あなたは彼の

田中ヤスイチ

序章


僕は、その時を待っている。

教室の明かりが消え、ナイター設備の明かりが消え、職員室の明かりが消え、生徒らの自転車も教師らの車も無くなり、光も、音も、人の気配もなくなっていく学校の様子を北校舎の屋上でただ見ている。

北校舎は、老朽化が原因で、今年度からの学校生活では使われない。そして、今後耐震化して再利用するのか、取り壊して新築校舎を建てるのかを県と話し合っているが、折り合いが着くにはまだ時間がかかる。

この話を入学式のときに聞いた。しかし、授業などには使わないだけで、北校舎の一階の教室には、使わなくなった備品を置く物置化した教室があるらしく、校舎には入れることになっている。

入学式翌日の放課後、僕は一人で北校舎へ向かった。何も目的は無かったが、何か手招きされているように感じ、気付くと、僕は北校舎の入り口に立っていた。入学式で言われていた通りカギは開いており、僕は、扉を開き中へ入った。使われているといっても、ホコリとカビの匂いがかなりきつかった。しかし、ところどころに年季を感じ、多くの高校生がここで貴重な時間を過ごしていたことを感じ取れた。

僕は、急いで階段を駆け上がる。人が、特に教師が入ってきて鉢合わせになったら彼らが良い顔をしないことは予想ができた。しかし、高校生一日目ということで「校舎で迷った。」と言えば、その日は許してもらえるだろうとも思っていた。

北校舎は、一、二階に教室があった。まだ、上に続いている階段を少しだけ息切れしながら上がった。踊り場には、屋上へと続く扉があった。鍵穴はついておらず、二つの取手に鎖が巻かれており、ダイヤル式の南京錠が付けられていた。

『一一一一』、『三三三三』、『〇〇〇〇』、『五五五五』、『〇四〇二』

思い浮かんだ四桁の数字を試していったが、開くはずが無かった。僕は、何か学校に関係している数字を試していこうと思った。スマホを取り出し、高校の創立年と創立記念日について調べた。

『一九五八』南京錠は開かなかった。

『一〇二八』南京錠はカチッと音を立て外れた。そして、重心がずれた鎖がガシャンと音をたて床に落ちる。僕は、厚く、重たい扉を肩で押しながら開いた。ホコリと木や土の匂いが混じった風が僕の顔に強く吹き付けた。屋上は、ドラマやアニメで見るようなキラキラした場所では無かった。日陰には、一昨日降った雨水が溜まり、コケも生えていて、陰気な雰囲気があった。ただ、陽の当たる場所では、白く乾いたコンクリートが輝いて見えていた。僕はそこに向かって足を進ませた。湿っていないかを確認し、腰を下ろす。学校の施設にいながら風や陽の光を体全体で感じることができた。そして、背中を付けて仰向けに寝転び、陽を体一面に受けた。

だが、僕の中で自然の力によって心変わりする段階はもう過ぎていた。

屋上という学生にとってどこか特別な場所で、何をしても変わらなかった。

僕は、壁際まで向かい、下を見下ろした。充分な高さだと思った。そして、その時は、ここで迎えようと決めた。

その時が来るまで僕は、何もしない。家でも教室でも目立たず生活する。そして、当日の夕方になったら、スマホの電源を切り、こうしてまた、屋上に上がればいい。今日と同じように寝転んで過ごせばいい。変わっていく空の様子を見ながら淡々とその時を待てばいい。

僕はもうこの世を生きたくないと思っていた。その考えが出てきたと同時に、ある選択肢が増えた。それは、僕にとって逃げでもない。甘えでもない。僕にとってそれはあの人から今、離れられる唯一の方法なのだから。

遺書は一応書いた。僕にゴミのような十年間を与えてくれた僕なりの感謝の言葉を一言だけ。僕はそれを、今持っている。持ったまま飛ぼうと思う。飛んでいるときに離れないように小さく折ってチャック付きの内ポケットに入れた。チャックはしっかりと閉めた。

最後の車が出ていった。ブラックな職場環境が丸分かりとなっている学校の明かりが全て消えた。町の街灯と月明かりそして、家庭の明かりが多少見える。あと、十分ほどで日付が変わる。学生が勉強でもしているのだろうか。煌々というよりはひっそりと薄暗く光を灯す一軒家がちらほら見える。希望が彼らにはあるのだろう。そして同時に、希望を託されているのだろう。僕はあの人から何かを託されているのだろうか。

家庭の明かりが消えれば、ここのような田舎は、月明かりと街灯だけの世界になる。

未練はない。僕は靴を脱ぎ、靴下も脱いだ。コンクリートの冷たさが足に直接伝わってくる。今まで僕の足を暖めてくれていたもののありがたさを感じる。

ペタペタと足音をたてながら、壁際まで歩く。

僕の胸程の高さまである壁の上に足をかけて立ってみた。本当に静かで、月が近くに見え、まぶしい程に明るかった。遠くに見える車のヘッドライトが星のように煌めいていて、

今この瞬間僕が一番この街を満喫している気分になれた。

何もかもから解放されるというのはこういう気分なのかと思った。本当にえもいわれぬ解放感と感動があった。それに、僕だけがこの時間を、この場所を独占している気分にもなれた。

何分こうしていただろう。長くも短くも感じた。

大きく深呼吸して目を閉じ、少し笑みを浮かべる。

そして、斜め前に軽くジャンプする。

そのときだった、屋上のドアが開き「君、何をしている!」と大きな声が響いた。

僕は、首を後ろに向けたが、遅かった。

見えたのは、薄汚れた北校舎の外壁だけだった。

落ちている瞬間、心は冷静なものだった。自分の感情を俯瞰してみることができた。脳内も冷静であった。

僕は物理の授業を思い出していた。

体重が今六十二キロ位だから、重力加速度である約十をかけて大体六二〇ニュートンの重力。そういえば、空気抵抗を考慮してない。確かkvだったと思う。kは何の値だったろうか。確かただの比例定数だった気がす― その瞬間、眼下には、黒く、少し湿っていそうなコンクリートが広がっていた。

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