一章(四)

「ごめん、すごく濃いコーヒー作ってくれない?」

俺は清水にお願いした。

「ちゃんと話聞いてたの?」

怪訝な表情で聞かれた。

聞いてはいたが、さすがに疲れがピークだった。


あれから、俺は第一発見者として救急車に急いで連絡をした。待っている間、心臓マッサージを行い続けた。学校なので、もちろんAEDはあるが、体育館までを往復すると走っても五分はかかる。加えて深夜だ。十分以上かかってもおかしくはない。そのため、俺は救急車が来るまでひたすらマッサージをした。

誰とか、何でこんなことをとかは、全く考えずにまだ温かみが残っていた目の前にいる人間の胸を必死に押した。

救急車は、八分ほどで来た。近くに消防署があること、深夜で道が空いていたことがよかった。煌々と前を照らす、救急車のハイビームが俺たちを照らした。そのときも一心不乱でマッサージをし続けていた。すると、後ろから隊員が走って来て俺の肩を叩き、「ありがとうございます」と言い、あとの二人の隊員が一瞬で彼を救急車に乗せた。

一瞬のことに呆然としていた俺に「あなたも一緒に乗ってください」とよく通る声で言われた。その声で我に返り正面を直視することができた。

そのとき分かった。今まで俺がマッサージしていたのは、俺のクラスの生徒だった。 「この子、誰か分かりますか」

「え」

思わず聞き返してしまった。

「名前です。この子の」

彼は、叫んでいた。

「村雨繁君です。私の生徒ですから分かります。」

細い声で答えた。

氏名を確認すると、隊員はS市民病院に向かえと運転手に告げた。

「何年生ですか」

「高校一年生です。」

「何時ごろ発見しましたか」

「十二時頃です。」

「大体の状況を教えてくれますか」

「私は、十二時前に学校に戻って―」

学校に着いてからの流れを大まかに説明した。

「分かりました。もうそろそろ病院に着くと思います。」

その後、病院に着くと、母親らしき女性が病院の門の前で待っていた。担架に乗せられ病院に入ってくる我が子をみて、固まったまま動けなくなっていたが、病院の中から来た看護師に手を半ば強引に引っ張られ、奥へ連れていかれていた。

その様子を見ていたが、自分の感情ももうよく分からなくなっていた。校舎のドアを蹴り飛ばした後からの記憶が曖昧になっている。自分がなぜここにいるのかと聞かれたとき、正確に答えられる自信が無かった。まず、自分自身が今現実にいて地に足を付けて立っているという事実も信じられなかった。

着く直前に病院に着いたら、待合室にいてくださいと聞いていた。俺は、ガクガクと震える膝で病院に入り、待合室に座った。そのとき、紺色の制服を着た警官二人組が病院に入り、俺が座っているソファーに向かってやって来た。

「小野寺さんですか?」

「はい、そうです。」

「病院から連絡があって来ました。」

「S市警察署の菊田と野田です。」

そういって彼らは手帳を開いて見せた。

「気分を害されるかもしれませんが、一応他殺では無いかどうかを調べなければならないのでお話聞かせてください。」

「分かりました。」

俺はことの成り行きを自分で整理しながら、今度は詳細に話した。

警官の二人に全てを話し終え、現実をはっきりと理解した。そして、これからの流れについての話を聞いた。そのあと彼らはちょっと電話してきますと二人で外に出ていった。

外には朝日が出てこようとしており、明るくなり始めていた。若い命が今、生死をさまよっているというのに太陽は明るく、土地や人間を今日も照らそうとしていることが無性に残酷に思え、俺は号泣した。何の涙かは分からなかった。昨日教室にいた生徒に死を感じた怖さ、悲しさ、悔しさ、全てが過剰な割合で混じり合い感情が壊れていたのかもしれない。涙は全く止まらなかった。

その後、俺は警察署に行った。途中でまだ他殺の可能性が残ってるんでと謝られたが、車に付けてあったドライブレコーダーや屋上にあった監視カメラのおかげで、その可能性は無くなった。

そして、俺は、夕方頃に学校へ行き、職員会議に出席した。清水と一緒に再発防止のために原因究明してくれと教頭に言われ、彼と同じ中学校出身である一組の桂恵に話を聞き、今に至る。


「話は聞いてたさ。ただ昨日から寝てないんだ。」

学校側は、この件に関して慌ただしく動いている。今日は生徒のケアに重きをおくため集会が開かれたらしい。そして、明日は保護者説明会と校長と教頭の記者会見が開かれる。

生徒はどうだろうか。想像より普段に近かったように見えた。

「なぁ、生徒達今日どんな様子だった?」

「どうだったかな…」

彼女は、スプーンいっぱいになったコーヒーの粉をコップに入れる。それは三杯目ではないだろうか。


彼女と俺は、年は彼女の方が二つ上だが、お互い新任でこの学校に配属された同期だ。彼女は、院卒で配属されていた。学士の四年間で養護教諭の資格を、修士の二年間で心理系の特別な資格を取ったらしい。最初は、同学年だと思い、タメ口で話していたが、途中で院卒だと分かり敬語を使おうとしたが、彼女から同期だから気にしないといわれ、それからはお互いタメ口で接している。


「三限まではどの学年もいつもと違う空気が流れていたかな。でも昼過ぎたら結構普段通りだったかも。しょうがないよね、まだ四月だし一年生はまだ人間関係できてないし、二、三年生にとっては知らない子だからね。

でもね、自殺っていう単語を聞いて無意識のうちにストレスを抱えちゃう子は必ずいるよ。しかも、高校っていうこれからも使う場所でそれが起こったんだから尚更。それに、今は、知りたくなくても情報が入ってきちゃうから。小野寺のクラスは注意が必要だよ。数週間ではあっても一緒に過ごしたんだから。三組は明後日から登校でしょう。」

窓の外を見ながらそう言い、彼女はコップにお湯を入れコーヒーを俺の前に置いた。

「そうだよな」

俺は、いつもより格段に濃いコーヒーを目覚まし代わりに一気に飲んだ。

「それは、まぁ何とかするしかないよな。」

彼女は俺と目を合わせた。

「ちゃんと、泣いた?」

「え?」

彼女は唐突にそう聞いた。俺は視線をそらす。

「気を付けた方がいいよ。」

彼女は、飲み終えた自分のコップを下げシンクへと向かった。そして、コップを洗いながら、そうつぶやいた。

「気を付けるって」

「今は、感情の沸騰に脳が危険を感じてふたをしているのよ。だから…」

彼女は振り返った。

「だから、少しずつでもいいから温度を落とす作業をしていかないと、いつかダメになるよ。」

彼女はいつものように、微笑んでいなかった。真剣に俺の目を正面からみていた。 「どうやって」

「何でも言えばいいのよ。強がってないで、素直に泣いたって、言えばいいじゃない。号泣したんでしょう。目をそんなに腫らすまで。」

俺は、自分の目に触れる。そして、行き場に迷った手を少し下げ、首に手を置いた。

「確かに、涙は出たよ。急にこみあげてきた。でも、俺には、それが、何の感情による涙なのか分からない。人に死を感じたことは今まで無かったし、ましてやそれを自分の生徒にだなんて。それに、俺が教師として彼に何かできなかったか、どうして、気づけなかったのか。それに…」

彼女はゆっくりと、俺の目を見ながら首を振った。

「それは、誰にも分からないよ。私だって誰かに死を感じたことはないから。私がその場に立ち会ったら、あなたのように行動できたかは分からない。助けようと手を触れても、段々と温かみを失っていく身体に愕然とし、ただ、立ち尽くすだけになっていたかもしれない、情けなく泣いていただけかもしれない。

でも、あなたは、真っ先にできることを考えて動いたの。それは、教師としても人間としても誇るべきことだよ。生きてほしいと願ったからできたの。だから、動けたの。」

俺の肩に手を置いた。彼女はどこか申し訳なさそうな顔をしていた。

「その願いはきっと最初は確固たるものだったの。そして、それは彼を助けようと動き出したと同時に、より確固たるものになっていった。でも、いざ現実をみたときにその願いには少しずつ綻びが生じた。しょうがないよ、私たちはもう現実しか見ることができないから。高校生ではないからね。そして、いいえ。だから、現実を理解してしまったとき綻びは完全に解け、涙が出たんじゃないかな。」

「そう、なのかな」

「私はそう思う。」

俺は、泣いていた。とても情けなく肩を震わせながら泣いた。

彼女は、その間、何も言わず、すでに生徒がいなくなり、暗くなったグラウンドをただ見ていた。


俺が泣いたせいで変な沈黙が生まれてしまった。

「桂さんの話から何か分かることあった?」

いつのまにか、俺の正面に座っていた彼女に、目を合わせずに聞いた。

「いじめ含めクラス内の人間関係が原因っていうのは考えられないかな。」

「俺もそう思う。そうなると家族間の問題になるのかな」

「彼の家庭環境とかは分かるの?」

「確か、母子家庭で二人暮らしだった気がする。」

「そう…」

彼女は思いつめたようにコップの中をみて呟いた。

「近いうちに教育委員会の人に頼んで、彼のお母さんと会う機会を設けようと思う。小野寺君はどうする?」

「行くよ」

俺は即答した。

「さすがね」

彼女は優しく微笑み、コーヒーを机に置いた。

コトンという小さな音が部屋の空気を揺らした。

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