短編 髪を切る話
紺色の馬車に揺られる。土の上を走る馬車は時々強く揺れるが、気にならないくらい緊張していた。
馬車に乗るのは初めてじゃない。
一回目は、侯爵に引き取られた時。
二回目はパブに返却された時。
三回目は、ライラワース伯爵に引き取られる今。
きっとまたパブに戻される。その時のために道を覚えておこうと思って見た外は、どんどんと町を離れ、今は草原の中を走っている。
あの場所は、どんな匂いがするんだろう。町みたいに石炭の燃える匂いはしなさそうだった。強風に藁が飛ばされていくのを眺める。空は雲ひとつなかった。
「──プラチナム」
ライラワース伯爵が声を掛けてきた。俺は外を見るのをやめて、彼の方を向く。
振り返った時の、彼の目の色が、ずっと忘れられずにいる。
綺麗な色。晴天の空よりも木に近く、曇り空と言うには眩しい。俺は、この色をなんて呼ぶのかわからなかった。例えられるものを知らなかった。
──ライラワース伯爵の屋敷に来てから一晩が過ぎた。
「おはよう、フィー。よく眠れたか?」
ライラワース伯爵──ジェンス。
起きたら部屋に来るように言われていたから、従って使用人さんに着いてきた。ジェンスは俺を見ると、薄く笑みを浮かべた。
「……うん。眠れたよ」
嘘だ。昨日の夜は、温かいベッドが嬉しくて泣くのを頑張って我慢していた。気がついたら朝になっていたけれど、目がひどく乾いていて開けるのが大変だった。
「着替えさせてやるからおいで。ついでに着方を教えてあげよう」
このくらい着れるよ。そう思っていたけれど、ベルトやネクタイは慣れないものだった。
「シャツが着られるなら大丈夫だ。明日からは部屋に服を置いておくから、着られるだけ着て来なさい」
「わかった」
綺麗な服だ。自分が今まで着ていたものとは全然違って、土汚れも穴もない。靴は少し重たいけれど、つやつやとしていて、綺麗だ。ジェンスは俺の頭を撫でると、従者だという男に指示をしていた。
ああ、あの人の目の色もジェンスと同じ色をしている。ううん、少し濁っているかも。
「フィー、君の髪を整えようと思うんだがいいか?長いと邪魔だろう」
ジェンスの手が俺の頭に向かって伸びてくる。
怖い。しかし後ろに下がったら
「そうだな……やはり目にかからない程度がいいだろう」
彼は俺を叩くような人には見えなかった。けれど、つい警戒してしまう。大人は怖い。
「ヴィノ、頼んだぞ」
「承知致しました」
従者の男が俺を見た。冷たい目だ。ジェンスとは違って、今にも俺を蹴飛ばしそう。昔、パブで貴族の機嫌を損ねて蹴飛ばされた子がいた。物音と衝撃が忘れられなくて、時々大人が怖くなる。
この人は、怒らせてはいけない人だ。貴族のジェンスよりも怖い。優しさが見えない。
ハサミを持った男の手から、目が離せない。あのハサミで刺されたりしたら、すごく痛そうだ。思わず体が震える。
「……フィー、ヴィノは怖くない」
「ジェンス様、彼に変なことを吹き込んだのでは?」
「まあ、昨夜言ったな」
「貴方って人は……」
ジェンスの体に従者の姿が遮られる。驚いて見上げると、彼はただ、優しい顔をしていた。
「怖いか?」
呼吸が乱れる。浅い呼吸を必死に繰り返す。彼に病気を見せてはいけない。無意識のうちに足はじりじりと後退る。
「君には何もしない。ただ髪を切るだけだ。辛いことや、痛いことは何もしないよ」
両の手を包んで、俺の目を見る。
「怒らない……?」
幽霊のような声しか出なかった。けれど、ジェンスはしっかりと頷いた。
「怒らない。僕が約束しよう」
彼が約束してくれるなら、少しは信じてみてもいいかもしれない。もし裏切られたら、俺の幸せはここで終わるだけ──大丈夫。幸せは短いものだ。俺はよく知ってる。わかってる。自分に言い聞かせると、すぅ、と気持ちが落ち着く。
わかったと頷くと、ジェンスはまた薄い笑みを浮かべた。彼のこの顔を見ると、少し安心できるような気がした。
ブツリ、と髪の切られる音がする。
最後に切った時の記憶はもう朧気だ。すごく短くして、寒くて風邪を引いたっけ。治ったあとも、しばらく首筋がすーすーして気味が悪かった。
前髪を切られるのはどうしても怖くて震えてしまう。ズボンを握っていた手を、ジェンスが撫でてくれた。新品のズボンをしわだらけにしても、彼は怒らなかった。
「はい、終わりましたよ」
目を開けると、しゃがんで俺を見上げるジェンスがいた。
「怖かったか?」
「…………」
答えられなくて固まっていると、髪を切っていた従者が板を持ってきた。
「見せてさしあげたらいかがです」
「ああ、そうだな」
その板は、白色だった。急に色が変わり、従者の男が見える。これは鏡だ。店に掛けてあるのを遠目に見たことがあった。
「自分が見えるか?」
鏡に写っていたのは、銀髪の小さな人。何度も景色の縁に見たその色が、自分であることを示している。
まっすぐ降ろされた前髪と、肩につかないくらいに揃えられた綺麗な髪。温かそうな服を着た姿は、まるで本物の貴族のよう。
(あっ──この色──)
自分の目元に手を添える。
ジェンスの目と、同じ色。晴天の空よりも木に近く、曇り空と言うには眩しい、ひどく美しい彼の色。
「綺麗……」
鏡に映りこんだジェンスは、同じ色の瞳を細め、嬉しそうに微笑んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます