花が咲くまで初見月。

尾八原ジュージ

十五歳の幽霊

 十五歳で死んでしまった友達の緋沙子ひさこが、今年もまたポストの前に見えるようになった。

 ああ冬だなぁと思う。緋沙子の幽霊が見えているのはわたしだけだから、彼女のことを冬の風物詩だと思っているのもきっとわたしだけだろう。でも今は実際冬なのだし、ともかく「ああ冬だねぇ」と口に出して言うくらいは許容されるはずだ。

 一緒に歩いている夫は一瞬「ん?」という顔をする。それから「おーそうだね」と返事をしてくれる。

「暦の上では春なのに寒いね」

「ね、寒いね」

 このあたり、毎年同じ会話をしている自覚がある。

 ポストの角を曲がって少し歩くと、わたしたちの住むマンションだ。八階の窓から見下ろすと、緋沙子の後ろ姿が小さく見える。


 緋沙子の命日が、ちょうどその年の旧正月だったことを覚えている。

 十五歳の冬、高校受験目前だというのに、緋沙子はある手紙のことを気にしていた。年のはじめに転校していった南城なんじょうくんに送った手紙である。

「やっちゃん、あの手紙さぁ、やっぱ全然返事こないんだけど」

「ふーん」

「きもちわるいとか思われたかなぁ」

「なんで?」

 尋ねると、緋沙子は唇を尖らせる。

「だって南城くん、私のことたぶんほぼ知らないし」

 でも思い切って手紙――というかたぶんラブレターの類――を出したというのが、いじらしいところだ。

 携帯電話が一般に普及し始めた頃の話である。緋沙子はまだ携帯を持っていなかった。遠く離れた同級生とコンタクトをとろうと思ったら、自宅から電話をかけるか、手紙を書くかしかない。さいわい南城くんの新住所はクラスメイトたちに知らされていたから、緋沙子は手紙を出すことにしたのだ。

「ねぇ、今日も返事こないんだけど」

「ふーん」

 そんな会話を何度も繰り返した。ある日緋沙子は「やっちゃんのそういうとこ好きだよ」と言って、ふっと笑った。

「どういうとこ?」

「こういうのふーんで片付けるとこ。絶対返事来るってとか、そうだね別に仲良くなかったもんねとか、言わないとこ」

 そっぽを向いたままそう言う、緋沙子の横顔が好きだった。目立つ子じゃないけど学年で一番美人だ、とわたしは思っていた。こんな綺麗な子から手紙をもらって、気持ち悪いなんてことがあるだろうか? 黙ってそんなことを考えたりした。

 緋沙子は、手紙を投函したポストのことも気にしていた。うっかりポストのどこかに自分の手紙がひっかかっていないか――なんてことを考えてしまうのだろうか。ポストの前でわざと「南城のどこが好きだったの?」と尋ねると、緋沙子は「そんなこと聞かないでよぉ」と笑った。笑った顔も好きだった。

 その年の旧正月は、前日の夜から雪が降っていた。朝、スリップして歩道に突っ込んできた自動車が、ポストの前に立っていた緋沙子を轢いた。即死だったという。

 緋沙子はきっとまたポストの前で足を止めて、南城くんに出した手紙のことなんか考えていたのだろう。それにしたってあっけない。なんてあっけない命の終わりだろう、と十五歳のわたしは思った。


 二月も二十日を過ぎた。

 緋沙子の幽霊はまだポストの前にいる。大抵、向かいの神社の桜が咲き始める頃に見えなくなると決まっている。

 紺色のダッフルコートに同系色のプリーツスカート。肩までの黒髪、桜色の頬。中年になると、十五歳の女の子は誰も彼も愛らしく見える。まして緋沙子の姿は、映画のワンシーンのように美しい。

 人伝に聞いた話では、南城くんは今二児の父親だという。彼が緋沙子の手紙をどうしたのか、そもそも手元に届いたのかすら定かではない。わたしたちにとって、十五歳の冬はずいぶん遠い時代になった。もう十五歳の子供がいたっておかしくない年齢なのだ。


「最近よく外見てるね」

 休日の朝、洗濯物を干した後にベランダからポストを見下ろしていると、夫がやってきた。

「何か面白いものでもあるの?」

「うーん……なんとなく気になるから」

 相手が夫でも、幽霊云々の話をするのは気が進まない。

「ふーん」

 夫は深く尋ねず、ベランダの手すりに肘をつき、わたしと並んで外を眺める。ふと何か言ってみたい気分になって、わたしは「あのさ」と話しかける。

「むかし、今頃の時期にね。わたしの友達があそこのポストの辺りで事故に遭って亡くなったの。だから何という話でもないんだけど」

「そうか」

 夫は呟く。わたしが何の感想も求めていないことをわかっているときの返事だ。わたしたちは少しの間、黙って白い息を吐いた。

「そういえば今くらいの時期のことを、初見月というんじゃなかったっけ」

 突然夫がそう言った。「違ったかな? 陰暦正月のことだったと思うんだけど。なんか急に思い出したんだよね」

 不思議なひとだな、と思う。夫はたまにわたしの心の中が見えるんじゃないか、と疑うことがある。その響きは、おそらく初めて出したであろうラブレターの行く末を案じている少女の幽霊に、妙にマッチしていた。

 そうか、初見月か。緋沙子は初見月の幽霊だな。そんなことを考えていると、夫がくしゃみをする。

「さむっ」

「そうね」

 二人でばたばたと室内に戻る。エアコンが稼働し、コーヒーの香りが漂っている。夫が「靖美やすみもコーヒー飲む?」と言いながらレースのカーテンを閉める。


 季節はまだ冬で、桜はまだ咲かない。緋沙子の幽霊は明日も同じ場所に立っているだろう。

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花が咲くまで初見月。 尾八原ジュージ @zi-yon

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