存在したのだ。

 それをすべて断って、娼婦になった最初の年に出逢ったダレンの旦那と添い遂げることを決めて、今日までシンシア嬢は娼婦を続けてきた。


 九年だ。


 少なくとも駆け出しの商人と新人娼婦の吹けば飛ぶような恋が、九年の歳月で色褪せずに結実するってなあ大したもんだと思う。

 手垢のついた言い方を赦してもらえりゃ夢がある。

 しかも浮っついたもんじゃなく、汗と涙で叶えちまった夢だ。


「えらくかわいらしいじゃねえか」


 めったに見せてちゃくれねえ表情に、思わず要らん突込みを入れてしまった。

 勝ちきる自信もねえくせに、考えなしに口に出しちまうところが俺もまだまだだ。


「あれ知らないの支配人マネージャー? 女の子って、好きな相手についちゃいくつになっても、どういう経験積んでも可愛らしいものなのよ? 愛の可能性を信じたい相手には常に可愛らしくあろうってのが女っていう生き物なの。覚えておいたほうがいいんじゃない?」


「へいへい。――敵わねえようちの嬢たちにゃ」


 ――ほらな。


 乙女の顔を見せるのは想い人相手にだけで、ちょっとからかや返す刀で一刀両断にされちまうのがオチだ。

 オチが見えてるのに、余計な事言った俺が全面的に悪い。


支配人マネージャーの前じゃあ「可愛い」嬢たちもいっぱい居るじゃない。特に三人ほどはすぐに思いつくんだけど?」


 その上追撃も来た。

 ほんとに要らん事いうんじゃなかったな。


「俺にとっちゃみんな可愛くて、区別なんざつかねえよ」


ことにしといてあげるわ、朴念仁」


「……たすかる」


 どうにも古参の嬢たちにゃ頭が上がらねえ。


 俺が「胡蝶の夢ここ」で支配人マネージャー任される前から在籍していたような、シンシア嬢クラスにゃあとくにだ。


 至らぬ身で馬鹿やった一通りが知られてるってなあ、カッコのつけようがねえ。

 それどころか最近の新人連中に妙に持ち上げられるのも、逆に古参の嬢たちにゃ生暖かく笑われているような気がして落ち着かねえ。


支配人マネージャーはもうちょっと自信持ちなさいな。私がダレン様にだけ見せる表情かおを、から向けられておきながら、自称「冴えない」で通すのはちょっとどうかと思うわよ?」


 勘弁してくれたのかと思いきや、より踏み込んでこられた。


 もうこうやって話す機会もなくなるってんで、遠慮がねえのが恐ろしい。

 何が恐ろしいって、俺とのことを真剣に思ってくれての発言だからケムにも巻けやしねえってのが恐ろしい。


胡蝶の夢うちをきりまわす手腕にしても、娼婦わたしたちにしてみれば有り難いなんてもんじゃない魔法にしても、に完全に懐かれている――ってレベルじゃないと私は思うんだけどまあいいわ――事実にしても、ふんぞり返れとまでは言わないけれど、もうちょっとふんぞり返れば?」


 いや言ってるからシンシア嬢。


 確かに必要以上に卑下するのが鼻に付くってなあ理解できるんだが、ふんぞり返るってのもどうかと思うぜ、俺は。


 とくに娼館の支配人マネージャーとしちゃあそりゃどうなんだ。


 いいのか?


ってことよ。わかってて言ってるでしょ?」


 すいません。


「男としてって言われてもねえ……俺の今の立ち位置ってな、結局は所有者オーナーありきのもんだからなあ。正直少々無理してみたところで、ふんぞり返る気にゃなれねえな」

 

 命を救ってくれたのも、クソの役にもたちゃしねえと思ってた俺のユニーク魔法の使い方を教えてくれたのも、それが活きる場を与えてくれたのも全部所有者オーナーだ。

 

 どんな形をとったとしても「力」ってのは強い方が勝つって俺は思ってる。

 剣や魔法といったであれ、美貌やカリスマ、手練手管ってなであれ。


 そのすべてを薙ぎ払える圧倒的な「力」を知ってる者にとっちゃ、少々の実績でふんぞり返るなんて真似はちょっとできそうにない。


「……私から言わせてもらえれば、所有者オーナーと何かを比べようって思える時点で支配人マネージャーも尋常じゃないとは思うけど? まあお互い所有者オーナーよく知っている立場としては、そういわれちゃしょうがないわね。あの人と関わっておきながら「ふんぞり返れ」っていうのは確かに無理があるか……」


 古参の嬢たちは所有者オーナーのことをよく知ってる。


 俺が取り仕切ってからは新人の採用は俺の職分ってことで任されちゃあいるが、古参の嬢たちはすべて所有者オーナーと直接契約をしている。


 嬢たちがどうしても譲れないものを、己の躰と時間と技術と覚悟――所有者オーナーにいわせりゃ――と引き換えに、所有者オーナーの力で叶えてもらってるのがほとんどだ。


 シンシア嬢の借金だって、所有者オーナーが「御代」として提示したもんだ。


 シンシア嬢が九年前に抱えたは、九年も悠長に待ってもらえる事でもなけりゃ、はっきりいや別嬪とはいえ女一人が人生を費やしたからってどうにかなるもんでもねえ。


 ――本来は。


 それが所有者オーナーが「ありだね」といえば通るのだ。

 実際に九年前、通っている。


 それをシンシア嬢はようく知ってる。


「そゆこと。ご理解いただけて助かるよ」


 肩を竦める俺に、自分も救ってもらった立場であるシンシア嬢がため息を一つつく。

 

「まあいいわ。もうめったに会わなくなると思って余計な事言っちゃったけど、忘れてね? 私はきっとダレン様と幸せになるから、あの三人みたいなちょっとどっか突き抜けちゃってるような娘たちにも、幸せになってもらいたいと思っちゃってさ。支配人マネージャーならなんとかできるんじゃないかって、勝手に期待してるだけだから」


「姉さん、そりゃ忘れてねって言いぐさじゃねえよ」


 姉さんももう、胡蝶の夢うちの娼婦としての立場でモノ言ってねえんだったら、俺も支配人マネージャーの立場に拘ることもねえだろう。


 どうせこの後「胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム」をあげての送別会があるだけだし、もう姉さんはシンシア嬢じゃねえともいえる。

 ダレンの旦那だけが知ってる本当の名前に戻ってるってんなら、俺にとっちゃ姉さんでいい。


 会話は負け戦だしな。


「――あらそう? ならよかった」


 にっこり笑ってそういわれた。

 ほんとに勝負になってねえぞこりゃ。

 

 俺だって一応、ルナマリア、ローラ嬢、リスティア嬢から向けられるは冗談ごとじゃねえな、ってんのはなんとなくわかってんだ。


 だとしたって娼館の支配人マネージャーとそこのトップ張ってる娼婦じゃ話にならねえ。


 だからってわけじゃあねえが、その関係が崩れるときにはそういうのもありだとは思っちゃいる。


 あの三人は酒の席でのことだと思ってるかも知れねえが、こっぱずかしい求婚プロポーズ紛いのことも口にしちまってるしな。


 三人がどう思ってるかは知らねえが、少なくとも俺は大まじめだ。

 絶対に来ねえとも思っちゃあいるが、そういう未来があり得るってんならどんと来いってなもんだ。


 逃げ回ってるだけじゃあねえんだよ姉さん。

 わざわざ言わねえけどな。


「あれ? 本当に私余計な事言ったかな? なんか約束してるの、あの三人と」


 ――勘が鋭いなんてもんじゃねえぞ。


 この数瞬で俺の表情や態度がどう変わったらそんな答えを導き出せるってんだ。

 しかもほぼあたってやがるのが厄介だ。


「まあいいわ。その話はこの後の送別会で三人から聞くから」


 本来優しげな姉さんの口元が、悪魔の笑みのように三日月形に開かれる。


 ああこりゃだめだ、あの三人から間違いなく事実を聞き出される。

 その上俺がを覚えてることまであれこれ言われる。


 まあいいや、嘘ついてるわけでも後悔してるわけでもねえからな。

 最後に如何様にでも酒の肴にしてくんな。


「……ねえ支配人マネージャー。娼婦ってと思う?」


 ころころと笑っていたと思ったら、その表情のまま、娼婦がを俺に投げかけてきた。

 

 こんな問答は日常茶飯事だ。


 特にはじめて時間がたってねえ嬢はよくそういうことを支配人おれに聞いてくる。


 ――汚れてるわけねえよ、人を慰める立派な仕事だ、俺の魔法にかかりゃ汚れなんて残さねえよ。


 ――綺麗事おためごかし論理ロジック冗談ジョーク


 否定の仕方も、躱し方も百万通りくらいあるんじゃねえかな。

 その時々の嬢の精神状態を判断して、一番いい答えを選ぶ。


 俺の本音も真実も必要ねえ。

 支配人マネージャーとして必要な答えを返すのが俺のだ。

 

 だけどこれは、もう胡蝶の夢うちのシンシア嬢じゃなくなった、姉さんの質問だ。

 支配人マネージャーとしてではなく、として正直に答えにゃならんか。


「汚れてる……とは思わねえよ。思いたくねえだけかもしれねえけどな。……だけど正直、やらずに済むんならやらないでいい商売だとは思いはするね。はっきり言やとして嫌だ。にゃ、やってほしかねえな」


「……正直ね」


 俺の答えに、姉さんが悲しげな表情を浮かべる。

 とはいえ聞きたかったのは支配人マネージャーとしての「よくできた」答えじゃなかったはずだ。


の質問だからね。胡蝶の夢うちの嬢相手には別の答え返すよ」


「それが支配人マネージャーってことね」


 念を押すように聞き返される。

 

「ああ、そう思ってくれて構わねえ。だけどな姉さん。とか、とか、とか漠然とした喩じゃなくて、そこにやルナマリア、ローラ嬢、リスティア嬢って具体的な存在当てはめりゃあ、俺だって答えは変わってくるんだよ」


「それって……」


 なんだってこんなことを俺に言わせたがるかね。


 ずっと目指してた幸せを目の前にして、言ってもらうだけでは不安にでもなったかね?


 姉さんともあろうお人がらしくねえ。


「あのなあ、勘弁してくれよ姉さん。駆け出しのメンタルケアやってんじゃねえんだ、わかってるだろ。嫌なもんは嫌だ、平気だって男がいるんならお目にかかってみてえもんだ。俺はそうは思わねえけど、汚れてるって感じる男がいたって間違っていると批難する気もねえよ」


 まあいいや、言って減るもんじゃなし姉さんに言う分には構わねえ。

 娼婦ってのはそういう存在で、そんなこと百も承知で俺たちは笑って毎日過ごしてんだ。


 ――だから。


「だけど問題はそこじゃねえ、その上でどうするかって事だろよ。嫌だから離れる奴は好きにすりゃいい。それだって一つの答えだ。だけど――それでも大事な相手ってな確かにいて、それが一番重要なこったろ。……そうじゃねえのかよ?」


「……言ってくれるじゃない」


 俯いた姉さんが、小さな声で答える。

 いやそんなこた姉さんもとっくの昔にたどり着いてる、姉さんなりの答えだろ?


 何が正解だなんて無粋なこと言う気はサラサラねえけど、少なくとも胡蝶の夢うちじゃあ共通認識みたいなもんだと思ってたけどな。


「何を不安に思ってんのかしらねえけど、そういうことはダレンの旦那に言ってもらってくんな。俺の役どころじゃねえだろがよ」


 ほんと言い終わってから顔が熱くなるわ。

 秘するが華って類だろ、こういうのは。


「……ふふふ」


「なんだい、いきなり余裕の表情で思わせぶりな笑いなんか漏らして」


 ――嫌な予感がする。


「いいえ? 支配人マネージャーってやっぱりいい男ねえと思っただけよ?」


 執務室の扉がガタンと鳴った。


 ――あ、これ言わされたのか俺。扉の外にいるであろう、三人に聞かせるために。


支配人マネージャー? もう辞めちゃう古参から余計な忠告を一つだけ。トップ店舗の支配人マネージャーなんだから、歳喰った娼婦が悲しげな表情で何かを聞いてきたら警戒しなさいな? 確実に裏があるわ」


「恨むよ姉さん。俺だって相手がシンシア嬢だと思って口きいてりゃ迂闊なことは口にしやしなかったよ」


 本気でへこんだ。


 ひでえよ姉さん、これこの後どんな顔してルナマリア、ローラ嬢、リスティア嬢に会えばいいんだよ。


 わらっときゃいいのか。


「油断ねえ。ここは胡蝶の夢うちの執務室で、私は今日はまだシンシア嬢よ。まあ支配人マネージャーは損してないと思うから許してね?」


 くすくす笑いながら酷いことを言う。

 損してないってのはほんとかよ。


「くそう……最後まで勝負にならねえなあ。――まあいいや。姉さんとダレンの旦那がいく田舎はガジュヴァール辺境伯の領地だ。辺境伯への紹介状と、西方駐屯軍の司令官への紹介状を用意してる。各ギルドへの紹介状は冒険者ギルド長のガルザム老からもらってるし、辺境伯と司令官への紹介状はライファル老師に書いてもらってるから確実だと思う。後で店員スタッフから受け取ってくんな」


「有り難いけど……たかが中堅の娼婦一人にやってくれすぎじゃない?」


「さっきの話じゃねえけど、胡蝶の夢うちは損してねえから心配いらないよ」


 相手が勝手にやってくれるのを無下に断ることもねえ。


 どっちにしろ所有者オーナー時代からの古参が引退するとなりゃ、所有者オーナーがらみの人間たちはいろいろ動いてくれるのが常なんだ。


 どうせ貸しなんて増える一方なんだから、こういう時に返してもらっておこうや。


「じゃあ遠慮なく。長い間ありがとうね、支配人マネージャー


「こっちこそ、シンシア嬢。長いことありがとうございました」


 ダレンの旦那にゃしばかれるかもしれねえが、最後にシンシア嬢は俺を抱きしめてくれた。

 まあ握手するよりゃ様になるか、娼館の支配人マネージャーと娼婦のお別れに際しちゃ。


 役得だと赦してくれればありがたい。




 執務室の扉が、こんこんとノックの音を立てる。

 最近はどうしたこった、俺の執務室の扉が扉らしい仕事を連続でするなんざ珍しい。

 そろそろ交換時期が来て、死亡フラグでも立ててんのかね?


「……ノックされてるわよ、支配人マネージャー


 笑いをかみ殺すような表情で、姉さんがふってくる。


 ええ、そうっスね。

 らしくねえことこの上ないけど、間違いなく姉さんがさっきの聞かした三人ですよ。


「……どうぞ」


支配人マネージャー、送別会の準備は整っておるー。主役はまだ解放されぬのかえー」


「む、迎えに来たのよ、今ね? たった今!」


「……うれしい」


 扉があいて案の定入ってきたルナマリア、ローラ嬢、リスティア嬢の三人。


 聞いたことねえような棒読みのルナマリアと、らしくなく慌てているローラ嬢が、本音だだ漏れさせたリスティア嬢に何やら食って掛かっている。

 

 姉さん、あんたのせいなんで腹抱えて笑うのは勘弁しちゃくれませんかね?


「ちょっとあんたたち、支配人マネージャーとなにか約束したでしょう? 聞かせなさいよ、もう最後なんだから私は。いいでしょー?」


 じと目で見てたら、姉さんが三人のところへ突撃をかける。

 事態は悪化の一途をたどる模様だが、支配人マネージャーたる俺に逃げ場はないらしい。


 まあいいか。

 今夜はめったにゃねえいい夜だ。


 せっかくの送別会、酒の肴になるくらいはやりますよ。


 そんで田舎の村で末永く幸せに暮らしてくださいな。


 万が一、億が一もしかしたら、何年か後に冴えない男とちっと歳喰ったけど、とんでもねえ別嬪三人がお邪魔させてもらうかもしれねえんで。


 そんな日を腹の底でちょっとだけ夢見ながら、俺ら頼りない後輩は明日からも胡蝶の夢うちで頑張っていきますんで安心してください。


 九年もの長い間、胡蝶の夢うちの仲間として頑張ってくれて本当にありがとうございました。

 言わなくてもふらっと所有者オーナーがそっちに顔出すと思うんで、よろしくお伝えください。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る