四章(四)

 昔は、ただ優しく接すればいいと思っていた。厳しく𠮟ることは、父親である、あの人の役目だったから。あの子は、とてもいい子だったのよ。反抗するのはたまにで、それも無邪気な笑顔を私に向けて「いやだ。」とか「やりたくないよ。」とかその程度だったの。

「はぁ」

 

 

 あの人の声が聞こえる。久しぶりに聞く、穏やかな声だった。

 ああ、僕は死ねなかったんだな。そして、今の世界は現実なんだと。   

 返事をした女子は誰だろうか。数少ない僕の交友関係を振り返った。        


 

 あの人がいなくなってから、私は少しずつおかしくなっていたわ。冷静になった今、そう思う。私がこの子を立派にしなくちゃいけない。私がこの子に厳しく接しなければいけないと思っていた。母子家庭になったから尚更ね。

 離婚してからね、喧嘩していた私の親に一度会ったの。帰って来なさいといわれたから。あの子はずっと寝てたんだけどね。そしたら、ここに住めと。女一人で親など務まらないと言われたの。それに、子もかわいそうだとも。

 私はそれが悔しかった。女一人という言葉が心に突き刺さったの。

 私はこいつらを見返してやりたいと思った。私の親もそう、元夫もその相手も全てね。

 それに、母子家庭だからといって、足元を見て接してくる人たちも全て。女一人でも子 を立派にできると見せたかった。これがもう間違ってたわ。

「そうですか。」


 

 ああ、この声はあの子だ。確か、桂さんだ。中学校一年生のときクラス全員でこの子の父親の通夜に参加した。そういえば、僕はあの日、この子に僕は一言かけた気がする。何と言っただろうか、衝動的に何かを伝えた気がする。



 それから、私は、あの子にとにかく勉強させた。進学校に行って、有名大学に行かせて有名企業に入れば、あいつらを見返せると私は思った。

 そのための、お金はあったの。いわゆる慰謝料ってやつね。あの人は、良いとこで働いていたし、実家も太かったからね。取れるだけとってやったわ。それに、私も働いていたしね。

 あの子は、何も言わず勉強してくれた。でも高校受験のときは急にS高校を受けると言い出したの。遠いところに行きたいって、同じ中学の子が少ないとこに行きたいって。初めて、面と向かって反抗されて、私はすごく驚いたわ。



 いや、お前は驚いたんじゃない。「何をいっているんだ。」という威圧的な目を僕に向けた。



 でも、そうね、私の復讐の道具になっていたんだもんね、そりゃあ嫌よね。高校は私から離れられるところに行って、自分のことを知らない人が多い環境でやり直したかったんだろうね。

 私はすべての時間を勉強に費やしてくれていることに喜びを感じていたの。愚かよね。すごく愚か。そして、私はあの子をきつく縛っていた。



 その通りだ。僕は友達も作りたかったし、部活も入りたかった。流行りのゲームをしたり、漫画も読みたかった。それをお前がさせなかったのだ。

 お前が、祈るような格好で泣いたあの日僕は確信した。

 個人的な復讐のために、僕を使おうとしているということに。

 ずっと自分の中でそう決めつけることを避けていたのに、お前は僕に確信させた。



 私、あの子が好きなものとか、したかったこととか、なんにも知らなかったのね。あの子のこと何にも知らなかったの。



 知らないじゃない、知ろうとしなかったのだ。自分の復讐に夢中になっていたから。



 あの子がそんなに優しい子だということも私は…。

「あなたが厳しい環境を彼に科している中であっても、彼は私に「お母さんを大切にね」と言ってくれたんです。きっと何か…、何かを感じてくれたんです。彼はとても優しい子です。」

 彼女が強い口調でそう言い切った。



 そのとき、僕の頭に記憶が急流のように流れ込む。

 僕はあの時、確かに彼女にそう声をかけた。

 そうだ、あのとき、桂さんの母親がしていた悲しくも、強そうで、きれいな顔は、僕には既視感があったのだ。

 あいつが出ていった、あのときのあの人の顔だ。

 

 僕はあの人の手を握ってやれば良かった。

 あいつの背中を後ろから蹴り飛ばせば、良かったかもしれない。

「お母さんがいるから。」といい頭を撫でてくれたあのとき、あの人の手を僕の小さな両手で強く握っていればよかったかもしれない。

 あの人の実家にいったとき、道中でジュースやお菓子を食べ過ぎて、寝たりせずに、しっかりと起きて、厳しいことを言われているあの人の隣で僕も座って、その悔しさを一緒に分かち合えばよかったかもしれない。


 桂さんには僕のようになってほしくなかった。

 だから、彼女にそう声をかけたのだ。夫を亡くした母親の隣に立つことになった彼女に。母親の隣で、しっかりと寄り添い、たまに手を握り、様々な感情を分かち合ってほしいと思い声をかけたのだ。



 そうね、あの子は本当に優しい子だわ。

 あの人の声は掠れていた。

 私はそれに気付けなかった。

 あの人の声は震えていた。

 気付いてあげられなかった。

 そこから、あの人のすすり泣く音しか聞こえてこなかった。


 僕は、起きなければいけないと思った。起きてあの人の近くへいかなければいけないと。

 許しはしない。僕の貴重な時間を自分の復讐のために使ったのだ。絶対に許しはしない。

 しかし、僕はあの人に何もしていなかった。

 その結果、あの人を独りにし、僕が変わらせてしまったのだ。

その事実に気付いていなかった。知ろうとしていなかった。



 僕は、カーテンをつかんで動かそうと思い指先に力を込めた。

 だが、動かなかった。

 次は足に力を入れた。

 だが、動かなかった。

 体は鉛のように重く、さび付いたように動かなかった。当たり前のようにできていた手足を動かすという簡単なことができなかった。動かそうと、力を入れるだけで全身に大きな疲労感を感じた。

 そして、その疲労感はやがて眠気へと変わり、僕はまた永遠とも感じられる深い眠りに落ちた。

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