6、フイルムに写らない男

 ここで小悟探偵は話を区切り、紅茶を一口飲んで茶碗をテーブルに戻してから、博士の顔色を読みました。

 博士は「いいから、話を前へ進めたまえ」とでも言いたげな表情です。

「もう一度、その写真を見てください」小悟探偵が言いました。「その黒塗りの人物が……正確には『黒く塗りつぶしたように見える人物』が……真っ黒なのは、後で写真の上から墨やインクを塗りつけたからじゃありません」

「と言うと? それは一体どういう意味かね?」

「最初から、つまり現場でシャッターを切った時から、そのような形でフイルムを感光させているのです」

「な、何、何だと?」

 鴨山博士は、驚きの声を上げ、急いでもう一度写真を見ました。

 そう言われて改めて見れば、なるほど、黒い人型の部分とそれ以外の部分の紙質に違いがありません。あとから墨やインクを塗ったのではなく、印画紙へ焼き付ける時点で既に黒かったとも思えてきます。

 けれども確信は出来ません。むしろそんなことが可能なのかという疑問の方が強く湧いてきます。

 一般に、フイルムの異常感光が起きるのは、カメラあるいはレンズに不具合が有った場合です。例えば、レンズにゴミが混入していたり、カメラ内のゴミがフイルムに付着した時です。

 白く感光しているのならカメラの何処どこかに穴が開いていたとも考えられます。しかし……

「しかし、きみ、この黒く潰れた部分はキレイな人型ひとがたをしているじゃないか。カメラの故障なら、こんな風にクッキリと人の形を切り抜いたように黒くは写らんだろう。そんな偶然は有りえんぞ」

「そうです。カメラもレンズも正常でした。撮影者はカメラ製造会社の技術員です。会社に帰って慎重に調べたそうですが、何の問題も無かった。周囲に写っている建物や街のようすを見て分かる通り、露出も適正です」

 小悟探偵の説明を聞いて、博士は、益々ますますわからないといった顔を作りました。

「では、どういう仕組みだ? どういう仕組みが働いて、こんな真っ黒な人影が映り込んだのだ? まさか今さら『トリック写真でした』などという巫山戯ふざけた言い草は許さんぞ」

「いいえ。トリック写真ではありません。加工写真の再撮影などという小細工ではありません」

「では、こんな真っ黒な人間が現実に存在したとでも言うのかね?」

「それも違います。撮影者の証言によると、その真っ黒な人型は、実際に現場で見たときには確かに人間だったそうです。肩幅の広い背の高い男だったと言います。全身黒づくめの服を着ていたそうですが、その写真みたいにベッタリと絵の具で塗りつぶしたような感じではなかった。それに顔は露出していたそうです。首に白いマフラーを巻き、両目をオートバイ乗りのようなで覆っていたそうですが」

「どうも君の言うことは良く分からんな」

「要点を短縮すれば、こういう事です……軍事用にも見える犯罪ロボットが白昼堂々と渋谷の街に現れた。それを数分で破壊した『何者か』が居た。その『何者か』は、上下黒づくめの服に全身を包み、白いマフラーを巻いて、目にはを付けていた。ところが『何者か』をカメラで撮影してみると、顔もマフラーもも全て、ベッタリと墨を塗ったように真っ黒だった」

「そんな不可解なことが、本当に……」

「本当に、起きたのです。二日前の渋谷で実際に起きた事なのです。それだけじゃありません」

「この上、まだ何かあるのかね?」

ごしではありますが、この『何者か』は複数の目撃者に顔を見られています」

「ならば似顔絵を作れば良かろう。警視庁には優秀な似顔絵師が何人も居るぞ」

「ところが、誰一人として、その顔の特徴を思い出せない」

「……」ついに博士は黙りこんでしまいました。高名な学者の鴨山博士でさえ、にわかには理解できないほど突飛な話でした。

「博士……」小悟探偵が、あらためて鴨山博士の目を見て言いました。「この事件の背後には、非常に高度な科学力の作用があります。緑色の軍事用ロボットは勿論もちろんの事、その写真の黒い影にも、です」

 小悟探偵の瞳が『冗談なんかじゃありません、私は真剣です』と訴えて、ギラリと光りました。

「いや、むしろこの黒い影にこそ、私は恐るべき科学力を感じるのです……目撃者の認知機能を瞞着まんちゃくし、記憶を改竄かいざんし、さらにはカメラのレンズやフイルムにまで作用を及ぼす、恐ろしくも素晴らしい科学の力を感じるのです……私はこれを挑戦と受け取ります。私立探偵にしてエス・エス・アイのメンバー小悟智明に対する挑戦と捉えます」

 鴨山博士は一瞬、探偵の語気の強さに押され、それから「ふうっ」と大きく息を吐きました。

「それで、君は……この私に何をさせようというのだね、小悟くん? 私は脳医学の専門家ではないし、ロボットや光学の専門家でもないぞ」

「まずは、この黒塗りの影に隠された男の素顔を知りたい。ブレた顔写真やピンボケの顔写真から元の人相を割り出し、数々の犯罪事件を解決に導いた、がんそう解剖学の世界的権威である博士に、ぜひ、この写真の分析をお願いしたい」

「ふうん。そうか」

「博士、お願いできますか」

「だが、しかし……無理だな」

「エッ」小悟探偵の顔に驚きと失望の色が現れました。

「たしかに、私には特殊な能力がある。そう自負している」博士が続けて言います。「君の言うとおり、私は、ブレた写真やピンボケの写真から元の人相を復元できる。が、しかし、それにも限界はあるのだよ。ブレた写真やピンボケの写真というのは言い方を変えれば『情報の劣化したサンプル』だ。情報にも熱力学と同じように『不可逆の法則』というものが有ってね。いわゆるエントロピー増大の法則だ。一度散ってしまった情報をいくらき集めても元には戻らん。本来なら、一度ピンボケてしまった写真から元の顔を正確に描き出すことは不可能だ」

 博士は小さく首を横に振りました。

「私は経験から確率的に形を割り出しているだけだ。『経験』というと非科学的に聞こえるかも知らんが、要はあらかじめ蓄積・分類しておいた膨大なデータを元に、一つの傾向を導き出しているのだよ。しかしそれにも限界がある。しょせん確率は確率だからな。ピンボケの度合いが大きければ大きいほど、すなわち情報の劣化が大きければ大きいほど、正解率は下がる。君の持ってきたこの写真の場合、輪郭こそ人の形をしているが、その内側はベッタリと均一に塗りつぶされた黒だ。ここから得られる情報は限りなくゼロに近い」

「……つまり……」

「ひとことで言えば、私にもお手上げだ」

「そうですか……駄目ですか」

「お役に立てず、すまないね」

「いいえ、こちらこそ無理なお願いをして申し訳ありません。貴重なお時間を頂き、ありがとうございます」

「どうせ暇な隠居の身だ。時間は有り余っているよ」

 引退した教授の瀟洒な自宅の客間が、しん、と静かになりました。暖房が良く効いているはずなのに、空気が一〜二度冷たくなったように感じます。

「博士、お時間を取って頂き、ありがとうございます」再度、探偵が言いました。そして冷めた紅茶の残りをグッと飲み干しました。

「この辺でおいとまします」

「おお、そうか」

 探偵と博士が同時に立ち上がりました。あわてて三吉も立ち上がります。

「この写真は、どうしたら良いかね?」

「ご迷惑でなければ差し上げましょう。私の事務所には他に焼き増しが何枚かありますから」

「そうか。では有りがたく頂戴しよう。なかなかに面白い写真だ。駄目で元々だが、いちおう調べてみるよ」

「ありがとうございます。お願いします。いずれグラフ雑誌に掲載されると思いますが、それまでは、ぜひ門外不出・他言無用という事にしてください」

「それは、もちろんだ」

 博士はポケットから鍵を出すと、それを「ガラス玉の部屋」へ通じる扉に差し込み、手動で錠を開けました。

 三人は「ガラス玉の部屋」を抜け、玄関の小部屋に行きます。

「ああ、そうだ」

 三和土たたきに降りて靴を履く小悟探偵に、上りかまちの向こうから鴨山博士が声を掛けました。

「今朝、午前中、私の甥っ子が来てね。午後に君が来ると話したら、ずいぶん興奮していたよ。何でも君の熱烈なフアンということだ」

「エッ、今日、私が来ると甥御おいごさんに仰言おっしゃったのですか?」

まずかったかね?」

「ああ、いや、問題はありません。二日前の『渋谷ロボット事件』について私が関心を持っているというのは、特に秘密という訳でもありません」

「君は有名人なのだな」

「まあ、その筋では多少……しかし、探偵の名が売れたところで得なんてありませんよ」

「それは、そうだろうね」

「では、失礼します。今日は有りがとうございました」

「お役に立てなくて済まんな。預かった写真を改めてジックリ調べてみるよ。可能性は低いが、万が一、新たな発見があったら連絡する」

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