一章(一)
「ターン」というエンターキーを押す音が誰もいない職員室に鳴り響く。気付くと、時刻は午後十一時になっていた。俺は、深いため息を吐いた。高校教師になって早三年になる。小学校、中学校と比べて、生徒も大人で接しやすいのではないかと思い選んだが、現実はそうでは無かった。
高校生は中学生よりも慎重に関わらなければならない。彼らは子供ではないということを意識するあまりか内に悩みを溜め込みすぎてしまっていることも多い。それに、良くも悪くも自分の実力が大体分かってくる年頃であるため、理想と現実の狭間でもがいている生徒も少なくない。だから、日々のコミュニケーションも誤解が生まれぬよう用心しなければならない。少しでも、悪い印象を残してしまえば俺の信用は地に落ちる。
例えば、「頑張れよ」という言葉でも、どこか他人事のようになり、もうすでに自分の中では、頑張りを極めていると感じている生徒もいる。そのため「君はもっとできる、期待している」などと、褒める言葉をうまく使いながら彼らの感情を高ぶらせてあげる必要がある。
俺自身もそうだった。しかし、今考えれば、何甘いことを言っているとも思う。自分で勝手に限界を設定して、それに達したから「俺は頑張っている」「俺はやっている」と思い、俺のことを思って言っている言葉を聞いていなかった。確かに、褒められればやる気は出たが、俺にとってはどうだっただろうか。一定期間調子に乗って、頑張るが、褒められることに期待して自分が設定した基準さえも超えることは出来なくなっていたかもしれない。要するに、励ましも褒めることであってもやりすぎては、人によっては毒になってしまう。
本学のような進学校の高校生にとって一番重要な授業面ではもっと大変だ。小テストの作成やその採点、資料準備などの授業準備は小中よりも難易度が高いため、より良いものを求めて毎日研究を積み重ねなければならない。
さらに、学校の運営に関わる事務業務を行う校務分掌では、俺は進路指導部であるため、入学から卒業までの進路行事の準備をしなければならない。そして、放課後は柔道部の顧問も担当している。
今日も授業を三回行い、その合間にゴールデンウィーク明けにある模試の準備をした。
その後は、六時過ぎまで部活にて生徒とともに汗を流した。そして、夕食を適当にカップ麺で済まし、全担当クラス分の小テストの採点を行い、明日の授業準備をしていたらもうこんな時間だ。
資料作りの仕上げは家でもできるので、データをUSBメモリに移し、職員用トイレに行ってから真っ暗な職員室を出て学校を退勤した。時刻は、午後十一時三十分になっていた。
すれ違う車も、自転車も、歩行者もいない暗闇の中、ハイビームを照らしながら走る。教師になってからは、週末は、どこかへ飲みに行くことや、旅行に行く体力も無く寝て過ごすだけになってしまっている。好きだったゲームもソフトを買ったきりで、一度も薄いビニールを破っていない。そのため、ここ三年は二十キロほど離れた家と職場を往復する毎日である。その往復の間も仕事のことを考えている。今度の授業ではあの資料が使える。小テストにもこういう工夫ができる。あの生徒は、今日少し落ち込んで見えた。部活にはあのメニューを取り入れようなど、気が休まるときなど無いに等しいかもしれない。十分ほど走ったところで赤信号につかまった。ハンドルの下にささっている車のキーが視界に入り、何かが引っかかった。ハンドルを指で叩きながら心当たりを探す。十回ほど叩いたとき、思い出した。職員室の施錠をしていなかった。
充分な確認をしなかった自分にイラつき、行き場のない怒りを抱えたまま「チッ」と舌打ちをした。道沿いのコンビニで方向転換して、来た道を引き返す。俺は、少しでも怒りを忘れるため、気分転換にエフエムラジオを流した。しかし、昔よく聞いていた番組のパーソナリティが変わっていたため、俺が期待していたものではなかった。昔は、パーソナリティの二人が芸人だったため、フリートークがメインでそれがとても面白かった。今は、良く知らないタレントが、対して面白くも無いことを言い合い、笑っていた。適当に局を変えながら、知っている曲が流れていた番組に落ち着いた。
学校に付いた時には、午後十一時五十五分頃になっていた。校舎の入り口を開け、職員室にまっすぐ向かった。やはり開いたままだった。しっかり施錠して校舎を出た。車の横に立ち何となく今は使われていない北校舎を見上げた。俺はこの学校を大体七年前に卒業している。そのときはまだ使われていた校舎だ。だが、そのときから、老朽化がひどく、よく古く汚い教室を笑っていたものだ。だがその、古さも今は良い思い出である。あのときは、大きな憧れを抱いていた教師という職だが、実際、なってみてどうだろうか。
「俺は、お前らよりいい教師になってやる」そういう思いで高校時代を過ごしていた。教科書を読むだけの授業しかしない教師、部活には顔を出さない教師、女子にだけ異様に優しい教師、こちらの言い分を聞こうともしない教師など、不満を抱く教師が多かった。俺は、県内国立大学の文学部英文学科に合格した。教育学部でもよかったが、専門学部に入り、レベルの高い知識を身に付けようと考えていた。大学では、都会の学生のような派手な遊びは全くせず、息抜きに、多少の酒とゲームをやり、それ以外の時間は粛々と勉学に勤しんだ。部活指導のために、中学校まで習っていた柔道も大学で、部活に入り、またやり始めた。そして、大学卒業と同時に教員免許を取得し、三年前に母校へ配属された。
周りから「ブラックだ」とは聞いていた。だが、自分なら大丈夫だと思っていた。しかし、甘かった。もちろんやりがいも喜びもあるが、それらを日々の激務の疲れが忘れさせてしまう。俺は、車のダッシュボードからタバコとライターを取り出し、火を点けた。校内は禁煙であるが、誰もいない深夜だ、吸い殻を残さなければ別にいいだろう。まだ、少し寒い四月の星空に大きく息を吐き出したそのときだった。
北校舎の屋上で何か動いた気がした。久しぶりにタバコを吸ったので何か幻覚でも見えたのかと思い、携帯灰皿に吸いかけのタバコを突っ込んだ。そして、内ポケットからメガネを取り出してまた見上げる。やはり何か動いている。月明かりしか頼りがないが、人っぽい形に見えなくもない。しかも屋上には胸の高さほどの壁があったはずだ。なのに、目視できるということはと思ったときには俺の体は走り出していた。
校舎の扉を蹴り飛ばし、息を切らしながら階段を登り、屋上の扉を勢いよく開く。
「君、何をしている!」
だが、遅かった。いや、同時だった。叫び終えたときには、その姿は無かった。
全力で壁まで走り下を見た。
今まで聞いたことがない音が暗闇の中鳴り響き、俺の耳の中では無く、心臓を揺らした。
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