第8話  赤月霧夜 (壱)

 しかし、霧が濃い。ようやくここまで山を下ってきたというのに、辺り一面真っ白じゃねえか。折角の満月も霞んでよく見えやしねえ。


 この地蔵の横の桜の切り株に腰かけてどれほどになる。いい加減、尻が痛くなってきたぜ。弥助やすけのやつ、何をモタモタしてやがるんだ。この分だと日が昇っちまう。


 街道で俺たちが御用金の運搬役たちを襲ったのが酉の刻前。もうとっくに、その亡骸が見つかって大騒ぎとなっているはずだ。日の出と共に俺たちの捜索が始まるだろう。その前に峠を越えて関所を抜けねえと、役人たちに捕まっちまう。


 くそ。苛々する! せっかく分け前が増えたってのに、捕まっちまったら意味がねえ。煙管きせるの煙草も美味くねえし、まったく吸った気がしねえぜ。弥助の野郎、いったい何してやがるんだ! 


 まさか、あいつ、金を探しに行ったのか? いや、奪った金は俺と死んだ佐次郎さじろうとで隠したんだ。ってことは、今その金の在処を知っているのは俺だけ。弥助の奴は場所を知らねえ。それに、奴はそんな男じゃねえ。俺の勘繰りが過ぎるだけだ。弥助のことは信用できる。でも、どうしてこんなに遅れていやがるんだ。何かあったか……。


 そもそも、いつから弥助と離れっちまったんだ。山を下りるのに必死で、後ろの弥助に気を回す余裕は無かった。もしかして、奴も永井ながいの旦那に斬られたのか……。いやいや、そんなはずはねえ。永井の旦那は確かに死んだんだ。佐次郎が小刀で胸を刺し、背後から弥助が斧で頭をかち割った。それでも不安だったから、俺が旦那の刀で首を落としたじゃねえか。


 流石は達人が使っていた名刀だけあって、素人の俺でも一振りしただけで首を落とせた。あれは夢じゃねえ。永井十左衛門ながいじゅうざえもんは確かに死んだ。でも、なぜ佐次郎が……。


 ちきしょう、分からねえ。こんなに煙草をふかしているってのに、何度考えても頭が回らねえ。まあ、今夜は一睡もしてねえんだ、それも仕方ねえか。


 月が霧で霞んで見えねえ。が見えなくなるとは縁起も悪い。この煙草を吸い終えたら、弥助を待たずに行くとするか。あいつとの仲は長いが、この辺が潮時って事かもしれねえ。とにかく、藩境を越えて身を隠し、ほとぼりが冷めた頃にまた戻って金を手にすればいい。その時までに弥助が生きていて、また会えたら、二人で金を山分けすればいいだけだ。今は逃げる事が先決。弥助、悪く思わないでくれよ。


 それにしても、ちきしょう、足がまだ震えてやがるぜ。この「無慈悲の藤七郎とうしちろう」様も、ついに焼きが回ったか。だが、あんなものを見せられちゃ、無理もねえ。誰だってビビッて当然だ。おっといけねえ、俺としたことが、少しだけだが、チビっていやがる。情けねえ。盗賊仲間の中では残忍な男として恐れられている俺が恐怖で小便をチビったと知られたら、いい笑い者だ。まあ、こんな夜中の、山の麓の裏街道だ。真っ暗だし、月明かりもこの濃い霧に阻まれて何も見えやしねえ。大丈夫だ、誰にも見られちゃいねえよ。気にするな。へへ。テメエに言い聞かせるまでもなく、小便の方が勝手に出やがるぜ。胆の張りが緩んだ証拠だな。へへへ。


 まあ、落ち着いて思い出してみれば、あれは弥助がやったことかもしれねえ。


 永井の旦那を殺して、荷物をまとめて立ち去ろうとした時だ。俺の目の前で突然、佐次郎が呻き声を発しやがった。見ると、胸から刀が突き出している。俺は腰を抜かしたね。直前まで抱きたい女の話をしていた佐次郎が突然、刀で背後から刺し殺されたんだ。その場にあった刀は一振だけだから、あれは永井十左衛門の長刀だ。あの位置は心の臓。佐次郎は苦痛に顔をゆがめながら両膝を地についた。その後ろに立っていたのは……。


 駄目だ、思い出せねえ。飯も食っていないせいか、頭がボーとする。


 とにかく、あとはもう、一目散にその場から逃げた。獣道を全速で駆けて、山を下りてきたんだ。


 ただ、よく考えてみると、逃げ出した時、俺の前には弥助が立っていた。腰を抜かして尻もちをついた俺の上に、刀で串刺しにされた佐次郎が覆いかぶさるように倒れてきたので、俺はそれを押し退けて後ろを向き、四つん這いのまま七間か八間ほど進んだ。その俺の姿を弥助は立ったまま茫然と見つめていた。つまり、弥助はもともと俺の後方に立っていたんだ。そうだ、思い出した。俺は立ち尽くす弥助にすがって立ち上がり、悲鳴をあげてその場から走り去ったのだった。俺は大声で「弥助、逃げろ!」と叫んだ。確かにそう叫んだのを覚えている。その後、俺の忠告通りに弥助がその場から逃げたのか、俺は確認してはいない。とにかく、恐怖のあまり逃げるのに必死だった。


 白目を剥き、口から鮮血を垂れ流した佐次郎の顔。


 頭に焼き付いて離れねえ。今まで何人も人を殺し、他人の死に顔なんて何十回も見てきた俺なのに、あの佐次郎の最後の顔だけは忘れられねえ。そして、恐ろしかった。


 やはり、幼い頃から弟分として共に過ごしてきた男の突然の最後だったからだろうか。いや、違う。そうじゃない。俺が何かを見たからだ。俺は何を見た。駄目だ、思い出せない。まさか、死んだ永井十左衛門の亡霊……。


 俺たちが永井十左衛門という浪人を雇ったのは、その侍がとにかく腕が立つという評判を聞きつけたからだ。町の中を探して回り、ようやく蕎麦屋でかけ蕎麦を啜っている十左衛門を見つけた。


 歳は俺たちよりも少し上の四十前後。無精髭に伸ばし放題のまま後頭部で一束ねにしただけの髪。着ている物も汚れていて綻びだらけだった。コイツは金が無い。話に乗ってくるに違いない。俺はそう踏んだ。

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