二章(二)
看護師から霊柩車が病院に到着した。今、そこの扉の向こうに車を回してもらっていると伝えられた。そこと指を指した方を見ると確かに、防火扉のようなものがあった。
その扉が開き、五十代ほどの男と三十代ほどの男が深くお辞儀をした。 「この度は大変なことで、ご冥福をお祈りします」
私は、これからこの言葉をたくさん聞くことになるのだろうと思った。私と母はなんと返してよいか分からずとりあえず頭を下げた。二人は「では、失礼します」と私たちにいい、ベッドの方へ向かった。
「ご遺体を運ばせて頂きます。」
一言いい、私たちと医師、看護師二人にシーツの端にある持ち手を持つようにお願いした。私は足元の持ち手を持った。父はとても重かった。ずっしりとした重さが腕に伝わってきた。上半身の方を持っている母もその重さに驚いていたが、私たち以外の人達は知っていたかのように両手で持ち手をしっかりと持ち、体全体を使って、運んでいた。霊柩車に父を載せ、後部座席に私たちは乗り込み、自宅へと向かった。いつも、霊柩車を見ると珍しがっていたが、まさか乗る側になるとは思いもしなかった。
家に着くと、今度は四人で和室へ父を運んだ。やはり重かった。
その和室は、昔家族全員で寝ていた部屋だった。布団を出し、父をその上に置き、掛け布団をかけると、昔を思い出した。本当にただ寝ているだけに見えた。明日の朝、私が「起きて」と声をかければ起きるのではないかと思った。
その後は、母に疲れているでしょうと声をかけられ、寝るよう促された。寝られるわけが無いだろうと思ったが、今母にそんなことを言うわけにはいかない。シャワーだけ浴び自室へと向かった。もちろん寝られなかった。下からは、葬儀社の二人と母の話し声が少しだけ聞こえてきた。
私は、ただ暗闇を見つめていた。本当にただの暗闇を。世間的にはいつも通りの夜なのだろう。しかし、私にとっては恐怖を感じさせた。黒の絵具で何重にも塗り重ねたように真っ黒で、月明かりはおろか、私も飲み込まれてしまうかのような暗闇だった。それに、普段なら安心を覚える蛙の泣き声も不協和音のように聞こえ、両耳を布団と枕で抑え、目をぐっと思いっ切りつむり時間が経つのを待った。
朝が来た。昨日のことは夢だったのだと、ほんの少しだけ、本当に少しだけ期待をしながら下に降り、母がいるであろう和室の扉を開き「おはよう」と声をかけた。しかし、返ってきたのは、母のか細い「おはよう」だけだった。
「恵、寝られた?」
「寝られなかったよ」
「お母さんも」
母はそう言い、父の遺体の方に視線を落とした。母は父の手を握っていた。 「今晩、お通夜で、明日告別式よ。」
母は、こちらには顔を向けず伝えた。父に言っているのか、返ってこないことで改めて父の死を理解しようとしているのか分からなかったが、私は「分かった」とだけ答えた。
「恵、制服に着替えた方がいいわ。もうすぐお坊さんがいらっしゃるから」 「分かった。あ、学校には」
「昨日、伝えてあるわ」
「あと、おばあちゃんが昼頃に来るわ」
祖母は隣県のY県に住んでいる。
Ⅿ県に住んでいた父方の祖父母と母方の祖父は、私が物心つく前に亡くなっている。 「分かった。」 私は、眠っているような父の顔を一目みてから、自室へと戻った。
制服に着替え、母のもとへ向かうとチャイムが鳴った。「お坊さんだわ」母は、そういい玄関へと向かった。私も母の後について行った。
「この度は大変なことで、ご冥福をお祈りします。」
袈裟を来た、若めの住職が深々と頭を下げた。
住職は、お経などを読み、いくつかの儀式を終えた後、私たちの方へ体を向けた。
「おいくつだったんでしょうか」
静かに落ち着いた声で母に尋ねた。
「今年で三十八になります。」
「そうですか…。お子さんは」
「今年で十三になります。」
このとき、私は来月が誕生日だということを思い出した。去年は、スニーカーを父が選んで買ってくれた。正直、流行遅れで、子どもっぽいデザインだったため、自分から進んで履くことはなかったが、休日家族で出かけるときは、母に「父さん、喜ぶから」といわれ渋々履いていた。
しかし、今では、私のことを思い、恥ずかしがりながら店員に聞き、「プレゼント用に包んでください」という姿が容易に想像できる。そして、「今年は何が欲しい」と先週聞かれたことを思い出し、また泣いてしまった。母もはっとし、私の方を見て「ごめんね」とつぶやき、涙をこぼした。
「失礼なことを聞いてしまったでしょうか。大変申し訳ありません。ただ、私もこのよう な若い方は初めてでして。」
「いえ」
母は、掠れた声で詫びた。
そこから、住職は「仏教の世界では」と五分ほど話し出したが、私と母はともに全く聞いていなかったと思う。ありがたそうなことを言っていたと思うが、聞くことができなかった。
最後に父に「南無阿弥陀仏」とつぶやき、私たちには玄関で「本当に、この度は大変なことで、ご冥福をお祈りします」といい、住職は我が家を後にした。
昼過ぎになると、祖母が来た。
「とても大変だったね。ご冥福をお祈りします。」
祖母は、もう目に涙を浮かべていた。
母は祖母に抱き着き、幼子のように声を上げて泣いた。私はその様子を少し離れて見ていたが、祖母に優しい目を向けられ、祖母のもとに駆け寄った。
祖母、母、私の三人は鼻をすすり、目もこすりながら和室へ向かった。祖母は、住職が貸すと言って置いていったおりんを鳴らし、香炉に火を点けた線香を入れた。そして、数珠を手にかけ、合掌し「南無阿弥陀仏」と落ち着いた声で呟いた。私たちはその様子を後ろから眺めていた。
祖母は何度も身内の葬儀には立ち会っているらしい。母に、通夜や告別式の段取りを教えていた。その後に、私に葬儀の作法を教えてくれた。
祖母を含めた私たちは、リビングでただ座っていた。何も話さず、顔も見合さずただ黙っていた。
沈黙のなか、声を発したのは祖母だった。
「食欲はある?」
私と母は、顔を見合わせた。そういえば、昨日の昼以降何も食べていなかった。その旨を祖母に伝えると「お粥を作るわ」といってキッチンへと向かった。
しばらく時間が経つと、出汁の匂いがリビングへ香ってきた。「ぐぅー」という胃が縮む音が二つなり、私と母は顔を見合わせて笑った。悲しそうとも、嬉しそうともとれない微妙な笑顔をお互いにしていたと思う。
「できたよ」
祖母は、湯気が立っている普通のお茶碗二つと小さいお茶碗一つをお盆に乗せてリビングへ持ってきた。
「恵ちゃん、これお父さんのとこへ持っていってくれない?」
祖母が私に小さいお茶碗をお盆に乗せて手渡した。
私は、お父さんの枕元へお盆に乗せたまま置いた。「ご飯できたよ」と言って揺さぶれば、「お、そうか。今日はなんだ」とか言って起きてきそうだと思った。
「仏さんはね、湯気でご飯を食べるのよ」
祖母は、ドアを開けて私にいった。
「湯気で?」
「そう、湯気には香りがあるでしょう。それを召し上がるの。線香の場合はね、立ち上る煙によって、仏さんと心をつなげるの。ちょっと違うかもしれないけど、ご飯をあげるときも「どうぞ」って心をこめてあげれば心はつながると私は思ってるの。」
「そうなんだ」
「そうよ」
先ほど、祖母があげた線香の薄くなった煙と私があげたお粥の湯気がそれぞれ上がり天井で一つになっていく様子を私と祖母、その後ろから涙ぐむ母とで見つめていた。
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