第9話 赤月霧夜 (弐)
噂では、この永井十左衛門という侍は藩の剣術指南役を務めたほどの腕前で、幾度も開かれた御前試合でも一度も負けたことが無いほどの強者だったらしい。特に「
そんな達人も、
永井十左衛門は意外にもあっさりと話に乗ってきた。武士道だの侍の矜持だのと普段は偉そうにほざいているが、お侍さんも所詮は人の子。背に腹は代えられないという訳だ。まあ、旦那にしてみれば葛藤があったのかもしれねえが、俺たちには丁度よかった。何と言っても、今回は大仕事だ。
俺たちは山奥で街道を行き交う商人を襲う盗賊稼業を長年続けてきたが、近頃は向こうの山を回って整備された表街道を行く者が多くなり、そちらは見回り侍がうろつくことも多いので仕事がし難く、めっきり実入りが減っていた。腹を空かしていたのは俺たちも永井の旦那と同じってことだ。で、藩に上納する御用金を運ぶための近道として人気の少ない裏街道を定期的に通るお侍さん達の一行を襲い、大金をいっきに稼ごうと思い立ったんだ。
弥助も佐次郎もはじめは反対した。俺たちが持っているのは錆びた
だが、俺が永井十左衛門の話をすると、弥助も佐次郎も目の色を変えた。藩の剣術指南役まで務めたほどの達人なら護衛の侍の一人や二人簡単に斬り倒してくれるに違いない、皆そう思ったのさ。
実際、永井の旦那は強かった。現場にいた相手の護衛の侍は六人だったが、一人で全員を斬っちまった。その間に弥助が千両箱を担いでいた二人の人足を斧で叩き斬り、俺と佐次郎が千両箱を持ち去った。その千両箱は山奥の大楠の
俺と佐次郎は、あらかじめ打ち合わせていた山の中腹の滝の傍で弥助と永井の旦那と合流した。弥助は永井の旦那と火を囲み、成功の祝杯を傾け合っていた。それも打ち合わせ通りだった。
俺と佐次郎と弥助は永井の旦那の見事な太刀捌きを褒め称えた。流石は「一刀十左」、最初の一人目は視線を合わすことなく横を通り過ぎたように見えただけだったのに、見事に斬り殺していた。もちろん、その侍は自分の胴体が斜めに分断されていることに気付いていなかったと思う。二人目と三人目が慌てて腰の刀に手をかけた時には、二人の頭部は下顎と上顎から上が斬り離されていた。残りの三人のうち二人が旦那を前後に挟んで刀を構えた。二人同時に斬りかかってきたが、旦那は一太刀を自分の刀で受け止めて、もう片方の斬撃を見事に
千両箱を担いで佐次郎と共にその場から離れていた俺は、肉塊の中に立つ鬼神のような永井十左衛門を見て恐ろしくなり、とにかくその場から走って離れた。千両箱を隠すことが目的ではあったが、一刻も早く永井十左衛門から遠くに逃げたい、それがその時の俺の本音さ。背中に変な汗が大量に流れたあの感覚を今でもハッキリと覚えている。間違いねえ、あれは化け物だ。噂以上だったし、俺たちの想像をはるかに超えた残忍さだった。この「無慈悲の藤七郎」なんて足元にも及びはしねえ。こいつは鬼か何かに魂を売っちまったか、悪霊にでも憑かれているんじゃねえか。冗談じゃねえぜ、こんなヤバい奴と今後も絡んでいくつもりはねえ。予定通り今夜限りで縁切りだ。
俺と佐次郎は千両箱を運びながら何度も視線を合わせて頷き合った。
焚火を囲んでの酒宴は進んでいた。時折、胃の奥から何かが上がってくる衝動に耐えながらも、俺はその時の事を振り返って永井の旦那を褒め称えた。旦那も気分がよかったのか、次から次へと俺たちからの酌を受けていく。その顔はもう真っ赤だ。瞼も少し落ちているように見えた。刀は腰からはずして横に置いている。
俺は祝いの舞を披露すると言って立ち上がった。それが事前に弥助と佐次郎に伝えていた合図だった。
弥助が小便に行くと立ち上がる。俺は構わずに焚火の前で我流の舞を披露し始めた。佐次郎が「貴様の下手な舞など見とうないわ!」と俺に杯を投げつけた。普段から女の話ばかりしている佐次郎が「若い女を連れて来い! 女の舞を見せよ!」と管を巻くのは自然だったが、これも全て打ち合わせ通りだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます