後編

 陽が暮れて、乾いた木々が風で震える。

 音に驚いたリスが庭を転がり駆けて見えなくなる。枝に僅かに残っていた葉が、強い風に巻き上げられた。

 寝室に静かに入室した従者は、ジェンスへ耳打ちをする。──医者の知らせだ。読んでいた本を閉じる。再び開いたドアに、蝋燭の火が揺らされた。


 ジェンスは緩慢な動きで立ち上がる。部屋には自分と、もう一人。ベッドの中で休む少年がいた。

「フィー。起きているか?」

 少年、フィリベールが寝ているベッドのカーテンを捲る。寝息は聞こえないが、幼さの残る瞳は閉じられていた。整った呼吸をしているのを見て安心する。落ち着いて眠れるようにと天蓋のカーテンを閉じ、離れた机で過ごしていたが、やはり姿が見えないと不安になる。


 静かに寝台へ腰掛ける。起こそうと頭を撫でてみるが、目を開ける気配はない。

 彼は発作による激しい咳で体力を失っていた。起こすことに申し訳なさを感じる。しかし、起こさなければ医者の往診は受けられない。

「フィー……」

 子供の起こし方なんて知らない。思わず眉間に寄ったしわを指で伸ばす。

 こうして声をかけるよりも、触れた方が早いだろうか。やせ細った手に触れ、幾度か揺する。そうしている間に、彼はゆっくりと動き出し、瞼を開けた。




 彼が目覚めた頃を見計らって、口を開いた。

「医者のことを覚えているか?」

 彼はこくりと頷いた。

 フィリベールが来たばかりの頃、彼のことを知るために、医者に体の機能を調べることから、身長や体重の計測、病気の検査や年齢の予測までさせた。

 そのおかげで彼が肺に病気を持っていることを知った。また、彼は15歳付近であると推測された。年齢にしては背が低かったが、声変わりの途中であるのは確かだ。

「今日、君の肺を見てもらうためにあの医者を再度呼んだ」

 数日ぶりにフィリベールを診ることになった医者は、先程到着し、住み込みの医者と話し合っている。

「医者は、お金がかかるでしょ?」

 彼は声を落とし、口元を毛布で隠した。

「気にするな。何かあっては心配だと呼んだだけだ」

「心配……?」

 驚いてこちらを見ている。彼の純粋に不思議そうな顔にジェンスは思わずため息をついた。

「──僕が君を心配しないと思ったのか?」

 呆れの隠せない声に、フィリベールはきつく布団を握る。彼は案外敏感なようだ。やってしまったと頭を掻く。

「叱るつもりはない。ただの確認だ」

 自分の顔つきは鋭く、怖いと思われがちだ。社交界では有効活用していたが、できれば彼には誤解されたくない。自分はこの程度で不快になるような者ではない。ジェンスは極力表情を和らげた。

「君は、貴族だから……俺の心配なんか、しないと思った」

「するんだよ」

 自分が拾ったものを大切にし、気を配るのは普通のことだ。それがフィリベールであれば、尚のことだと思う自分が自分らしくなく、内心笑った。

「心配だから、こうやって君を僕の部屋に寝かせるし、様子を見に行くんだ」

 心配する気持ちが強かったが、メイドに任せる気がなくなったのもあった。もし私怨でまた部屋を冷やされてしまったら、今度こそ彼は死んでしまうかもしれない。

 メイドや使用人にとって、フィリベールは死んでも構わない存在だ。その辺の雑草が枯れているのを見もしないように、彼の存在を無と見なす。

 いつもそうだ。皆揃って隣人を愛せよと説くのに実際は皆自分しか愛さない。この社会において神は無力だ。

 メイドのルイーズの顔を思い起こす。彼女からは、フィリベールへの愛情はまったく感じられなかった。

「ジンは優しいね……」

 フィリベールの手が開き、ジェンスの指と絡み合う。細い指と、湿った肌が指の合間を滑った。

「メイドさんとは、全然違う……君が優しくてよかった……」

 フィリベールは心身共に弱く傷付きやすい。それをわかっていて冷たくできるようなたちではなかった。

 嘘と噂、真実が入り混じる貴族界においては、自分の優しさとも取れる情は厄介だ。情にほだされたら良くも悪くも道具にされる。誰に対しても情がわかないように、距離を置いている。しかし、フィリベールから返ってくる信頼はわかりやすく、単純で悪意を感じない。今まで味わったことのない満ちた気持ちをジェンスにもたらした。


――だが、彼の“メイドとは違う”、といった言葉がどうも引っかかり、満ちた流れを塞き止めた。

 彼はメイドと関わったことがあっただろうか?ジェンスが見ているかぎりでは無いはずだ。彼女たちは彼に視線を向けることはあれど、会話や触れ合いはほぼしない。ライラワース家のメイドは、命じたこと、勧められたことしかやらない傾向にある。

 しかしフィリベールはメイドと関わりがあったような言い方をした。かつ、メイドへの信頼を失うほどのことが起きている。関わったのは一度ではないだろう。

 もしや、自分がいないところで、メイドに何かされているのではないか。

 ふとミセス・クレアの発言が浮かぶ。

“私、貴女がフィリベール様のお部屋に入っていくところを見ていましたのよ”

 これはミセス・クレアのブラフで、実際にはなかったはずの出来事だが、ルイーズは動揺した。

 彼女はもしや、本当に部屋に入ったのではないか?自ら行動することのない彼女が、許可も指示もなく部屋に入った。その時、彼に何かしたのではないか?

「──メイドが何かしたか?」

 彼は逃げるように目線を逸らした。

「フィー。教えてくれ」

 答えるのを避けるように目が伏せられる。唇は迷いか困惑か、きつく結ばれている。握った指先は緊張で強ばった。

 彼は黙ったままだ。


 彼が何かされてしまったのならば、できるかぎりの支えになってやりたい。何が起きたのかが分かれば、メイドへの処分をすることができる。

 フィリベールに優しくしないならジェンスの指示を無視していることになる──不忠の証だ。そのようなメイドは今後この屋敷に好ましくない。

「……僕に君を守らせてはくれないか?」

 その言葉を聞いて、今度は明らかに困った顔でジェンスを見た。口が僅かに開かれ、再び結ばれる。目線を逸らすと、小さな声で話し出した。

「上手く、言えないかも……」

「構わない」

 彼はゆっくりと深呼吸をした。

「メイドさんがね……汚いから屋敷にいてほしくない、って俺に言ったの」

 ルイーズの発言だろうか。ジェンスは眉を顰める。

「ゴミでも食べていたんでしょ、とか……どんな病気を持っているか分からない、って。でも、言われただけ。何もされてないよ」

 彼はへらりと笑って見せた。その表情が痛々しく、彼の心の傷が覗いている。

「嫌だっただろう……すまなかった」

「謝らないで。本当の、ことだし」

 繋いだままの手が震えている。

「フィー……」

「ゴミ箱の食べ物を食べたこと、あるし……病気だって持ってる……他にも持ってるかもしれない……」

 孤児の貧しさを再認識する。彼が生きるためにしてきたことだ。文句を言う気は毛頭なかったが、彼の顔は悲しく歪んでいく。

「俺は汚いんだよ……嫌いになった……?」

 そんな言葉を言いながら泣きそうな顔をしないでくれ。無理に笑おうとしなくていい。

 こんなにも辛そうな顔をさせたのは誰だ。メイドか。弱者の存在から目を背けてきた僕ら貴族社会か。


 持つ者は持たざる者に分け与えよ。


 今はこの教えが傲慢に見えて仕方がない。

「フィリベール──」

 でも、この教えに彼は救われた。

 この教えがなければ、一生出会うことのない二人だった。

「おいで」

 もう彼を汚いとは言わせない。こんなにも純粋で、美しくて、弱い彼を蔑むような者は、すべて自分が払う。

 彼の震える手を自分へ引く。ゆっくりと起き上がった彼を胸に抱き寄せる。

「──苦しかっただろう」


 彼は初めて、子供のように泣きじゃくった。絞り出された声は、喉を痛め、引き攣った音となり、ジェンスの胸でくぐもって消えた。




「ジェンス様……」

 部屋に入ってきたヴィノは、ジェンスを見て硬直した。

 ジェンスは自分に抱えられて泣いているフィリベールを、毛布で隠すように包んだ。

「どうした?」

「……医者の相談が終わったようなのでご連絡に参りました」

「わかった。少しだけ外で待っていてくれ」

「承知致しました」

 外はもう暗くなっている。

 ジェンスは丁寧に毛布を降ろし、美しい彼の涙で濡れた顔を見る。胸元にしがみつく手を離させ、代わりに枕を抱きしめさせた。

「医者には聞かないように釘をさしておく。会う前にせめて目を冷やしておこうか」

「うん……」

 手頃な布を水で濡らし、目元を擦らないように丁寧に触れる。再びじわりと溢れた涙を吸って、温もりを持つ。

「まだ落ち着かないか?」

「ごめんなさい……」

「今は謝らなくていい」

 水を差し出すと彼は促されるままに飲んだ。泣いた後は喉が渇く。彼を落ち着かせるのにも一役買ってくれた。

「医者と話はできそうか?」

「……わからない」

 フィリベールは会話が好きだと自分で言っていたが、ジェンス以外の者との会話は難しいようだった。彼は明らかに萎縮している。

「できなければ代わりに僕が話そう。今は苦しくないか?」

「……朝よりは楽。でも、苦しい……」

 小さく咳き込んで、自分の胸元を擦った。

「いい薬がないか医者に聞いておこう。茶葉も喉に良い物に変えるか……」

 背中にクッションを挟んで寄りかからせる。座っている方が落ち着くようだった。



「彼はもういいのですか?」

 ヴィノは伏し目がちにジェンスを見る。

「ああ。今はひとりにしておこうと思う」

 彼には気持ちを落ち着かせる時間が必要だろう。

 足早に客間へと向かおうとするジェンスをヴィノは呼び止める。ジェンスが足を止めると、密やかに、はっきりと口にした。

「……“愛玩”も程々になさってください」

 フィリベールが大変な時まで嫌味を言うのか。飽き飽きして振り返ったが、彼は真面目な顔をしていた。ジェンスを睨んでさえいた。

「僕はお前の言う程々を越えたか?」

 鋭い視線がかち合う。ヴィノは頭を垂れて、提言した。

「ええ。ここまでになさってください。あの子供にその愛情は、目に余るものにございます」

「…………」

 これ以上は貴族として相応しくない。そういうことだろう。

 貴族が他者にさっきのように触れるのはありえないことだ。夜会であれば目を瞑られるが、今回はそうではない。

 しかし彼は子供だ。すでに15歳ではあるが、まだ社交界に出るような歳ではない。

 泣きそうな子を抱きしめてやることに間違いがあるだろうか。ひとりでは終わりの見えない不安を断ち切ってやることの何が悪いのか。

「……気をつけよう」

 皆に見られないように。

 ジェンスの意図を察したのか、ヴィノは無言を返し、客間へと足を運んだ。



 医者はフィリベールを診て、追加の薬を住み込みの医者に渡して帰っていった。

 彼の病気は、病気として確立されてからまだ歴史が浅く、これ以上の薬はこの国でも王領地、あるいは公爵地などの中心部にしか出回っていないそうだ。

 その貴重な薬を地方の医者が手に入れるのは難しいと言う。ジェンスが直接買いに行くしかないが、王領地は遠く、のぼるのは夏の議会まで難しいだろう。

 寝室の蝋燭を消す。フィリベールの微かな寝息と、風の音が凪いでいた。




 秋が深まり、乾いた枯葉が道を冷たく切っていく。

 メイドを呼びつけて暖炉に薪を足すよう言う。薪をくべると、隙間から火花が散って灰と化した。

 フィリベールは裸足でベッドから抜け出し、外を眺めている。今日は厚い雲が流れていた。その雲を通り抜けて射した、僅かな光をもはねる白金の髪が、彼の動きで揺れる。その揺れさえ美しかった。

「フィー」

 白金の彼を呼んで、ジェンスの棚から服を取り出す。糊が乾いた白シャツに、深い紺の色のベスト。ズボンは彼希望の長ズボンを高貴な黒に染め上げたもの。

「それ、もしかして俺の服?」

「そうだ。もう体調も安定しただろう?」

 咳は昨日から出ていない。夜も落ち着いた呼吸で眠っていた。療養に三日かけた効果は得られただろう。


 三日の間、ジェンスは視察に出ずほとんどを書斎と寝室で過ごした。拾い子を見せてほしいとせがむ妹、教皇から土地をもらうのかと煩い父の両方を適当にあしらってきたが、そうするのも今日が限度だろう。ライラワース家の者は、あまり気が長くない。

「着替えたら家を案内しよう。会わせたい人がいる」

「……誰?」

 彼は警戒を見せてベッドへと戻る。追いかけるようにカーテンを退けた。

「ジン以外の人は、嫌だ……!」

「怖いか?」

 枕を盾にして、彼はとたんに目を合わせなくなる。

「相手は僕の妹だ。女性だし、君より年下だが、まだ怖いか?」

「年下……?」

「君が15で、彼女は13だ。淑やかとは言い難いが……君に危害を加えるような人ではないよ」

 おずおずと枕を降ろした彼に服を渡す。

「君に会いたいと言って聞かないんだ。妹は意外と我儘でね」

 ミセス・クレアは、妹とジェンスはよく似ていると言う。ジェンス自身にはそう思えなかったが、妹である以上全く違うとも言いきれなかった。

 淑やかと言うよりはお転婆の言葉が似合う、活発な妹は冷静なジェンスとは正反対のように思える。しかし相手を剣ではなく言葉で叩きのめそうとするところはそっくりだ。

 二人とも頭の固い父に似てしまった。

 弟は全く似なかった──いや、弟もおそらくどこか似ているのだろう。しかしジェンスは認めたくなかった。

「妹さんの名前は、何?」

「シャロン。シャロン・ライラワース」

 フィリベールに服を手渡す。彼の横髪を退け、耳にかける。

 書類を片付ける。診断書は引き出しの中へ、手紙はまた別の引き出しへ。着替え終わったフィリベールの服を整える。彼女には一番美しい彼を見てほしかった。




「シャリー。いるか?」

「お兄様!」

 他の部屋とは対照的に、絢爛の言葉が似合うほど飾られた部屋。この家は花紺青スマルト色と金を基調としているが、シャロンの部屋には金の割合が多い。古さを好む自分とは違い、彼女は新しい生地や装飾を好んでいた。

 ドレスは先日新しく見繕ったものだ。落ち着いた緑色のドレスに、細い金のレースが細かく飾られている。ジェンスから見ればこの時点で十分華美だったが、シャロンの服の中では比較的落ち着いたものだった。

 彼女はドレスを気にせず勢いよく立ち上がり、こちらへと詰め寄ってくる。思わず後退るフィリベールを庇うように背に隠した。

「やっと見せてくれる気になったかしら?私にだけ見せないなんていけないのよ!」

「お父様にも会わせていない」

「メイドたちより先に私たちに見せるべきだわ!私、彼がすごく美しいって聞いていても立っても」

「シャリー。落ち着きなさい。フィーが怯えてしまう」

 後ろからコートがきつく握られているのを感じ、ため息が出た。こうなることが予想できないわけではなかったが、妹はもう少し落ち着いていると思っていた。

「……ごめんなさい」

「少し離れてやってくれるか」

 シャロンは一歩下がってから、部屋の奥にあるソファに座った。

 頭を撫でながら、フィリベールを見る。彼は俯いて、服から手を離さなかった。

「シャロンは優しいから心配する必要はない。──少し強引だがな」

「それは、兄様のせいよ」

「だそうだ」

 そっぽを向いたシャロンを彼は少しの間見つめ、心細げにこちらを見上げた。

「見ているだけでもいいから、そこに座ってみないか?」

 シャロンの座るソファの前に、客人用の長ソファがある。そこに座るのはいつの時もジェンスだけだった。


 ──シャロンには知り合いが少ない。それこそ家に招くことができるような、貴族家の友人はひとりもいなかった。

 他者は苦手だが、話すことが好きだと言うフィリベール。友人がほしいと時々零すシャロン。相性は悪くないだろうと思った。

「紅茶はいかが?ミルクもあるわ」

 誘いに困惑の顔を見せるフィリベールの手を握る。彼が小さく頷いたのを認め、手を引いて誘った。


「初めまして。私はシャロン。この家の長女で、末の子でもあるわ。今度の春に14になるの」

 シャロンは足を揺らしながら笑ってみせた。

「彼はフィリベール。他人が得意ではないから、冗談とか、怖がらせる言葉は避けてやってくれ」

「……それなのに会いに来てくれたの?」

 シャロンはフィリベールの顔を覗き込んだ。驚いて硬直する彼の頭を撫でる。

「君が会わせろと言うから連れてきたんだ。フィーの意見も聞いてやりたかったが、君が急に来るよりは良いだろうと思ったからな」

「それは、明後日にはこっそり顔を見に行こうかしら、と思っていたけれど……」

 やはりそうだったか。ジェンスはため息をついた。シャロンは少しばかりせっかちだ。

 フィリベールの柔らかい髪に指を通す。

 ──彼にはもう少し他者に慣れていてほしい。彼のような拾い子を貴族が連れて行く社交界があると耳に挟んだことがある。もし誘われれば、身分の低い自分では断れないだろう。そうなれば彼も貴族と顔を合わせる機会が増える。

 社交界で会う貴族は威厳ある男性や子息、華美に着飾った夫人やご令嬢ばかりだ。まだ社交界に出ていないシャロン程度で怯えているようでは連れて行けない。

「フィー、シャリーと仲良くしてもらえないだろうか?」

 彼は恐る恐るジェンスの顔を見上げた。大きな瞳が困惑に揺れた。

「シャリーは友人が少ないんだ。だから、君が仲良くしてくれたなら嬉しい」

 フィリベールは視線を彷徨わせている。あと一押しだ。彼の耳元に顔を寄せた。

「……シャリーなら君を守ってくれる。味方が僕だけでは不安だろう」

 彼はハッとした顔をした。彼とは出会った時も、交渉の真似事をした覚えがある。

『じゃあ、お兄さん。俺はどう?』

『ちゃんと静かにできるよ』

 あの時の彼は随分はっきりと物を言うと思った。彼ならあのままパブにいても生き残れそうな気がしたものだ。しかしあれは彼なりの生存戦略だった。彼が病気を持っていても許す貴族を掴むために必死だった。

 シャロンが美しいものに目がないのは事実だが、それよりも、彼女が身分の違う相手でも大切にすることをジェンスは知っている。彼女は絶対に、フィリベールの力になる。

 使える手段は多い方がいい。その考えはフィリベールも同じだった。

「仲良くできるか?」

 考えは固まったようだ。

「頑張ってみる、けど……」

「できなかったらその時はまた考えよう」

 細い手を握る。体温の低い指がこちらを握り返した。

「……わかった」

「シャリー。彼が仲良くしてくれるそうだ」

 シャロンとフィリベールの目が合う。

「いいの?」

「……いいよ」

 フィリベールの震えた声を気にせず、シャロンは表情を微笑みに瞬かせた。

「よろしくお願いね!」

「うん……」

 彼がジェンスの後ろに隠れようとするのを見て、シャロンはくすくすと笑う。今だけは逃げ場になってやろうと思い、咎めはしなかった。




「ジン、おはよう」

「おはよう。よく眠れたか?」

「うん」

 朝は冷える。暖炉の前に椅子を寄せるフィリベールに毛布をかける。……着たばかりのはずの服が湿気を帯びている。

 メイドが乾かし損ねたのだろうか。しかしジェンスの服は綺麗に乾いていた。わざと乾かされていないのでは、などと良くない考えが脳裏をよぎる。

 メイドは先日叱ったばかりだ。問題のルイーズは解雇した。最近フィリベールによくしてくれるメアリーは、ジェンスに反抗できるような強さは持っていない。

 ――やはり乾かし損ねたのだろう。

「フィー。服が乾いていないから、しばらくそこに座っていなさい」

「わかった」

 暖炉の前に座ったのを見届けて、ジェンスは再び書類に目を通す。手はサインを書いていても、頭ではフィリベールのことが気にかかっていた。

「今日は何時から?」

「……十時から執事との書類仕事がある。十四時からの農園の視察はなしにした」

「しさつって何?」

「その場に行って様子を見ることだな」

「行かなくていいの?」

「ヴィノは怒るだろうな」

「行ってきたらいいのに――」

 フィリベールはそう呟きかけたが、口を噤んだ。

 なぜジェンスが視察に行かないのか。以前仕事をしていた書斎ではなく寝室に仕事を運ばせているのは何故か。彼の発作に対応するためだった。残念ながら今いるメイドに適切な対応ができるとは思えない。信頼のおけるヴィノに代わりを任せたかったが、仕事をする時はどうしても彼を動かす必要がある。

 フィリベールは黙って俯いている。

「また良くないことを考えているな?」

 彼の頭を撫でる。僅かに乱れた髪を梳くように整えた。

「俺のせいで行けないんでしょ……」

「君のせいじゃない。僕の勝手だ」

「でも俺がいるから……」

「僕が君を見ていようと思っただけだ」

 彼は再び黙った。

「君が悩む必要はない」

 なかなか表情が晴れずため息をつく。彼のためのつもりで、そんな顔をさせたいわけではなかった。

「……明日は視察に行く。これでいいか?」

 彼は頷かなかったが、言わないよりは良いように感じた。



「俺も一緒に行くなんて聞いてないよ!」

 陽の差し込む馬車の中でフィリベールは抗議の声を上げた。共に乗っていたヴィノが冷えた目でジェンスを見ている。

「言ったつもりでいたが。伝わらなかったか?」

「俺は、ジンが、一人で!行くと思った!」

「そうか、すまなかった」

「悪いと思ってない顔してる!」

 怒っていたフィリベールは、口元を結んでジェンスを見ている。ジェンスとしては予定通りだったが、フィリベールはまだ文句があるようだった。

「……ジェンス様は言葉が足りないことがあります。今後は会話に一言追加してください」

「気をつけよう」

 馬車はジェンスの荘園を北へ進んでいる。ライラワース領の二割は荘園になっており、そのほとんどを大麦畑と牧場が占めている。

 今日は前者、大麦畑の視察だった。

 今秋の収穫が前年度より大幅に下がっており、このまま二度目の大麦を育てるかどうかが問題だった。満足に育たないのならいっそ半年畑を休め、その分の支援金を考えなくてはならない。

 支援をしない貴族も多いが、民を見捨てて一般の民にまで嫌われる伯爵にはなりたくない。それに、一面に黄金の大麦畑が広がって、家畜が気ままに暮らしている光景が好きだった。

 フィリベールはカーテンの隙間から外を見ている。きっと、一面に広がる大麦畑を眺めているだろう。

 公爵領に生まれた彼にとって、見渡す限りの自然は初めてだろうか。横顔からは判断がつかない。

 彼自身が様々な物事を知っておくことで、何かやりたいことが見つかるかもしれない。もちろん、その上でピアノをやりたいと言うならできる限りの支援をしよう。

 屋敷はすでに遠い。揺れるカーテンを開け、外を流れる畑を見つめることにした。



 馬車の戸が開き、外で待っていた農家がジェンスに礼をする。適当に返すと、ヴィノに代わる。

 ジェンスとしては直接話した方が分かりやすく単純だ。しかし貴族と平民の間には隔たりを作らなければ、一瞬で在らぬ噂が立つ。

 平民以下であったフィリベールとジェンスが直接会話することも本来は良くない。貴族は、そう簡単に姿を見せないくらいの距離があってもおかしくない。

 その慣習を知っていても、無知なフィリベールと話している間の安らぎを忘れられなかった。

「……ジン、俺はどうしていたらいい?」

 背中に隠れるように立っているフィーにももう慣れた。

「もう少し表に来なさい。私の一歩後ろがいいだろう」

「このくらい?」

 左後ろに立つと、おずおずとジェンスを見上げる。

「そうだ。それで、もう少し堂々としているといい」

「堂々って、なに」

「……とりあえず、背中を丸めすぎないように気をつけるんだ」

「わかった」



 今年は気候が落ち着いていたが、それが理由で虫に麦を荒らされてしまったらしい。対策はしていたが、追いつかなかったと言う。畑を見ると、殺虫剤が足りないように感じたが、畑主は本当に心から対策を尽くしたと思っているようだった。

「ジェンス様。どうなさいますか」

「対策法の提供と、支援でいいだろう。支援金は予定の一割だ」

 土地の都合ではなく虫のせいなら、畑を休める必要はない。ただ支援が何もなしでは文句が出る。支援というよりは口止め料だ。

「異論はありませんが、今年の冬を越えられるでしょうか」

「貯蓄があるだろう。なければ今残っている麦を貯蓄に回すだろうから、問題ない」

「承知致しました」

 貯蓄しない頭なしなら越えなくても構わないが、頭なしでも善良な民は稀だ。見捨てるにはもったいない。それでも多少苦しんだ方が方法の取得にも躍起になるだろうし、来年の努力に繋がる。

「もう少し見て回ってから伝えよう。ヴィノ、執事に東の方を見るように伝えてくれ。僕たちは西を見よう」

「承知致しました」

 周りに誰もいなくなり、冷えた風が吹き抜ける。フィリベールは上着を握って、ジェンスを見ていた。

「君は大麦を見たことがあるか?」

「おおむぎって何?」

「この植物のことだ」

 穂を指差す。大きく伸びた穂は、手で撫でるには痛そうだ。

「これをどうするの?」

「そうだな。ビールにしたり、パンにしたりする。うちのコックが作るパンは小麦でできているから、別物だが」

 我らが国の中でも北に位置するライラワース領は、冬の冷え込みが激しい。そのため小麦よりも寒さに耐えられる大麦を多く育てる。

「ビールかぁ」

「……まだ飲ませないからな。君の体調が落ち着かないと、あんなもの飲ませられない」

「ジンはビールが嫌いなの?」

 ビールというか、酒自体が好みではない。酔った時の自分が自分でないような感覚が気味悪い。

「ジェンス様はお酒を嗜まれませんから」

 戻ってきたヴィノと共に西の大麦畑を見て回る。食われた麦が幅広く拡がり、ひとつの畑では抑えきれていない。遠くの畑までは見ることが叶わないが、被害を知るには十分な量が見られた。


 馬車が凸凹とした道を走っていく。陽は遠くに隠れ、夕闇が荘園を覆っていく。

 畑主は一割の支援金を受け入れた。後日ヴィノが他の畑主と共にもう一度訪ねる。ジェンスがこの件に関わるのは書類のみになるだろう。

「いつもこういうことをしてるの?」

「視察の時はだいたいこうだな」

 フィリベールの言葉を測りかねて、付け加えて言うと、納得したように頷いた。

「他の領土ではもてなしが中心になることも多いそうだが……僕は効率化を好むんだ」

「こうりつか?」

「仕事や、作業を手際良くやることだ。歓迎する気持ちは有難いが、時間も費用も無駄だ」

「そうかな……」

 フィリベールは疑いを隠さず吐露した。

「……一度は応じた方がいいか?」

「キリがなくなりますよ」

「確かにそうだな」

 彼が足りない知識を集めていく様子は好ましいものがある。彼に意欲があるのなら、教師を付けたいところだ。

 麦畑を去り、屋敷への門を通る。馬車が通り抜けると、鈍い金属音を立てて門を閉じた。




 静かな部屋に控えめなノックの音が響く。

「フィー?入ってきなさい」

 先日の視察結果をまとめ終え、引き出しにしまう。フィリベールとした「毎晩話をする」約束を守るための時間だ。

「……なんで俺だってわかるの?」

 フィリベールは丁寧にドアを閉めると、ジェンスのそばに立った。

「ノックに特徴がある」

「ヴィノさんの真似してるよ」

「似ていないな」

 ヴィノはよく響くように指を丸めるが、フィリベールは手の甲で恐る恐る叩いている。弱い叩き方をする者はこの屋敷に彼しかいない。

 聞き分けやすくはあるから、このままで構わないと思う。ソファへと向かいながら、彼に手招きをした。

 それを合図に彼はジェンスの隣へ座る。少し慣れた様子で、ジェンスと会わなかった時間のことを話すのだった。


 不意にフィリベールの腹が鳴る。

「……ごめんなさい」

「構わない。何か食べるか?」

 彼は返事を返さない。表情を伺うと、彼は目を逸らした。

「フィー」

 つい咎めるような声が出る。彼は再び視線を彷徨わせてから、寝間着を握った。

「夕食に、パンをもらったの。……でも、お腹がすいてしまって……食べれるだけで嬉しいから、大丈夫」

「パン以外は?」

「大丈夫」

 どうしてそう強がるのか。パンだけでは腹が減って当然だ。今までを考えれば、食べられるだけで嬉しいのは本当だろう。しかし少なければ腹が減る。体がさらに弱る。

 ここで彼の強がりをそのまま受け入れてはいけない。

「何か食べようか。果物だと足りないか……」

 それとも、寝る前に適度に入ればいいだろうか。

「ジン、俺は大丈夫」

 頑なさにため息が出そうになる。本当に大丈夫だと思っているわけではなさそうな声音が腹立たしかった。

 わかっていながら自分を押し殺す姿勢はいいものではない。

「フィー。僕は君にしっかりと食事を与えるよう、メイドに言いつけた。メイドは指示を聞かなかったようだが……僕は君をできる限り健康にしたい」

 フィリベールは病気を一生抱えるかもしれない。治すことは不可能に近いが、発作に耐える体であってほしい。

「食べて体力をつけるといい。無理なら食べなくていいが……腹が減っているんじゃないのか?」

 彼の痩せた指を撫でる。いつかこの指が健康的になることを夢見ていた。

「……うん」

 正直になった彼を見て満足する。

「ならパンと果物を持ってこさせよう。焼きたてはないだろうが大丈夫か?」

「うん」

「わかった」

 ベルを鳴らし、メイドに指示をする。部屋の中のフィリベールは見せなかったが、あの様子だと見られているだろうか。

 指示を聞かないメイドの存在を思いため息をつく。フィリベールのこととなると、どうして言うことが聞けないのかわからなかった。



 雪が降り始め、秋が冬へと流れていく。

 この頃は緩やかに気温が下がっていくのを感じる。気温が下がるとメイドのうち一人は、薪を仕入れて暖炉に足す仕事で手一杯になる。

 毎年冬が近付くとメイドの人数を増やすことを考えるが、今年はルイーズを解雇した代わりに新しいメイドを雇った。ミセス・クレアはそのメイドの教育で忙しくしているだろう。これ以上仕事を増やすのは申し訳ない。

 手元の蝋燭を灯し、書類を読み耽る。仕事のことばかり考えると良くないと言われていたが、どうしてもその日やり残した仕事は頭の中にこびりついたままになる。

 どのくらい読んでいただろうか。扉を控えめにノックする音が聞こえる。蝋燭を持って扉を開けると、同じような蝋燭を両手で持ったフィリベールが立っていた。

「どうした?眠れなかったのか?」

 冷えた廊下に立たせておくわけに行かず、彼を招き入れる。冷たい空気はすぐに温まっていく。

「……あの、ね」

 フィリベールはジェンスの手を握った。彼の手の温度に思わず目を見開く。温もりがあるはずの手は冷えていた。

「しばらく、ここにいさせてほしい」

 彼が小さく咳き込んだ。


「ずっと廊下にいたのか?」

「違うよ……部屋にいたんだけど、薪の火が弱くて。それで、薪を加えたら消えたんだ」

 暖炉の方にソファを向け、彼を座らせる。蝋燭を机の上に置くと、ジェンスは彼の隣に座った。

「薪の量はどうだった?」

「二本かな。昼はもっとたくさんあったよ」

「そうか」

 フィリベールの部屋だけ足し損ねたのだろうか。彼の部屋を冷やすことがないようにと直接指示したのに、彼の部屋だけ薪を足し損ねるなんてあってはいけない。

 前々からそうだ。乾いていない服をタンスに入れ、夕食にパンだけを渡し、今日は寒い晩なのに薪を足し損ねた。フィリベールに関した指示を適切にこなさないメイドがいる。

「……今日はここで寝るといい」

「いいの?」

「君を寒い部屋で眠らせるわけにはいかない。調子も良くないだろう」

「うん……」

「薬を飲んで、温まったらベッドに来なさい。僕の隣を開けておくから、ベッドの中で寝ること。わかったか?」

「うん。わかった」

 彼にいつか専属のメイドをつけようと考えていたが、いつかではなく今必要かもしれない。彼の体に気を使い、そばで見ている存在が必要だ。しかし今家にいる者を彼に当てれば、屋敷の維持をするメイドが足りなくなる。そうなればより反抗が強くなり、良くない事態が起きることが想像できる。

 今ジェンスが信頼の置ける使用人は、ミセス・クレアとヴィノしかいない。そもそも使用人のほとんどは父が採用した者で、ジェンスが採用したのは下位のメイド二人のみだ。

 ヴィノは、ただ従者と呼ぶには近く、曖昧な存在だが……仕事はしっかりとこなす男だとわかっている――



「……だから、私にあの孤児を見ろと」

「嫌か?」

 不機嫌に眉をひそめたヴィノは、溜息をついた。卓上のティーカップに口をつけてから、重ねるように溜息をつく。

「嫌なら断ってもいい」

 そもそも嫌がるとは思っていなかったが。ヴィノは今までどんな指示も忠実にこなしてきた。しかし、フィリベールの話となると不満を顕にする。最初は彼の従者としての仮面を剥がせたようで小気味好い気持ちにもなったが、今はただこちらに不満が移るだけだ。

「お断りした場合はどうなるのですか?」

「今まで通り僕がフィリベールの面倒を見るだけだな」

「それは困るのです」

 今度はジェンスの顔を見て溜息をついた。

「貴方様には仕事をしていただかなければ。このままでは皆に示しがつきません」

 仕事は滞りなくこなしている。執事やヴィノに押し付けることなく期限までに終わらせてきた。

「仕事はしているだろう。どれも遅れなくこなしているはずだが?」

 ヴィノは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。困る理由は、仕事だけではないのだろう。フィリベールに構うこと自体が気に食わないのではないか。

『程々になさってください』

 どうやら彼の言う程々を越してしまったようだ。守るつもりもなかったが、それはジェンスが何をしても彼が反抗することはないと思っていたからだった。

 彼は今まで通り、僕に仕事だけを熱心に行う伯爵でいてほしいのか。今の僕が堂々と他者に誇れる主人ではないと?

 孤児を受け入れる貴族こそ、真に誇れる者であるという貴族間の価値観が今更羨ましくなった。

「僕が仕事だけを行うなら誰がフィリベールの面倒を見るんだ?」

「……」

「代わりのメイドを雇う時間はない。それはお前もわかっているだろう」

「……はい」

「お前がやるんだ」

 そうなるのは当たり前だ。メイドは信用していない。貴族社会での孤児の有用性を知るヴィノならばフィリベールを死なせることはない。そもそも、最初に孤児を迎えることを勧めて来たのはヴィノだ。彼が責任を取るに相応しい。

「……承知致しました。私が見張るので、ジェンス様はお仕事に集中なさってください」

 ヴィノはフィリベールの面倒を見て、ジェンスは仕事を行う。そうなればフィリベールに容易に関わることは難しいだろう。

 こうなる結果は予想していなかったが、ヴィノが見守ることで現状が良くなると予感した。距離が離れ、美しい彼を見られなくなるのは惜しい気がした。



 冷えた風が窓を叩いている。もう枯葉の転がる音はしない。

 ジェンスはうたた寝から目を覚まし、顔を上げる。暖炉の火が音を立ててはねていた。

 フィリベールと距離を置いてから1週間が過ぎた。午前は小さな食事会をして、彼の様子を見た。彼は前より無邪気に笑うことが減っていたが、穏やかにすごしているように見えた。

 ヴィノの仕事ぶりは日頃からわかっていた。しかし今までのメイドの様子からヴィノも指示を聞かないのではないかと気にしていた。今のところ、問題はなく日が進んでいる。心配しすぎただろうか。こういうところがヴィノに嫌がられたのかもしれない。

 唐突に部屋にノックの音が響き、はっきりと目を覚ます。扉を開け、廊下を伺うと妹のシャロンがこちらを見上げていた。

「こんにちは、お兄様」

「……そちらから来るのは珍しいな」

「普段から来ていたら嫌がって鍵をかけてしまうでしょ?」

「否定はしない」

 部屋に招き入れ、ソファ前の書類を退ける。紅茶を出すと、シャロンは構わなくていいのに、と言って笑った。

「私ね、最近フィーとコーヒーを飲んでいるの」

 二人が初対面以降会っていたなんて初めて聞いた。彼と話はしたが、シャロンとのことは一切話さなかった。

「でもあの子、時々噎せちゃって……私が助けようとすると、ヴィノがフィーを連れて行ってしまうの」

 シャロンがティーカップに口を付ける。品のある所作が目をひいた。

 ヴィノは、自分よりも彼を過保護に守っているのか?前は気に食わなさそうにフィリベールを見ていたのに、対応が変わっていることに驚く。

「あのね」

 シャロンは真面目な表情で、声を落とした。

「今すぐヴィノからフィーを離した方がいいと思うわ」

 冗談ではなさそうだった。しかし今の話からは想像できない言葉だ。

「……理由は」

「フィーを連れていく時にね、ヴィノが私を睨んだの。余計なことをするなって言いたげだったわ」

「ヴィノが君を睨んだ?」

 有り得ない。ヴィノはシャロンに優しい。時々の突飛な行動に顔を顰めることはあれど、シャロンに対しては、ジェンスにするよりも優しく応じていた。

「アレに限ってそんなことはないだろう」

「だからこそおかしいのよ」

 シャロンの根拠はまだ浅い。しかし彼女の直感は多くを当ててきた。父の不調、母の浮気、商人の嘘。

「……お願い。今すぐ、フィーを守って。今のヴィノはおかしいわ」



 食卓の中心で香を焚く。これは下級で煙の強い香。匂いは心地よく、煙は衣服と肺を満たす。孤児の体を冷やさないように、襟元に繊細な動物の毛を入れる。料理の最後に毒を忍ばせる。薬に抗う対抗策。

 呼吸が苦しそうな彼の口元に料理を運ぶ。ナイフもフォークも使えない彼のために肉を切り、ソースに付けて、最後に魔法の言葉。

「ジェンス様のために、頑張ってくださいね」

 嘘は言っていない。これはジェンス様のために違いない。

 彼が誇り高き潔白な貴族であるために、どうしてもあなたが邪魔だ。

 今まで他者に見向きもしなかったお方が、最近拾った孤児に心酔しているなんて知られたら、ライラワース家の汚名になる。この家の全員の努力が一夜で消えてしまう。

 彼を惑わす存在はこの屋敷に必要ない。追い出すことも叶わないのなら、いっそのこと。

「けほっ、けほ」

 あと少し。次発作を起こした時に、彼を助けるものは何もない。積りに積もった毒の前では、薬も医者も、ジェンス様も無意味だ。

 ――彼が死んだら、ジェンス様はまた一人になるだろう。心の孤独を抱え、また静かに仕事の波に沈んでいく。

 いつかその孤独を解かす人が来るだろう。しかしそれは孤児フィリベールではない。もちろん、従者でもない。もっと相応しい人がきっといる。




「荘園南部の牧場についてだが」

「あちらは予定通りのようです。バーナード公爵の件はどうなさいますか?」

「公爵の希望のままに。取引先が増えるのは悪くない」

 ヴィノの様子に変わりはない。あまりに普通で気が付かなかったが、彼は嫌がっていたフィリベールの面倒を見ているのにストレスの欠片も見せない。彼が優れた従者だからだろうか。それとも、何かがわからないように隠しているのか。

 いつも彼のことを話題に出すと、嫌そうに眉を歪めていた事を思い出す。関係がない今話題に出して、歪めればいつも通り。歪めなければ、あえて顔に出さないようにしている。

「……フィリベールのことだが」

「はい」

「どうしている?」

「健やかに過ごしていますよ。今日もディナーをお召し上がりになりましたし、今は部屋で眠られていると思います」

 ヴィノは整った微笑みを浮かべた。彼は表情を作るのが上手いようだった。

「そうか」



 時計は十二時を越えた。部屋という部屋の明かりが消え、廊下に蝋燭が灯るのみだ。

 ジェンスは蝋燭を持たずに部屋を出て、音を立てないように歩を進めた。足先は青の絨毯を撫で、差し込んだ月光をなぞる。フィリベールの部屋に着くと、廊下に響かないようにノックをした。

 返事はない。

「フィー。いるか?」

 眠っているなら顔だけでも見ていこうか。ゆっくりと扉を押すと、小さい声が聞こえた。

「ジン……?」

「起きていたのか」

「今、起きたの」

「起こしたか?すまなかった」

 扉の向かいに立っていた彼の手を取る。眠っていたにしては冷たいような気がして背筋が凍る。しかし部屋は冷えていない。フィリベールの服は乾いていて、ベッドも手入れされている。丁寧な仕事が伺えた。

「まだ、夜だよね?どうしたの……?」

「君の様子を見に来た。ヴィノが隠し事をしているようだからな」

「……」

 彼の手を引いてベッドへと座らせる。足取りが覚束ず、肩を支える。寝ぼけているにしてはあまりに不自然な縺れだった。

「……フィー、少し失礼する」

 彼の背中に耳を当てる。呼吸が表に出ない時、こうすると肺の音が聞こえると聞いた。

 歪な音。何かを擦るような呼吸の音。

「最後に薬を飲んだのはいつだ?」

 ポケットから常備していた薬を出す。

「ジンに、もらったのが最後」

 ――1週間半も前じゃないか!!

 シャロンの前から離した時、ヴィノは薬を飲ませたのではなかったのか?

飲ませないのならなぜ離した、どうするつもりだった?

 薬を飲ませなければ発作を起こした時に死んでしまうことを知っているはずだ。彼が死んでしまえば僕にも家にも不利なことはあまりにも明白だ!

「ジン?」

 彼の冷たい手が指をなぞる。

「怖い顔。怒ってる……?困ってるの?」

 珍しく心に波が立っている。怒りか、困惑か。両方かもしれない。

 どこかでヴィノは自分を裏切らないだろうと思っていた。命令に忠実で、幼い頃から共に育ったせいで敬意は少し欠けていたが優れた従者だった。

「悲しい?」

 か細い声がジェンスの思考を揺らす。

「……悲しくはないよ」

 そんな感情、僕には必要ない。

 水を注いだカップを彼に握らせ、薬を口にさせた。



 ベッドに横になった彼の頭を優しく撫でる。白金の髪は些細な指の動きで流れ落ち、すくい上げて耳へとかける。

「いつから苦しかった?」

「……言わない」

 答えてはくれないようだ。

 ベッドに腰掛けると、ふわりと何かが床へ落ちる。鳥の毛か?

 屋敷のベッドには羊毛を使用していたはずだ。それはフィリベールに対しても同じだ。使用人屋敷では一部のベッドがまだ羽毛だが……それでもこの羽毛ではないだろう。普段羽毛に関わらないジェンスでも質が悪いことがわかる。

「これに心当たりはあるか?」

 風が吹けば飛んでしまいそうなそれを指で摘む。

「うん。ヴィノさんが持ってきてくれたものの中に入っていたよ。たまに出てきちゃうから戻していたけれど、また落ちちゃったみたい」

 またヴィノか。鳥の毛は発作の大敵だ。フィリベールのものには上質な羊毛を使うようにさせていたのに、よりによって鳥の毛を使うなど信じ難い。

「何に使った?」

「上着……だよ」

「その上着は?」

「ヴィノさんが寝る前に持っていったよ」

 現物を見たかったが、ヴィノに持ってこいと言ってもはぐらかされるだろう。

「その上着を着ている間、苦しくはなかったか?」

 フィリベールは目を僅かに見開いた。

「……なんでわかるの?」

「これは鳥の毛だ。君の肺に悪い」

 悪いどころではない。このまま吸っていれば死に繋がる。ヴィノは彼を殺そうとしている。家への悪影響を知った上で彼に危害を加えている。

 フィリベールに何かする可能性は考えていたが、こんなに積極的に害を加えているなんて想像しなかった。それほどまでにこの子の存在が気に食わないか。消してしまいたいほど邪魔だと思っているのか。信じ難いが、証拠が揃いつつある。生まれた歪みが緩やかに確信へと繋がる。


 彼をヴィノから引き離そう。そして、これ以上の悪意を買わないように自分ではなく他の者に世話を頼む必要がある。

 しかし家にはもう頼める者がいない。ミセス・クレアはあまりに忙しい。彼女がメイドたちの管理をしなければ家が回らなくなる。

 メイドたちはまだ信用できない。あの中にフィリベールに冷たい者がいる。彼に当てられるメイドに目星はついているが、新しい者を雇うまでは難しい話だ。

 それまではジェンスが見なくてはならない。ヴィノとの約束は守れなくなった。

「僕の部屋に来なさい」

「いいの?」

「構わない。ここにいたらヴィノに何をされるか分からないだろう?」

 彼の衣類を棚から数着出し、腕に抱える。片手を彼に差し出したが、彼はこちらを見ていなかった。

「ヴィノさんはジンのためって言っていたよ」

「何がだ?」

 鳥の毛も薬を飲ませないのもヴィノ自身のためだ。どうしても僕を説得できないから実力行使に出た。彼にしてはあまりに愚かで浅はかで、そこまで必死かと鼻で笑う。そんな策で僕が気付かないとでも思ったのか。

「君が苦しむことが僕のためなわけがないだろう」

「ジンが俺のことを守ろうとしてくれるのはわかるよ。でも、ヴィノさんや、アンさんにとっては邪魔なの。綺麗なジンのそばに汚い孤児がいるのが許せないんだ」

 ──その通りだと、解ってしまった。ジェンスが想像しているよりも、フィリベールの気付きの方が鋭かった。

「俺、ジンのためなら死んでもいいよ」



「──そんなわけ、ないだろう」

 怒りが沸き上がる。沈めようとする理性は間に合わない。

「君が死んで僕が喜ぶと思うのか?」

 乗り上げた重さにベッドが軋む。

 怒りに気付いたフィリベールは、怯えた顔をした。急激に冷水のような理性が頭痛を伴って襲いかかる。

 彼の胸ぐらを掴もうとした手を止める。収まらない怒りが手の腹に食い込んだ。手を出してしまわなくてよかった。怒りをぶつける相手はこの子じゃない。


 深呼吸をして、腕を下ろす。怯えている彼の手を包むように握る。怒りを受け止めた自身の手が異常なほど熱い。

 怒るなんて慣れないことを思うものじゃない。ズキズキと痛む頭が心を冷ましてくれた。

「……君は生きていていい」

 ゆっくりと考えを言葉にする。

「孤児だろうと関係ない。そうだと僕が決めた」

 こうして彼の生死を容易く握る自分が嫌いだ。しかし、他者に脅かされるくらいなら自分が握る方が良い。そして無理やりにでも生へ引きずろう。そうすることに悔いも反省も出ては来ない。

 どうせ、王でも神でもない僕たちの死は人間に何ももたらさない。それなら精々共に足掻いてみるのも悪くないはずだ。

「死にたいわけではないだろう?」

 できる限り優しく声をかける。死にたいと言っても死なせてやる気はないが、確認だった。

「……わからない」

「わからない?」

「死ぬのは怖いけれど……生きていても邪魔、だから。君のために死ねるなら、少し嬉しい」

「君が死んでも僕のためにはならない」

 フィリベールは困惑に満ちた顔を浮かべた。

「君には生きてほしい」

 子どもにするように、頭を撫でる。

「僕のために生きなさい。元気な時は毎日僕に顔を見せて、食事を取って、温かい部屋で眠るんだ。できるか?」

「いいの……?」

「そう命令した」

「ヴィノさんに、迷惑かけるよ?」

「かけていた方があいつは働く」

「……アンさんは?」

 アン──メイドの中の1人だろうか。

「メイドは僕のことは考えていないし分からないから、気にしなくていい」

 まともに話したこともないくせに物知り顔をされるのは腹が立つ。ただ同じ家のために働いただけで、ジェンス自身のことなど何もわからないだろう。

「僕の部屋に来なさい。きっと君の部屋より心地がいい」

 差し伸べた手を彼は拒まなかった。



 今朝は起きたらフィリベールが腕にくっついて眠っていた。重みで痺れた左腕は使い物にならず、ひどい状態だが彼に伝えれば落ち込むのは目に見えているので黙っている。

 フィリベールが寝室にいないことでヴィノが騒ぐかと思っていたが、普段通り書斎で仕事を始めた。何も思っていないのか、感情を隠しているのか。

 ──さて、ヴィノが訪れる可能性が少なく、フィリベールに干渉しにくい場所といえばどこだろうか。従者であり執事見習いの立場にいるヴィノは屋敷中を駆け回っていて、メイドに自由な命令ができる立場だ。しかしそんな彼でも行かない場所が一箇所だけある。

 この屋敷で一二を争う華美な部屋。メイドにお転婆だと評される伯爵令嬢の間。

「シャリー」

 まさか、ヴィノへの対策で妹の立場を借りることになるとは思わなかった。

「……フィー!」

 兄ではなくフィリベールに反応するところが、なんとも言えない気にさせてくれる。

「ヴィノは?今はいないの?」

「書斎で仕事をさせている。シャリー、夕食まで彼を預かってくれないか」

「とりあえず入って。フィーには毛布をあげるわね。ララ!毛布……ああ、白の!黄色は良くないわ、あれは毛が細かいもの!」

 シャロンはいつものようにメイドを手足のように使う。ララはシャロン専用のメイド──ジェンスにとってのヴィノのような存在だ。

 ララはシャロンのためだけに仕える、という立場柄ミセス・クレア以外との繋がりがほとんどなかった。当然ヴィノとも関わりがない。シャロン達は同じ家にいながら、別の立場として存在している。

 ヴィノから守るには好都合だった。

 妹の純粋な好意もある。綺麗なフィーが好きだから、悪いことにはしないだろう。シャロンは家のためだけでなく、ジェンスのために動いてくれる数少ない人だった。

「はい、寒くないかしら?」

「……ありがとう」

「ふふ。当然のこと、よ!」

 シャロンは上機嫌でソファに座る。ジェンスを見上げると、いつものように説明を強請った。

「ヴィノはどうしたのかしら。フィーのことは諦めてくれるの?」

「諦めさせるさ。今からそれを話しに行くつもりだ」

 ヴィノを解雇することは考えていない。どうせアレ以上の従者はジェンスには見つけられない。どんなに優れていても、彼ほどジェンスを理解する者はいないだろう。過ごした年月は固い。

「私はフィーと一緒にいたらいいの?」

「できれば彼を誰にも会わせないでくれると助かる」

「……メイドたちにも?」

「僕と、君と、君のララ、そしてミセス・クレア以外は全員敵だと思って構わない」

「まあ、フィーったら人気ものなのね」

 小さく咳き込んだフィリベールの背中を撫でる。薬の効果は多少あったが、あまり回復していなかった。

「客間を貸してあげるわ!あそこならベッドもあるし、綺麗にしてあるもの。いいわよね?」

「そうしてもらえるとありがたい」

 シャロンがララに指示している間に、フィリベールに薬を渡す。受け取ったのを見て、シャロンに声をかける。

「後は頼んでもいいか」

「ええ!」

 固くジェンスの手を握る彼の頭を撫でる。少しの間離れるだけだと囁くと、彼はわかったと小さく答えて、ジェンスの手を離した。


 書斎に戻るとヴィノの姿はなかった。

 周囲を見渡すが書き置きもなく、まだ終わっていない書類が積まれている。

 手持ち無沙汰で、ジェンス宛に届いていた手紙を机の上に広げる。中で一際目を引く赤の封筒を手に取った。この家に届く赤の封筒は大抵バーナード侯爵のものだ。

『孤児を迎えたそうだね。おめでとう。今度私のローエルと一緒に茶会でもどうだろうか。返事を待っているよ』

 こちらは茶会ができるような状況ではない。領土どころか家の中すら収められず手を焼いているのに。

 だいたいどこからフィリベールの話が流れたんだ。手紙は見ていないことにして再度封をする。

「ジェンス様」

 聞き慣れたヴィノの声に振り返る。普段通りの静かな微笑みを浮かべる彼が怖いと、久しぶりに思った。

 一呼吸してなんでもないことのように切り出す。

「フィリベールのことだが」

 ヴィノはさっそく話の腰を折るように口を出す。

「申し訳ありませんが、今朝から姿が見えないのです。ジェンス様は何かご存知ですか?」

「さあな」

 あからさまだっただろうか、ヴィノは僅かに眉を歪めた。

「なぜこの時間まで報告しなかった?」

「捜索しておりました」

 白々しい。さっきまで書斎にいただろう。平気な顔で嘘がつけることに妙な感心を覚える。

「嘘だな。お前が書斎にいたのは知っている。部下のフットマンの二人も今は別の仕事をしているな?」

「よくご存知ですね」

 嘘がバレたことに気付けば、それを悟らせないように開き直る。面倒ではないが嫌な男だ。

「フィリベール様の居場所をご存知ですね?本日の体調を確認していないのでお会いしたいのですが」

 彼の微笑みは消えない。彼はいつも出先で不快なことがあっても表情を変えなかった。ジェンスに対してはつい表に出るようだったが、最近彼は怒った時も笑顔を浮かべることを知った。今は怒りの笑みだろう。ため息が出る。

「お前が確認したいのは彼が発作を起こして死んだかどうかか?」

 二人の間が凍りついた。

「残念だったな、生きているよ」

 死なせはしない。今からヴィノが何かしようとしても、フィリステラは彼の領域外シャロンの部屋にいる。

「計画を丁寧に練ればわからなかったかもしれないな。そう簡単に僕の目を掻い潜れると思うな」

 見つかりたくないのならじわじわと弱らせるのではなく、一思いに仕留めてしまうべきだった。そうしていれば自分はヴィノを許さなかっただろうが、殺しておいて許される気もなかっただろう。

 ヴィノはため息をついて、前髪を耳にかけ直した。

「……ジェンス様のためですよ」

 自他に都合のいいように言って、本当にジェンスのためか確認もしない。

「フィリステラが死んだら僕のためになると?冗談じゃない」

 鼻で笑うと、ヴィノは声を荒らげた。

「貴方様は孤児の子供に心酔して、使用人を大切にしないようなお方ではなかった!」

 メイドのルイーズの件か。こちらは雇ってやっている恩を仇で返された気持ちになったし、今後を思えば当然の処遇だったと思うが、ヴィノはそれを大事にしていないと感じたようだ。

「それで、孤児がいなくなれば使用人を大切にするとでも?」

 ヴィノはぐっと言葉を詰まらせた。

「勘違いするな。僕はお前以外の使用人を大切にしたことは一度もないし、フィリステラに心酔しているわけでもない」

 ヴィノに対しては他の使用人より良い食事と部屋を与えてきた。

 それは彼に対して負い目があるからだ。


 ジェンスがまだ物心がついたばかりの頃、父が自分と瓜二つの顔を持った労働者階級の子供を連れてきた。名前は父が適当に「ヴィノ」と付けていたことを覚えている。

 当時は遊び相手が増えたと思った。しかし育つうちにヴィノの顔が自分とよく似ていることに気付き、大人になる前になってようやく彼が自分の替え玉として連れてこられたのだと気付いた。気付くのがあまりにも遅く、既にヴィノは大人になっていた。経歴を確認したが、連れてこられた時点で家との縁が切られていて、帰すことも叶わなかった。

 他の使用人は自らの意思で自分に仕えているが、ヴィノは自ら望んだからでも、親が望んだからでもない。

 ただジェンスと顔が同じだったから。それだけの理由で父はヴィノをライラワース家に縛り付けた。

 負い目を感じないわけがないだろう。自分がこの顔に産まれていなければ、伯爵などという身分でなければヴィノは連れて来られることなく両親と暮らしていた。


 それを知った時、責任を感じた。

 すぐに自由にしてやりたかったが、ヴィノを今自由にしたところで路頭に迷うだけだ。それなら自分の元で、ある程度満ちた生活をさせようと思った。

 ヴィノは温かい部屋に柔らかな寝台が与えられている。一方メイドは硬い寝台と隙間風の吹き込む部屋だ。

 使用人にはメイドのような最低限の部屋が普通だ。もう少しまともな暮らしもあるだろうが、そうしてやる理由はない。

 特別ヴィノの扱いを良くしているだけだ。

「フィリベールを大切になさるのなら、使用人のことも思ってください」

 フィリベールとメイドの価値の差はジェンスにとって明白だ。使用人はいないと困るが、仕事ができれば誰でもいい。

 しかし“フィリベール”は、彼でなくてはいけない。彼は簡単にジェンスの苦心に触れるが、それを理解できないことがわかっている。下手な同情はせず受け止める。ジェンスに対してごまかしが少ない彼のそばは、居心地がいい。

「検討しておくが、彼を大切にできないメイドは今後も切り捨てる」

 ヴィノは嘆息し、目を伏せた。



 華美な皿に乗った料理が次々と運ばれてくる。メイドたちは食器やナイフの音を立てず机に並べると、静かに退室し、ヴィノのみが残った。先程の出来事を気にしない様子で侍っている。出ていくよう指摘するのも面倒で、目を向けずに料理に目を配った。

 数皿食事を残してフィリベールに分けてやろう。この場に呼べないことが面倒だったが、ヴィノがいるから仕方がない。

 仔羊の肉は、ナイフの歯を必要としないほど柔らかい。ハーブとソースに絡んだそれは豊かな香りと程よい塩で口を満たす。

 舌と馴染んだソースに僅かな痺れを感じた。ゆっくりとその味を追う。茄子のようだったが、そうではない違和を感じる。毒にしてはあまりにも微弱だ。体に影響が出るかどうかさえ怪しい。茄子が紛れ込んだかと考えたが、今日のディナーに茄子はない。

 プディングにも肉ほどではないが違う味が紛れ込んでいる。

 毒か。しかし自分を狙うならもっと強い毒を選ぶはずだ。こんな微弱なものなら苦しむこともない。少なくとも大人であり毒に慣らされている自分は──自分でなければどうか?

 この食事を口にする可能性があるのは、味見のコック、毒味のヴィノ、自分と……フィリベール。

「ヴィノ」

「はい」

「毒味はしただろうな?」

「ええ。多少の毒は問題ないと見てお通しいたしました」

 有り得ない言葉に目を丸くする。今まで彼は様々な手段で反抗したことがあったが、それは面と向かって言葉やナイフで来ることばかりだった。

「……今までそのようなことはなかっただろう?」

「そうでしたか?」

「どういうつもりだ?」

 僕に逆らうなら彼は徹底的にやる気質だ。半端な毒を盛ることはない。

 ──もし、今回が手抜きではなく綿密に練ったものだとしたら?

 その場合。この微弱な毒の狙いは僕ではなくフィリベールだ。

「お察しなのでは?」

 彼は冷静に当然のように笑んだ。額に青筋が立つ。

「ヴィノ……!!」

「察せていただけたようで幸いにございます。私としては、気付かないままでいてくださった方が良かったのですが」

「彼が口にしたらどうなるかわかってやっているのか!!」

 明晰な彼が分からないわけがない。ここまで来て彼の善性を願う自分にも腹が立つ。机へ叩いたカトラリーが不秩序に散っている。

「苦しむでしょうね。死ぬかもしれません」

 平然と脇から丁寧に卓上を整えながら言った。

「何か問題がございますか?」

 なんでもないような顔をして、恐ろしいことを言う男になっていた。ヴィノがそこまで孤児を気に食わないことが、虚しかった。

 あるいは、孤児に生きている価値を感じないのか。本当にそこらに転がる石と同じように見えているのだろうか。彼は、生きているのに。

「──出ていけ」

「承知致しました」

 静かな答えが部屋に染みていく。

「今後毒を盛ることは許さない。次は罰を与える」

「承知致しました」

 扉が閉まる音を聞いた途端、溜息が出た。ヴィノはあまりに反抗の意識が強く、説得は意味を成さない。彼は自分の手を汚してでもフィリベールを追い出そうとする。

 ──二人ともそばに置くのなら、自分がヴィノの意見を受け入れる他ない。

 解雇したルイーズの再雇用はできない。彼女のライラワース家への忠誠心はとうに失われている。

 今いる使用人を大事にしろと言われても、フィリベールが増えた程度で人数を増やすことはできない。それ以外の待遇はどこまでやっていいのか加減が分からない。大切にし過ぎれば他所の使用人が羨み、あのようにしろと他の貴族に文句を言い始めることだろう。

 大切にすることも難しい。主人の自分にできることでも、伯爵の自分には難しいことがある。

 深いため息をはいて毒混じりの料理を飲み込む。羊肉は冷めていた。



 遠くから馬の嘶きが聞こえる。

 滅多に客が来ないライラワース家の門を馬車が越えた。

「ジン、誰か来たよ」

 寝巻き姿で外を眺めていたフィリベールの上から外を見る。一匹の馬に引かせた二輪の車。上に乗っている者は黒の外套を着ている。フィリベールに着替えを渡し、乱雑に自分の髪を整えた。

「貴族?」

「いいや、あれは貴族じゃないが……僕が対応しないといけない相手だ」

「医者?」

 フィリベールは着替えを抱えたままジェンスの後をつけて回る。随分懐かれたものだ。頭を撫でてから冷えた肩に毛布をかける。

「それよりも厄介なやつだ」

「わからないよ、答えを教えて」

 着替えを指さすと、彼はクロゼットの前に向かう。彼は思っていたよりも物覚えが良く、着替えは一人でできるようになった。子供は何度も教えこまなければいけないと思っていたが、少し褒めれば喜んでできるように努力するのが彼のいいところだ。

「どんな人なの?俺が知らない人でしょ?」

 構ってほしいのか、気分が落ち着いているのか随分と話しかけてくる。

「誰よりも傲慢で、試練を与えてくるくせに慈悲深いお方の使用人だ」

「……ジンって神様嫌いなの?」

「嫌いとは言ってない」

「お祈りはするものね」

 髪と顔を確認し、用意させておいた上着を着る。ヴィノは遠出の用事を言いつけておいたから、今日は一人で行わなければならなかった。

「けほ、っけほ」

 咳き込んだのを見て顔色を見る。ヴィノから引き離した時より随分と良いが、時折咳き込むのが気になる。この部屋にもヴィノが何か仕掛けたかと考えたが、何も見つからなかった。

「……寝ていた方がいいんじゃないか」

「もう、寝るのは飽きた」

 まだ一日寝ていた程度だと思うが、言い聞かせようにも彼は頑固なところがある。

「苦しくなったら言いなさい」

「うん」

 細い手を丁寧に撫でる。彼は薄く笑んでジェンスの手を握った。



 エントランスで客人の上着を受け取るミセス・クレアに目配せをする。彼女がこうして表に出てくるのは久しぶりだ。急に来た客人の地位がわからないメイドが呼んだのだろう。

 彼女の目の前には、穏やかな笑みを浮かべた神父が立っている。こちらに気付くと細い目をさらに細めた。

「伯爵閣下。こんにちは」

「マクミル神父。訪問の手紙はなかったが?」

「あー、そろそろお困りかと思いまして?」

 相も変わらず胡散臭い笑みを浮かべる。

「それに、閣下がなかなかフィリベールくんを見せてくださらないものですから」

 名前を呼ばれて動揺したフィリベールの手を確かに握る。こうでもしないと逃げてしまいそうだ。

「時期が来れば行くつもりだった」

 彼──マクミルはフィリベールの名前を考える際に意見を聞いた神父だ。フィリベールと会わせる気はあったが、ジェンスはヴィノのせいで仕事に縛られがちで、時間に余裕がない。フィリベールは持病が落ち着いていない。行けるような状況ではなかった。

 マクミルはジェンスの背後にいた彼に気付き、目線を合わせようと屈んだ。

「こんにちは。君がフィリベールくんですね」

 より背中に隠れた彼を見て彼は微かに笑う。

「懐かれていますね」

「貴方の顔が怖いんだろう」

「普通の顔ですよ。ね?」

 にい、と笑った口元は、優しくはあるが裏を感じてしまう。彼は善良だが、その嫌な表情のせいでよからぬ事を考えているのではないか、と誤解される。フィリベールも違わず誤解したらしい。

「怖がっているからそれ以上近付くな」

「警戒心が強いタイプですか?」

「人並みにな」

 最初は警戒心だったが、今は怯えだろうか。時間をかけてマクミルの疑いを晴らしてやるとしよう。空いた手で奥の部屋へと促した。

「立ち話は好きじゃない。貴方も温かい部屋の方がいいだろう?」



「すぐ客間を用意できるとは。もしかして来るのに気がついていました?」

「使用人が優秀なだけだ」

 ミセス・クレアに紅茶を頼む。とうに他のメイドは信用ができなくなって、フィリベールがいる時はミセス・クレアに頼むようにしている。

「ふふ、ご謙遜を!使用人の力は、主人の力を表しているんですよ」

 眉が僅かに釣り上がる。ありふれた褒め言葉のはずが妙に引っかかった。

 使用人が鏡のように主人を表すなら、孤児に冷たい使用人もまた、ジェンスのかつての姿を示していることになる。

「そうだとしたら僕はろくな主人じゃないことになるな」

 苦みが口に広がる。自虐的な笑いが口を歪める。

「今さっき優秀だと申されたじゃないですか……何かありました?」

 僅かに見開いた目から、歳に合わず淡いブルーの目が覗いた。

「人が他者に求めるのは、決して能力だけではないということだ」

「閣下、いつも言葉が遠回しですよね。ぼくはヴィノさんとは違うんだから分かりませんよ」

 フィリベールを見ると、その通りだと言いたげな顔でこちらを見ていた。

「……こちらはいい。お前の話を聞こう」

「最初にお伝えした通り、閣下がお困りじゃないかなと思って来ました。例えば、フィリベールくんの扱い方、教え方、あとは……使用人とどう折り合いをつけるか、とか」

 早くもティーポットを持ってきたミセス・クレアに、神父は含みのある視線を向ける。彼は家のメイドとも親しくしていたことを思い出す。彼女らが各々どの立場にいるか知っていてもおかしくなかった。最上位のメイドハウスキーパーのミセス・クレアに紅茶を頼むことはほとんどない。相手が地位の高くない神父なら、さらにありえないことだ。なぜ彼女に頼んでいるか、理由まで察しただろうか。もしそうだとしたら、他所の事情をそこまで予想したことが気に食わない。

 神父に視線を向けると、片眉を上げてから笑んだ。

「僕は貴方のそういうところが好まない」

「おや、すみません。慣れてください」

 自分の紅茶を毒味してからフィリベールのカップを渡す。彼はカップとこちらを交互に見てから、おずおずと口をつけた。

「フィリベールくんはお話が出来ますか?」

 マクミルが視線を向けるたびにフィリベールは体を固まらせる。この家の敵意を感じすぎたのか、出会った頃より疑心が強くなっているように感じる。

「フィー。マクミル神父は僕の前なら君をいじめない」

「まるでぼくが人をいじめるみたいじゃないですか。そんなことしませんよ」

 マクミルは一口紅茶を飲むと、目を細めて微笑んだ。

「初めまして。ぼくはマクミル。ここから一番近い教会で、神父をしています」

「……はじめまして」

 フィリベールの返事は愛想のない、好意を伴わない挨拶だったがマクミルは満足そうに頷いた。

「ちゃんとお話できるみたいで良かったです。気軽に相談してくださいね。ぼくができる限り助けます」

 フィリベールはカップを置いて、ジェンスの袖を掴んだ。目線は合わず、彼の冷えた手をそっと握って離した。

「様子を見る限りだと閣下以外とは親しくしていないようですね」

 フィリベールは人との間に精神的な壁を作り、ジェンスにのみ助けを求める。本来は様々な者と話ができればいいのだが、周りは孤児と話すことを嫌った。

「使用人が彼を受け入れない。こちらはまだやりようがあるだろうが……」

「それ以上に何かあるのですね?」

「……ヴィノが、僕と彼が関わることをよく思わないようだ」


「ヴィノさんが。彼が貴方以外の人に対応を変えるのは珍しいですね」

「そうだな」

 ヴィノの名前を聞いてフィリベールは身を強ばらせる。マクミルはそれを見逃さず、なるほどと呟いた。

「ヴィノの不満は、僕が伯爵らしくなくなって周囲に示しがつかないことだそうだ」

 空いた手で熱いカップを揺らす。

「だが僕は一度も示しのつかない態度を取ったことはない。全てあいつの不満による想像だ」

「そう、ですか」

 ティーカップが細かな音を立てて触れる。マクミルは穏やかに笑んだ。

「もう少し考えてはみませんか。示しがつかないと思われたことの原因は何か、分かりますか?」

「フィリベールに優しくしたことだろう」

 フィリベールへ情愛を与えたこと。子供にするように、泣いている背を慰め、苦しむ体に暖を与え、共に夜を越したこと。

 どれもこの子になくてはならなかった。

 それらがたとえ、過去の幼いジェンスやヴィノに与えられなかったものでも、庶民にとっては与えられて自然なものだと知っている。

「僕はここまで他者に時間を割いたことがなかった、不満のきっかけになるかもしれないな」

 追加の紅茶がフィリベールのカップに注がれる。

「その時間のために、家が落ちていくのをヴィノさんが恐れている……ということは、十分に考えられるでしょう」

「そんなことは起こさない」

 家が没落しないように、孤児を拾ったのにそのせいで没落してしまっては意味がない。

「周囲はあなたの想像よりも怖がりな時がありますよ」

 片眉を上げる。マクミルはいつになく真率しんそつそうに、こちらを見つめていた。

「……万が一の対処法でも考えればいいか?」

「それがいいかと思います」

 マクミルは神父らしい穏やかな笑みを浮かべた。



 ヴィノを納得させられる案を、昼夜問わず考えた。

 孤児を迎えた結果の障害を見るのではなく、利点を再確認すべきだ。

 孤児を迎えたことで、名を挙げ、伯爵家でありながら賞賛を集めることが出来る。孤児の話題を元に、同じように孤児を拾った公爵や侯爵の会話に混ざり、知られることで立場を磐石なものにしていく。ゆくゆくは孤児を連れた茶会やクラブハウス、晩餐会に行くようになるだろう。

 そこで得られる情報、そこに参加したという事実は社交界において影響力が高い。

 しかし社交界に参加するにはフィリベール自身が場に耐える体力、精神力をつけねばならない。今はその期間であることを再確認し、これが長期的な計画だということをヴィノに正しく認識させる。

 ヴィノは、話せば理解できる男だ。

 そうでなければ、今まで従者を任せては来なかった。


 ドアが開き、冷たい空気が流れ込む。

 ヴィノを呼びつけるのに、これほど重い気分になるのは特異なことだった。

「ジェンス様。お呼びでしょうか」

「フィリベールの件で呼びつけた」

 向かいに座るよう促す。ヴィノは促されるまま歩み寄り腰掛けた。

「私に彼の世話を任せる気はないのでしょう?わかっていますよ」

 溜息が空気を重くする。ジェンスはひと息入れて、切り出した。

「お前はフィリベールを邪魔だと考えている、そうだったな」

「ええ。この家には余計な存在です」

「そんなことはない」

 ヴィノの笑みは変わらない。

「フィリベールが今後どのように役立ってくれるか、考えたか?」

「孤児は有用でしょう。しかしそれよりもジェンス様の邪魔になってはいけません。彼には出ていくか死んでもらわねばなりません」

 ヴィノの意見は変わらず、自分ジェンスの邪魔をするフィリベールを追い出して元通りになることを目指している。

 しかしそれではジェンスが困る。彼が自分の手元を離れてしまえば二度と出会うことは出来ない。それは嫌だ。

ライラワース家僕たちはフィリベールを抱え、父が倒れた際に揺らいだ信頼を立て直そうとしている。そのための多少の歪みは変化として捉えるべきだ」

 ヴィノは顔を顰めた。

「そうでしょう。しかし私は、貴方が孤児という趣味に溺れるような変化は求めていません」

「そんなことは起きていない」

「私にはかつてジェンス様がアンティークを気に入られた時と同じ印象がしました。いくらご自身が責められても金を浪費しても構わないという態度でございました。伯爵である貴方様ならその豪遊も許されましょう。しかし」

 ヴィノは少し言葉に詰まり、

「孤児が趣味では外聞が悪く我々も仕えるのに抵抗を伴います」

「フィリベールは趣味ではない。確かに僕自身の金を使うと言ったが家とあの子のためだ。今のあの子に優しさが必要なのが分からないか?」

「分かりません」

「今はあの子は慣れない環境に加え、メイドの仕打ちと生活の危機で気分を尖らせすぎている。体調に影響が出ているんだ、あの調子では勉強もマナーも教えられないだろう」

 言って、ジェンスはヴィノを見た。

「優しくすればあの孤児の体調が整うとお考えで?」

「そうだ」

「では、今までの行為は趣味興味ではなく、今後の作戦の一環だと言うのですか」

「作戦と言うと外聞が悪いが。僕らのためであり彼のためでもある」

 僕らは家のためにフィリベールを支え、フィリベールは生きるために僕らを利用する。

 ──ジェンスが無条件でフィリベールを愛していても、フィリベールが無償の愛を求めていても。他者にそれを知られてはならない。

 貴族は孤児に持つものを与えても、愛までは与えない。貴族と孤児の情が通うことはあってはならない。

 互いを利用するという言い訳が通用するうちは、そのままで。


「ジェンス様の行為については納得致しました。しかし、我々は孤児であったフィリベールを世話したくないと感じてしまうのです」

「汚いからか?」

「私より地位の低い者が突然貴方様と並び、私が仕える側となったなら。抵抗は必須でしょう?」

「……そうか」

「世話をするなら、するなりの対価をお約束いただきたいものです」

「例えばどんなものがいい」

「そうですね」


 ヴィノは口元に手を当ててしばらく考え、例えば、と呟く。

「フィリベールを利用し、王にご引見を賜って伯爵家としての格を上げられる、と言われたならば私もメイドも従わざるを得ないでしょう」

「王にご引見を……!?」

 それは難しい。まず、出来るわけが無い。王に拝謁するなど、伯爵家の地位、ジェンスの全力を持ってして叶わない。ライラワース家が長い歴史で紡いできた関係は、どう考えても王の周辺には結びついていない。

 どれだけ心血を注いでも王の耳に入ることはない、ジェンスの一生はそんなものだ。

「王にご拝謁なさると約束していただけるのならば、私もメイドも、一生の忠誠を貴方に捧げ、フィリベールの世話もこなしてみせましょう。いかがですか?」

「本当に僕に出来ると思っているのか?」

「貴方様なら決して不可能ではないと思いますよ」

「お前は僕を過大評価しすぎだ」

 頭を抱える。

「一晩考えさせてくれ」

「承知致しました」



「ジン、仕事はもういいの?」

 シャロンからフィリベールを引き取る。眠るにはまだ早い時間だ。

「今日はもう終わらせた」

「ジンはすごいね」

 フィリベールはソファに座り、抱えていた膝掛けを広げた。

「少し、君と込み入った話をしようと思ったんだ。だが、するべきか迷っている」

「……そんな風に言われたら気になるよ」

「君が考え込むようなことは言いたくないんだ」

「俺の事なんだ。俺の知らないところで俺の話が進んでるのは嫌だよ」

「……体調は大丈夫か?」

「前よりは良いよ。走れないけど、話を聞くくらいなら大丈夫」

 ジェンスはひと息着いた。


「君について、ヴィノと話し合った。」

「うん」

「君を養うなら、それに見合う対価が欲しいそうだ」

「……うん」

「ヴィノは、僕と君が王にご引見……王からお言葉を賜ることを期待した」

「王って、女王様?」

「そうだ」

「この国で一番偉い人でしょう?」

「そうだな」

 フィリベールは膝掛けを握った。

「王にご引見賜るには、僕だけでなく君の功績も必要になってくる。具体的には分からないが、孤児だったとは思えないほどの成長が君に望まれる。険しい道になるだろうな」

「ジェンスがやれって言うなら頑張るよ」

「君が考えて決めてほしい。君が、何をしたいか。どんな大人になりたいか。体のことも考えて、君に一番良い道が、王に拝謁する結果に繋がるように僕が支援する」

「例えば、俺が発作なく生きたいだけって言ったら?」

「そうしたら、まずは君を治療する。治療しながら、君が他に興味の持てることを探すだろうな」

「じゃあ、ピアノが弾きたいって言ったら?」

「ピアノが弾けるように、教師を雇う。楽譜を読む練習からになるだろうが、いつか楽団にも入るくらいの支援をするだろう」

「楽団に入ったら女王様は認めてくれるかな?」

「可能性はあるだろう。でも無理に楽団に入らずとも、勉学や知識で認められることもある。やりたいことをすると良い」

 ジェンスは指を組み直す。

「王にご引見するには険しい道になる。君が本来立ち向かう必要のなかった壁に出会うこともあるだろう。それでもやってみるか?」

「ジンのためなら頑張るよ」

 フィリベールは微笑んだ。

「険しい道って言うけれど、君のそばにいるだけで十分険しいよ」

「……せめて歩ける道になるよう努力するよ」

「じゃあ、約束ね」

 フィリベールは、ジェンスに手を差し出した。その細い手を握り、約束を交わす。

「君のために僕は努力を惜しまない」

「俺は、君のために頑張ってみるよ」



 屋敷の広間に、ライラワース家を担う全ての使用人が集まる。ついでにと誘ったシャロンは、華美な椅子に腰掛けてその時を待っていた。

「皆集まっているな」

 花紺青色スマルトのコートを着込み、首元をしっかりと締めたジェンスは、フィリベールを伴ってその場に足を踏み入れた。

「今日は改めて、僕がフィリベールを連れてきた理由と、今後について君たちに知ってもらおうと思う」

 静寂が走る。

「今、社交界において『貴族が持たぬ者(孤児)に生活を与え、養うこと』が美徳とされている。僕はそれに従いフィリベールを迎え入れた」

 フィリベールは静かに周囲の反応を見ている。

「フィリベールと共に、今後多くの社交の場に出ることで他家との関係を広く築くことができるだろう。これは我がライラワース家の価値が上下する、非常に大切なことだ。君たちには今後もフィリベールを支えてもらいたい」

 ミセス・クレアを筆頭に使用人たちが頭を下げる。異論は出ない。

「過去に、孤児を拾った貴族が社会への貢献を認められ、我らが女王にご拝謁したことがある」

 ジェンスは振り返り、フィリベールを前へと促した。

「僕はフィリベールを連れ、最後には女王陛下にご拝謁願おうと思う」

 さすがにこれには、使用人も動揺を隠せない。数人のメイドは顔を見合わせた。

「有り得ない話だということは僕が一番分かっている。王にご拝謁願うなどどれほど恐れ多いことか──しかし僕らはこの道を進むと決めた」

「そのためには君たちにさらなる貢献を望まなくてはならない。今まで以上に尽くし、良き使用人であることを僕は望む。できるか」

 ミセス・クレアは腰をかがめた。

「従います、ジェンス様」

 ミセス・クレアハウスキーパーに従って、執事、メイド、コック、フットマンの少年、そしてヴィノが腰をかがめた。この家は一点を目指し、これからより纏まることだろう。

「「従います、ジェンス様」」




 使用人たちによるフィリベールへの害はなくなり、ジェンスは平穏な日々を取り戻した。フィリベールの身体にはまだ病が重く残っているが、苦しむ回数は明らかに減った。

「ジェンス様、バーナード侯爵閣下からのお手紙でございます」

「ああ」

 手紙には前と同じように孤児フィリベールへの興味と、具体的な日付付きの茶会への誘いが書かれている。

「今週末に茶会の誘いが入った。早速フィリベールを連れてこいとのご所望だ」

 フィリベールは眺めていた絵本から視線を起こし、こちらを見た。

「俺は何をしたらいい?」

「挨拶が出来ればそれで構わない」

 バーナード侯爵のことだから、物珍しさにジェンスに話を振り続けるだろう。初めて会うなら悪くない相手だとジェンスは独りごちた。

「ジン、マラークさんから手紙が来ていたりしない?」

「ヴィノ」

「はい。マラーク氏からは何も届いていません」

「だそうだ──ああ」

 ──名前を決めたら書きに来る、というのはまずいか?

 そういえば、マラークとの契約書の名前は片方フィリベールが空白のままだ。

「ちょうどいい、マラークにも会いに行こう。ヴィノ、空き日はあるか」

「ええ、二日後が空いています」

「では二日後にザ・マラークに向かう。馬車の用意をさせておけ」



 馬車に揺られ、森を抜け、街中を走る。

 ジェンスとフィリベールの出会ったザ・マラークは変わらず佇んでいた。

「いらっしゃいませ、ライラワース伯爵閣下」

 給仕の少年が奥へと案内する。最奥の戸を開ける。

「ライラワース伯爵閣下、ご無沙汰しております」

 マラークは恭しく頭を下げた。そして、フィリベールを見て微笑む。

「プラチナム、おかえり」

「……ただいま、マラークさん」

「契約書の更新に来た。彼の名前を書いていなかっただろう?」

「お待ちしておりました」

 フィリベールの契約書だ。まだひと月も経っていないのに、随分と前に書いた気がする。

 ペンを取り、丁寧に字を綴る。

「フィリベール──良い響きですね」

 フィリベールは、穏やかに微笑んだ。

「綺麗な名前でしょ」



 馬車は去っていく。窓から店を眺めていた彼は、ジェンスを振り返った。

「あまり体を外に出すと危険だ」

「ごめん、あと少しだけ」

 そうか、と呟いて外を見る。すでに、ザ・マラークは見えなくなっていた。

 白金の髪は、激しい風に吹かれ、一筋が遠くへ飛び立った。奪われてなお、その髪は美しい。まるで彼を表すかのように、強かに陽光を弾いて輝いていた。

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