五章
「起きたい」という思いがやがて「生きたい」「死にたくない」という思いに変わっていた。
生きなければいけない。
生きて、ともに進もうとあの人に言わなければいけない 。
生きて、あの人のことを知らないといけない。
生きて、僕のやりたいことをあの人に伝えなければいけない。
生きて、そのやりたいことを僕はしなければいけない。
死ぬわけにはいかない。死んだらこれらができない。
それに、数分後に死ぬとしてもあの人にいうことがある。
今は絶対に死ねない。
一瞬でも起き上がり、あの人の目をみて伝えなければいけない。
手に覚えのある温もりが感じられた。手の甲には、不規則的に冷たいものが落ちる感覚がある。
感覚がある。僕はまだ生きている。温もりも冷たさも感じることができている。
僕は、重い瞼を開ける。光が一気に僕の目の中に入ってくる。僕の右手にはあの人の手が重ねられていた。
上体は起こせなかった。
右手を動かそうとした。脳から電気的な信号を出し、運動神経を刺激させる。そして、その信号を脊髄へ伝達させ、右手の筋肉を動かす。普段は全く意識しないこの流れが今はよくわかる。
わずかに動かせた気がした。その振動があの人にも伝わったのだろう。
こちらを見た。
目が合った。あの日のような、卒園式の日のような優しい顔をしていた。
「お、お…さ…」
声が出なかった。それに、口も動かせなかった。
あの人は、どこからか水を取り出した。キャップに水を注ぎ僕の口へ入れた。
そして、あの人は両手で僕の右手を握りなおした。何かをぶつぶつと呟いている。
「おか…さん、ゴホッゲホ」
まだ、声が出なかった。肺が痛み、大きな咳がでた。
あの人はまた、僕の口に水を入れた。
「おかあさん」
いつぶりだろうか、意識しないで口にするのは。母は泣いていた。僕の手を額に当てて泣いていていた。
返事は無かった。
ただ、ずっと、ごめんね、ごめんね、ごめんねと繰り返し小さな声でぶつぶつと呟いていた。
「僕は、お母さんを許さない。」
復讐をしようとした母、死んで何かを分からせてやろうとした僕。
お互いを思いやることをしなかった母と僕 お互いのことを充分に知らない母と僕。
ともに弱く、お互いに無知である二人で生きよう、分かり合えなくても生きて行こう。
「だけど、一緒に生きよう。」
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