プラチナム

ポルポラ

前編

 持つ者は持たぬ者に分け与えよ。それは貴族に生まれた者の使命である。

「くだらない」

 半年前、真に高貴な者はその莫大な資産を“持たぬ者”へ施してやるべきだ、と話す知識人が現れた。それは日に日に広まり、実行する貴族が現れ、今や社交界では我々も倣うべきではないかと話題になって止まない。うちの神父様もこの考えに感化されてしまい、貴族から教会や孤児への寄付金を集め始めた。


 そのおかげで街に溢れる孤児は飢えを忘れた。そもそもの数も減っている。富める者が孤児を拾い、養うことは真の美徳であり、神父や諸侯に尊敬の眼差しを向けられる。果てには王から御引見を賜った貴族もいるという。

 貴族の中では決して地位が高いと言えない伯爵家の自分は、王を拝謁する気は毛頭なかった。そこまで身の程知らずではないつもりだ。


 だが、我がライラワース家は今、いつ他の貴族に潰されてもおかしくない状態にある。父が病に伏し、まだ26であるのに伯爵位と家督を継がざるを得なかった。父の代わりにと後ろ盾を頼んでいる侯爵には、毎年金貨を支払っている。こうでもしなければ明日にも家が潰されてしまうことは想像に容易いが、安くはないその金は悩みの種にもなる。あの変人侯爵が、いつ砂漠行きのためにと要求金を増やすかもわからない。

 いつか、侯爵に頼らずともやっていけるようにせねばならない。そのためにはできる限り評判を上げて、潰しにくい状況を作らなくてはならなかった。すでに領地荘園の麦畑は成功していたが、それでもまだ足りない。



 そのような時に、孤児を引き取ったとある侯爵の噂を耳にした。その侯爵は孤児を引き取って養い、今は庭師見習いガーデナーとして雇っているという。何も持っていない孤児を育てて職を与える、その行いは称賛に値する。

 自分にも孤児を養うくらいの金はある。しかし、そんなことに使おうとは思えなかった。高価なアンティークを蒐集するのが趣味である自分にとって、余計な出資など避けるべきだった。それに自らわざわざ新しい心労を抱えるのは億劫だ。無教養の孤児を拾って、騒がれたり家具を壊されたりしたらたまったものじゃない。

 また、彼らの持つ病や汚れを一時でも家に入れるのが嫌だという貴族も多い。それが貴族にとっての問題点で、自分も悩んでいた。


 なみなみと注がれた水を飲み干し、絨毯にグラスを捨てる。もしヒビが入ろうと、気にならない程悩み疲れていた。

「ジェンス様」

「なんだ」

 従者ヴァレット、ヴィノ。グラスを拾い、ジェンスに人好きのされそうな笑顔を向けると、手紙を差し出した。

「バーナード侯爵閣下からお手紙でございます」

「置いておいてくれ」

「承知いたしました」

 長い黒髪を一つに束ね、爽やかな顔で仕事をこなす。フットマン上がりの優秀な従者だ。

 彼は自分が四歳の時から仕えていて、他とは比べられないほど互いの存在が近くにある。歳が近いことも影響のうちだろう。


「ジェンス様。お耳に入れたいことがございます」

「なんだ」

 グラスをメイドに預け、ヴィノは座っているジェンスに合わせて背をかがめた。

「マラークというパブをご存じでしょうか」

「僕が外で酒を飲むと思うか?」

 彼はジェンスの言葉を受け流し、話を続けた。

「そのパブで雇われている者は、孤児の子供だそうです」

「どこかの荘園の拾い物か?」

「いいえ、庶民の開いている店です。孤児はまだその身分にありながら、働くことでパンを得ているとか」

「ふん……」

 なぜそのような話をするのか理解ができず、書類を手に取る。これは話をやめるようにとの合図でもあったが、彼は話し続ける。

「ジェンス様。そこの孤児を多くの方々がお買い上げになられているそうです」

 他の貴族に倣って、そこで孤児を引き取って家の価値を上げようと。そういう事か。ヴィノも考えることは自分と同じようだった。


 しかし、平穏な生活を望む自分は余計なリスクを背負いたくない。家の維持をするには自分の精神状態が万全であることが前提なのに、誰の子供とも知れない孤児に振り回されて、荒らされるなんて面倒極まりなかった。

「僕は孤児など引き取るつもりはない。二度と言わないでくれ」

「……申し訳ありませんでした」

 この前のシーズンはどこの晩餐会でもその話題ばかりだった。孤児を引き取っていない自分は肩身が狭く、最後のひと月は顔を出していない。

 それほど人を飼うことは愉しいか。流行に乗ったことは気持ちがいいか。

 侯爵からの手紙にナイフを入れる。どうせ午後の茶会の誘いだ。

 ――予想通りの内容に苦笑いを零す。面倒だが仕方ない。コンソールの引き出しに手紙をしまい、コートに袖を通した。



 水曜日のバーナード侯爵家での茶会に招かれた。社交界でのみ使用する花紺青スマルトのスカーフで首元を締め、身を整えて行くと、普段使用する応接間ではなく中庭に通された。

 子爵から侯爵まで、多種多様な階級の、シーズンオフにしては数の多い貴族たちに思わず顔を顰める。夏の晩餐会とさほど変わらぬ規模に嫌な予感がした。

「やあ、ジェンス卿!――ああ、今はライラワース伯爵だったな。よく来てくれたね」

「バーナード侯爵。お招きありがとうございます」

 主催のバーナード侯爵は、ここ数年白髪が混ざり始め、その白髪に合う帽子や服を探すことを楽しんでおられる。先日は、砂漠へ行くと白髪が増えそうだ、と冗談交じりに笑っていた。

「今回は茶会と称してはいるが、私の新しいコレクションのお披露目でもあってね。一目見ていってくれ」

「そうですか。楽しみにさせていただきます」

 また砂漠にでも行ったのだろうか。あの文明の何がいいのかわからない。以前猫だと言って見せてくれたものは、どう見ても猫ではない怪物だった。


 渡されたグラスを受け取って壁際に収まる。飲み物の甘い匂いに顔を顰めていると、近くにいた子爵がこちらへと向かってきた。

「ライラワース伯爵閣下。あなたもバーナード侯爵にお誘いいただいたのですか」

 ペンドリー子爵。ルバーブの栽培で名を挙げた男爵上がりの実力者だ。僅かながら領土を持っていると聞く。白髪を美しくなめらかに整えた彼は、歳を感じさせないしっかりとした足腰で立っていた。

「どうも、ペンドリー子爵。私がお呼びいただいたのは祖父の代からのよしみにございます。ペンドリー子爵のような力は私にはございません」

「はは、ご冗談を。――侯爵閣下にお呼びいただけるなど、我らは幸せにございますな」

「ええ」

 彼は妻を連れていた。集まりの席では普通妻を伴うものだが、ジェンスにはまだ妻がいない。領主として若すぎることに加え、さらにジェンスの肩身を狭くしていた。しかし、代々親しいバーナード侯爵が主催の催しであれば、ジェンスの心労も多少まぎれるのであった。


 シャンデリアの灯りが順に消される。暗くなるにつれざわめきは静まり、灯り続けている上階へ皆が視線を向ける。

 階段の先の扉から、一人の少年を連れたバーナード侯爵が現れた。楽団の演奏が耳に馴染む。階段を降りた侯爵が礼をした。

「紳士淑女の皆様。本日は私の茶会に来てくださりありがとうございます。お話に花を咲かせる前に、こちらの少年を見ていただきたい」

 バーナード侯爵はその場に屈むと、隣に立つ少年を手で示した。まだ幼く、貴族の集まる場にはひどく場違いに見える。

「先日私が引き取った孤児のローエルです」

 侯爵の自慢げな声が響く。

 孤児。ついにあのバーナード侯爵まで孤児を養い始めた。流行に歯向かおうとしているジェンスにとってある種の絶望だったが、彼が流行好きなのはよく知っていた。

 あちらこちらから拍手が上がり、喝采に包まれる。ジェンスはこういった雰囲気が嫌いだ。しかし大切なバーナード侯爵に拍手をしないわけにもいかず、黙って称えた。


「まったく、バーナード侯爵閣下まで孤児を迎えられるとは……」

 ペンドリー子爵がため息をつく。心境を見破られたのかと驚いたが、どうやら子爵の心からの言葉のようだ。

「そうだ、ライラワース伯爵閣下は孤児をお迎えになっておりませんな?」

 この話題が一番嫌いだ。ぎこちない笑みを浮かべると、後ろにいたヴィノが咳払いをした。

「ええ。勝手が分かりませんので……」

「そうですな……実は私は、拾って使用人として雇おうかと思ったのですよ。しかし、親も家も分からないというのは、どうもやりにくい」

 彼の妻は、こちらの会話になど興味なさそうにワインを嗜んでいる。

「わかります。扱いも難しいと聞き及んでおります」

「バーナード侯爵閣下は大変勇気のあるお方でいらっしゃるようだ。アレがいつ暴れるか分からないだろうに……」

 貴族は保身が何よりも大事だ。いつ崩れるかも分からない自分の身分可愛さに新しいものを恐れ、古いものを良きとする。その点では、バーナード侯爵は貴族らしくなく、勇猛であると言えた。



 バーナード侯爵と話をしていた侯爵が去ったのを見計らい、挨拶へと赴く。侯爵は孤児の手を繋いでいた。

「バーナード侯爵、この度は大変素晴らしいことをなさいましたね」

「おお、ライラワース伯爵。どうだ、茶会は楽しんでいるか?」

「ええ、ありがたく楽しませていただいております」

 本当は嫌々だが。孤児の話題が出てから、ジェンスの機嫌は底に落ちていた。それに貴族の相手は疲れる。陰気なジェンスには、社交界自体が向いていなかった。

「それは良かった。伯爵も見ていくかね?─ほら、挨拶しなさい」

 侯爵の視線につられて、ジェンスは下を向く。小さな少年がこちらを見上げていた。

「……ライラワース伯爵閣下。ローエルと申します。この度バーナード侯爵閣下に受け入れていただきました」

 ひどく幼い、高い声が震える。怯えた様子の少年は、バーナード侯爵の手にしがみつくように握っていた。

 濃いストロベリーブロンドの髪が短く整えられ、絹の服をまとっていた。大きな黒の瞳だ、と思った時、少年はジェンスから目を逸らした。

「これは髪が伸びると美しいのだ。病のようだったから切ってしまったが、きっと数ヵ月後には綺麗になっている」

 ローエルはジェンスから隠れるように、バーナード侯爵の後ろへ回った。

「……伯爵は慎重だから、まだ孤児を迎えていないだろう?しかし君こそ孤児を迎えた方がいいと思う。評価が家の支えになることは間違いないのだからね。─君のその強ばった顔も和らぐかもしれないぞ」

 周囲の貴族が侯爵との話を待ちわびている。礼をすると、侯爵は手紙をジェンスのポケットに差し込んで、すぐに離してくれた。



 孤児とバーナード侯爵の話で溢れる場が耐えきれず、他の侯爵や伯爵が帰り始めた時に即座に茶会を後にした。

 次期領主となるために今までも多くの経験を積んできたが、相手を褒め讃えることはいつまでたっても苦手だ。例えその相手がバーナード侯爵だったとしても例外ではない。

 孤児を拾ったことは素晴らしいだろう。

 自らの私財をなげうち、持たぬ者の骨頂である孤児に与えることは美しい行為に他ならないだろう。しかしそれを褒める時に限ってジェンスの顔は強ばるのであった。

 屋敷に戻り、いつものように黙って部屋まで戻る。礼服を脱がせると、ヴィノを部屋の外へ出した。

 ――今日は疲れた。風呂にも入らず、広いベッドで背を丸めた。




「おはようございます、ジェンス様」

 天蓋の向こうからヴィノの声がする。ゆっくりと体を起こし、壁にかかった時計に目をやる。針は6時半を指していた。いつもより少し早いが、昨日早く寝たことで起床も早くなることを見越したのだろう。

「本日は、午前は書き物、午後には農園の測量を予定しておりますがいかがいたしますか」

 夏季を終え、一部の農園では収入も目処がついた時期だ。税金を定めるための測量は欠かせない。適当に取る貴族の方が大半だが、たとえ相手が庶民だろうと疎まれるのは嫌なので、三年に一度はほぼすべての土地に測量を行っている。

「予定通り行う」

「承知致しました。ジェンス様、風呂はお入りになられますか?」

 皺だらけのシャツと、ごわごわと絡まった髪がひどい。測量があるということは、他人に会うことはほぼ確実だろう。

「入る。朝食後に入れるようにしておいてくれ」

「承知致しました」

 手で髪をある程度整え、カーテンを開ける。今日も変わらず、シワひとつない執事服を着た彼は微笑んだ。

「おはようございます。マイ・ロード」



 9時には執事が仕事を持ってくる。

 普通、家督を持つ貴族は仕事をしない。仕事をせずとも使用人に任せておけば問題ないというのが貴族の共通認識だ。家を継がない次男などは例外で、だいたい教師や医者になる。

 しかし、ライラワース家は完全に使用人に任せることはしていなかった。どうやら、祖父の代にひどい不正を行った執事がいたらしい。今の執事は優秀で、父の代から変わらないが、念の為と口うるさく話す父に従ってジェンスも仕事を行っていた。

 そうは言っても、普段は重要書類に目を通し報告を受け、与える報酬金や取得する税金を決めるくらいだ。時々、領地に赴いて功績を認め、領民のやる気を維持する。これは領主のジェンスにしかできない仕事だ。


 仕事は滞りない。優秀な執事のおかげだ。しかし、ジェンスの筆は思うように進まなかった。

――昨日見た、怯えた様子の孤児。孤児は今までにも見たことがあったが、比べて随分と大人しい様子だった。

 そういえば、バーナード侯爵にいただいた手紙を読んでいなかった。

 ヴィノを呼び、礼服を持ってこさせる。胸に入った赤の手紙を開くと、“ザ・マラーク”と書かれていた。

「バーナード侯爵……」

 あの人は昔からジェンスに対して世話焼きな面がある。

『君こそ孤児を迎えた方がいいと思う。評価が家の支えになることは間違いないのだからね。─君のその強ばった顔も和らぐかもしれないぞ?』

「強ばった顔、なぁ……」

「バーナード侯爵閣下に言われたことを気にしていらっしゃるのですか?」

 ヴィノから手紙を隠すように机へしまう。彼はジェンスの顔を覗き込んで、にこにこと笑っていた。

「領主らしさがあって良いと思いますよ。まあ、ご婦人に怖がられるのは悩みですが。舞踏会の時とか、人を殺しそうな顔をしていらっしゃいますよ」

 くすくすと笑われ、眉間に皺が寄るのを感じて思わず抑える。

「侯爵閣下の仰ることも正しいと思います。ジェンス様が拾いたいと思った孤児を選べばいいと思いますよ」




 ――来て、しまった。

 馬車で一時間。この国の中心地に近い公爵領の通りにザ・マラークはあった。議会や晩餐会のある時にしかここには来たことがなかった。

 予想より洒落た店に、目を丸くする。外からも賑わっているのが見えた。庶民の店だと言うから、紛れるような服を着てきたがこれでは少し浮くかもしれない。しかし、今日以外に空いた日はないのだ。午後には仕事が入っているから、さっさと帰る必要もある。

 ため息をついてから、ドアを押し開ける。


 奥から落ち着いたピアノの音が聞こえる。落ち着いて静かな雰囲気だ。壁には小さな絵画がいくつも飾られている。

「いらっしゃいませ。おひとりですか?」

 小綺麗な男だ。歳は自分より少し上か、同じか。返事をすると奥へと誘われた。

「念の為に確認させていただきます。貴族様でいらっしゃいますね?」

 黒い瞳がジェンスを見ていた。その瞳は侯爵の拾い子に似ているようだったが、全く違うと気づく。光のない、全てを吸い込むような闇だった。

「香水の香りがしていらっしゃいます。それに紛れて、僅かに自然の香りが致します。遠方からよくいらしてくださいました」

 今日は香水を振っていない。どこから匂った?それに自然の匂いなんて、どこからわかるのか。鼻が良すぎるのではないか?そんな疑問を浮かべ男を見るが、にこやかな微笑みのみ返される。

「こちらのお席へどうぞ」

 案内されるまま、二人用の席へ座る。入口付近の席には庶民が多いが、こちらの奥側には貴族がいる。あれは男爵か。従者ヴァレットまで連れて、身分を隠すつもりが全くないように見える。


「飲み物はどうなさいますか?」

「酒以外で頼む」

「承知致しました。紅茶をお持ち致します。子供はいかが致しましょう。力のある子供、優しい子供など、好みはございますか」

 まるで商品のように言う。怪しい取引をするような気持ちになって、ひとつ咳払いをして声を潜めた。

「……とりあえず、物静かな子供を」

 男は一際にこりと微笑むと、小さく頷いた。

「承知いたしました」


 ジェンスの客席よりも奥から、ピアノの音がする。力があり、しかし軽やかで、昼前のこの時間に似合った音。

 女のようで、しかしどこか感情があり、大人の演奏と呼ぶには少し荒い。

 ジェンスの屋敷には楽器を弾く者はおらず、父や母の趣味で時折演奏家を呼ぶ程度だ。ここの音色は音の荒さが耳に引っかかるが、気にしないように意識を逸らそうと、先程の貴族を横目に見た。

 さっきまでジェンスと話していた男が、数人の子供を連れて男爵と話している。

 ああやって選ばせるのか。男爵は元気そうな少年を指さし、会話を始めた。ジェンスは興味を失い、いつの間にか目の前に置かれていた紅茶に口をつけた。


 ピアノは甘やかな音色に代わる。ジェンスは奏者を一目見ようとピアノへ目を向けた。小柄な人だ。ピアノの向こうで、プラチナ色の髪が揺れている。

「あの子が気になりますか?」

 思わず肩を震わせる。

 ――一瞬の事だった。後ろに立たれて気づかないなんて、貴族としてまずいと震えを感じた。

「あの子はプラチナム。ああ、綽名あだななのですが。髪色が綺麗な白金(プラチナ)のようだと貴族様に人気です」

「……プラチナム」

 顔はピアノに隠れて見えない。楽譜も見ずに、ピアノを弾いている。この独特な音色が、どんな人間から奏でられているのかが気になって仕方がなかった。

「後ほどお呼び致しましょうか」

「ああ。あのピアノが弾き終わったら」

「ええ。……お客様。もし、彼とお話になっても、気分を悪くされないでくださいませ」

 男はそう耳打ちすると、下がっていった。

 プラチナム。白金の子供。

 髪は短くなさそうだったが、このピアノの様子では少女ではないかもしれない。貴族に人気なのはやはりあの髪色だろうか。人気というからには、もう買い手がいるのだろう……。

 席の向かいに、ジェンスと同じ紅茶が置かれる。ピアノの演奏はいつの間にか止んでいた。


「お客様、プラチナムをお呼びしました……どうぞごゆっくり。問題があれば私に」

 そう言うと、男は1人を残し去っていった。

 肩につくか、つかない程に伸びたプラチナ色の髪。伸びた前髪から覗く、わずかに鋭さを持った目元。

「……君、本当に貴族?」

 成長を遂げていない、わずかに低い声が、ジェンスに刃向かった。



「……貴族だが」

「それにしては服が……あ、変装?」

「ああ」

 この姿で貴族だとわかるのはあの奇妙な店主だけか。そうでないと困る。

「そんな必要ないのに……ねえ、座っていい?」

「どうぞ」

 プラチナムの少年は向かいに座り、紅茶を一口飲んだ。

「君、爵位は?すごく偉い人?」

 最初から遠慮なくものを聞く……貴族社会に生きてきたジェンスにとって、こんな人間は初めてだった。孤児は貴族のように教育を受けてはいない。礼儀も知らない。それは嫌な気持ちがあれど、気楽でもあった。

「爵位は伯。わかるか?」

「……侯爵の下」

「そうだ」

「偉い?」

「……それなりに?」

「自信ないの?」

 思わず口を噤む。少年は何も気にしない様子で、紅茶をティースプーンで混ぜた。

「偉いんだ、そっか。──じゃあ誰か買いに来たの?」

「誰か、静かな子供がいればいいと思う。いなければ諦める」

 物静かでなくても、静かにできる子供なら誰だっていい。騒がしい子供は弟を思い出すから嫌いだ。

「静かな子はもう他の人が連れて行ってしまったよ」

 小さな口でカップの紅茶を飲む。僅かに低い声がなければ、少女と見間違うような風貌だった。

「ねえ、静かだけど病気を持ってたりしたらどうする?」

「──そうだな。感染症の類でなければ構わない。治すくらいの金はある……」

 感染しない病気なら、面倒を見てやっても構わない。それに家具を壊すようなことはないだろう。もし気に入りのアンティークを壊されたら、立ち直る自信がない。

 少年はジェンスのことをじっと見つめると、椅子に座り直した。


「じゃあ、お兄さん。俺はどう?」


「……え?」

 白金の下から碧眼が覗く。ジェンスの瞳と同じ色のはずなのに、それは淡く、鋭く、美しかった。

「俺。ちゃんと静かにできるよ」

「……私はまだ君のことをまったく知らない」

「知りたいの?」

「……もし、私のところに来るなら互いのことを知ることからではないか?」

 自分はまだ爵位しか話していないし、彼に至ってはピアノが弾けること以外何も知らない。

「じゃあ教えて。……歳とか」

「26」

「若い」

「もっと年寄に見えるか?」

「いや?今まで会ってきた人は51とか、64とかだったから」

「貴族はそんなものだろうな」

「ふぅん……」

「君の歳は?」

「孤児にそれを聞くの?」

「……聞いたらまずいのか?」

「親なしなんだから、何歳かなんて分かるわけないよ」

「……ああ、そうか……」

 少年の顔を見る。子供にしては背が高めで、しかも声変わりの途中だ。細く痩せているせいで歳は判別できない。


「ねえ、趣味は?」

「……アンティーク蒐集」

「あんてぃーく?」

「……古い家具のことだ」

「変な趣味だね」

「皆そう言う」

 あのバーナード侯爵なんて、何がいいのか分からないと鼻で笑ったくらいだ。こちらからすれば、彼の砂漠趣味の方が理解できない。

「君の趣味はピアノか?」

「……見てたの?」

「ああ。不思議な音を奏でるものだから目がいった」

「ピアノは好きだよ。でも、今は仕事で弾いてる。俺以外にピアノを弾ける人はいないんだ」

 骨張った指を撫で、ピアノに目をやる。ピアノは古い。音が出るのが不思議なくらいだった。

「俺はもう聞きたいことは聞いたよ。お兄さんは」

 孤児に聞けることなんて、何があるだろうか。歳も親もわからない。好きな店もないし、菓子も嗜まない。

「じゃあ、俺を買ってくれる?」

「……ひとつだけ」

 まだ聞いていないことがあった。

「君の名前は?」

「ないよ」

 少年は、虚勢を張って笑った。



 店の男が、奥の部屋から羊皮紙を出してきた。“契約書”と銘打たれたそれには、幾つか規約と金額が書かれている。伯爵家のジェンスには端金だった。

「店として、これは孤児を守るための規約です。大層なことは書いておりませんのでご安心ください」

 確かに、規約は簡単な内容ばかりだった。しかし、ジェンスは最後の文字に目が釘付けになった。

「返品可能……?」

「孤児を守るためでございます」

 捨てるくらいなら返せということか。今は皆孤児を養っているが、“持つ者は持たぬ者に分け与えよ”という今の風潮が静まれば、捨てる家が出てくるのは想像に容易い。

 孤児など、汚くて、貴族が触れるどころか踏むにも値しない存在である。これが貴族間の共通認識だ。

「買っていただけるのならば、サインを」

 ペン立てとインク壺を差し出すと、男は微笑んだ。有無を言わさぬ笑みだった。

「……再度確認させてもらう」

「構いませんよ」

 少年を指さし、彼に目線を合わせる。

「君。本当に僕でいいのか?」

 指の先の、白金の髪が動揺で震える。前髪で目は隠れていたが、孤児とは思えない美しさを持っているように見えた。

「……君こそ俺でいいの」

「何を言っている。君が自分を売り込んできたんだろう。僕は君でいいと思った」

「……それなら、うん」

「決まりだ」

 彼の言葉を同意と受け取る。羽ペンを手に取り、サインをした。

「君は明日からこの僕、ジェンス・ライラワースの拾い子だ」



 店からひとつ隣の道に呼んだ迎えの馬車に乗る。今更貴族であることを隠す必要もなかったが、呼び直すのも面倒だった。

 乾いた冷たい風が吹き付ける。雲ひとつない空には、鳥さえ飛んでいなかった。

持ってきたコートを羽織って屋敷へと帰る。帰ったらあのプラチナムの部屋を用意して、診断用の医者を用意して……家具と服も揃えなければならない。

 あと、何かいい名を神父と考えなければならない。さすがにプラチナムという名は無機物らしさが強く、良くないだろう。

 名前を考えているうちに領地の入口へ着いていた。連れ帰るのは明後日にでもしておけば良かっただろうか。そう思ったが、もう遅かった。



「お帰りなさいませ、ジェンス様」

「ヴィノ、午後と明日、僕は仕事をしない。構わないな」

「はい……はい?」

「聞こえなかったか」

「いいえ、聞こえました!午後は構いませんが、明日もですか」

「文句を言う者がいたら僕の前に連れてくるといい」

「理由をお聞きしても?」

「ああ。着いてこい、ヴィノ。今日は忙しくなるぞ」

 ヴィノは投げられたコートを受け取り、呆れた顔で奥へ向かうジェンスを追った。


「ジェンス様、服は明日の朝受け取れそうです。家具は数日かかるとの事……お医者様は呼び次第来ていただけるそうです」

「家庭教師を探しておけ」

「家庭教師なら荘園内に……ああもう、ジェンス様!さすがに明日孤児をお迎えなされるのはどうかと!」

「早い方がいいだろう。その辺で死なれても困る」

「それはそうですが……!」

 まあ、あの少年はしぶとそうだから遅くとも大丈夫だろうが。


 使用人が慌ただしく働くのを眺めながら、ジェンスは紅茶を飲んだ。神父が父へと寄越した手紙には、孤児は本当に何も知らないということがこれでもかと書かれている。暴力と言葉の危険性、学校へ通わせる際の注意、知恵を付けさせないことへの宗教的忌避……もはや、孤児を我が子のように育てろとの暗喩にしか見えない。

 父がこれに従う気かどうかは知らないが、どうやら孤児を迎えることに関心があったようだ。

 しかしこの半月、父には会っていない。どうせ会ったところで気が合わないのはわかりきっているから、このままでいい。

「──ジェンス様!」

 ヴィノの怒りの声に顔を上げる。長く思索にふけってしまったようで、部屋には座っている椅子と机しかなくなっていた。

「掃除の邪魔です」

 ……ここは彼の部屋にするのだったか。散らした手紙や書類をかき集め、廊下へ出る。神父の元へ行って名前を相談せねばならない。外で掃除をしていたフットマンを呼びつけ、馬車の準備をさせた。



 ライラワース家の朝は遅い。主のジェンスが夜遅くまで起きがちで、夜更かしした翌日は、8時まで寝ていることがしょっちゅうだ。そのため、ヴァレットのヴィノの指示で使用人の起きる時間は前後するが、それは他の貴族家に比べれば穏やかなものだった。


 昼前に馬車に乗り、バー・マラークへと向かう。朝受け取った服のうち、コートだけを持って来た。今日は冷える。午後には雪が降るかもしれない。

 街に入って三本目の通りの、焦げた色のドア。この奥で、あの子供が待っている。ここを開ければ後戻りはできない。ジェンスは揺れる気持ちを落ち着かせ、ドアハンドルを回した。後戻りなど、契約書にサインをしたあの時から、できなかった。


「いらっしゃいませ、ライラワース伯爵閣下」

 淡々と少年が告げる。案内されるまま、奥のソファ席に座った。興味深そうに周囲を見るヴィノにつられて見る。人は少ないが、今も営業しているようだった。

「ライラワース伯爵閣下。お待たせ致しました」

 昨日の男──マラークが頭を下げた。プラチナムは昨日よりも少し綺麗になっていて、服も汚れの少ないものを着ていた。彼は向かいの席に座って、黙ったまま、ジェンスとヴィノを見ている。

「こちらの書類にサインをお願いします。ちなみに、こちらの項目は彼の名前を書くところなのですが……」

「名前はないんだよな?」

 プラチナムが小さく頷く。

「決めたら書きに来る、というのはまずいか?」

「構いませんよ。では書類をお預かりします」

 書類を棚に仕舞い、鍵をかける音がする。ヴィノに馬車の用意を命じ、外へ出て行かせる。


 二人きりになると、彼は今日初めて口を開いた。

「本当に貴族なんだね」

 人見知りをしていたのだろうか。彼はきつく自分の手を握っていた。

「疑っていたのか?」

「うん。君、他の貴族より若いから」

「それはよく言われるな」

 貴族家当主は、若くても50代手前からが普通だ。父のように、生前に位を手放す者はそういなかった。それほど父の体は病に侵されていることの裏付けでもあった。

「……俺を欲しがる人なんて、いないと思ってた。君が俺を買ったことも、気の迷いだと思って……」

「ここに来たのは気の迷いだが、君を買ったのは僕が良いと思ったからだ」

「……どこが?」

「……遠慮のないところ?」

「俺に聞かないでよ」

「それと、あのピアノの音だ」

「ピアノ……ああ」

「うちにピアノがある。弾きたかったら弾くといい」

 まあ、あれはコレクションのひとつだが。まだ演奏できると前所有者が言っていた。


「そうだ。……プラチナム」

 彼を呼ぶと、小さく反応した。あだ名を呼ぶのは初めてだった。

「これを。今日は冷える」

 花紺青スマルト色のコート。金刺繍があしらわれ、家の紋章が内側に入ったもので、最初にやるにはちょうどいいと思った。

「……これは?」

「着方が分からないか?」

「わかる、わかるけど……」

「じゃあ着てやれ。それは君のものだ」

「……いいの?」

「君のために用意したから、着てくれないと困る」

 上着を着ると、様になって見えた。ライラワース家の色である花紺青スマルトは、彼にとても似合う。温かいと呟いて、彼ははにかんだ。

「本当にいいの?」

「ああ」

「ありがと……」

 店の男は、コートを着たプラチナムを見てとても驚いたが、嬉しそうに笑いかけていた。

「伯爵閣下、ありがとうございます」

「また来る」

「はい。……プラチナム、元気で」

「うん。ありがとう、マラークさん」

 紋章入りの扉が閉じられ、馬車が遠くなっていく。また一人、マラークの元から去っていく。


帰ってこないといいが……」

 マラークは苦笑いを浮かべた。



 公爵領を出て、川を越え、なだらかな丘をいくつも通り、森林を越える。プラチナムはここに来るまで、黙ったまま外を見ていた。端正な顔と白金の髪が陽に照らされ、宗教画のような美しさだった。

 話しかけるのも憚られたが、屋敷が近くなってきたのを見て重い腰をあげる。

「……プラチナム」

 声をかけるとすぐ彼はジェンスの方を向いた。それでも彼は美しいままだった。

「着いたらまず風呂に入りなさい。メイド達が洗うために待っている」

「わかった」

「服は用意してあるが、気に入らなかったら言ってくれ」

「うん」

「終わったら僕の部屋へ。ヴィノ、彼の案内は任せる」

「承知致しました」

 馬車は屋敷の前に着いた。降りたプラチナムは、周囲を驚いたように見回していたが、ヴィノに促されて浴室へと向かっていった。

 執事に上着を渡し、書斎へと向かう。机の上には、休むのをはばかる量の仕事が溜まっている。ジェンスはひとり、ため息をついた。


 報告書に目を通し、サインを書いていく。報告書の中に紛れた母からの手紙を見つけた。青い封筒に、紋章の金封蝋のそれは、間違えようがない。

 母は今、弟のグランドツアーについて行っており、国内にはいなかった。今頃現地の貴族と遊んでいるのだろう。

 ジェンスは時々奔放な母に悩まされていたが、父の厳格な性格を思うと、仕方ない気もした。母の変なところを継いで放蕩に育った弟を見ると頭痛が増すが、母を責めることはできなかった。

「お父様の診断書……」

 あれはどこへしまっただろうか。書類の山を崩し始めたところに、特徴のあるヴィノのノックが響いた。


「ジェンス様。……」

「プラチナムでいいよ」

「プラチナムを連れて来ました」

 あの少年の声だ。声変わり途中の、幼さと高さを保っているのに、どこか大人びて落ち着いた声。

「入れ」

「失礼します」


 風呂に入ったことで、少年は随分綺麗になった。汚れがとれ、膝丈のズボンからほとんど日焼けしていない肌が見える。白いシャツに淡い色のニットが合い、コートの長さがズボンとちょうどいい。あの仕立屋は優秀だったのかもしれない。

「…………似合ってない?」

「いや、悪くない……着心地は?」

「はは、“悪くない”よ。でも、ズボンは長い方が好き」

「次に買うのは長ズボンだな」

 隅に置いただけだったティーテーブルと椅子のほこりを拭う。彼を椅子に座らせると、ヴィノに紅茶を持ってくるよう命じた。


「風呂はどうだった」

「温かかった。……貴族って人に洗ってもらうの?」

「普通だろう?」

「ええ……?」

 少年の向かいに座って、伸びた前髪を触る。これは切らないといけないかもしれない。ジェンスは棚から髪留めを出すと、少年の前髪の右半分を留めた。

「君の意見を聞こうと思って待っていた」

「俺の意見」

「そうだ。このまま部屋に行って休むか、君の名前について相談するかだ」

 少年は目を丸くして、ジェンスを見た。

「名前の話はもっと後だと思ってた」

「そうしたいならそうする」

「え」

 明らかに困惑した彼を見てため息をつく。名前はいらないのかと思ったが、そうではないようだ。

「……冗談だ。早めに決めないとヴィノ達が呼び名に困る」

「う、うん、そうだよね。もう案はあるの?」

インクとペン立て、羊皮紙を机に置く。紙の中央にペンを走らせた。

「Philibert.」

「……フィリベール?」

「そうだ。由来はとある聖人の名だ」

「──ちゃんとした名前だね」

「もっと単純なものがいいか?」

「ううん。気に入ったよ。フィリベール……綺麗」

 紙をプラチナム──いや、“フィリベール”に渡すと、卓上の崩した書類をもう一度積み上げた。


「紅茶を飲んだら君の部屋を見に行こう。――フィリベールは長いから僕はフィーと呼ぶ」

「長いって……ライラワースさんがつけたんだよ?」

「ジェンスでいい」

「ジェンス」

「そう」

「長いからジンでいい?」

「十分短いだろう、嫌がらせか?」

「ううん、仕返し」

「まったく……好きに呼びなさい」


 書類を積み上げ終えると、いいタイミングでヴィノが紅茶を持ってきた。

「12時にお食事の用意ができます」

「わかった」

 紅茶をカップに入れ、ジェンスとフィーに差し出したヴィノは、一歩下がってジェンスを見守っている。

「そうだ。フィー、フォークかスプーンは使えるか?」

「スプーンなら使えるよ」

 正直意外だった、とは言わないでおく。パブで教わったのだろうか。

「そうか。ヴィノ、肉入りのスープを追加で頼んでくれ。スパイスは控えめに。時間は遅くなっても構わないと伝えてくれ」

「承知致しました。伝えてまいります」

ヴィノが部屋を出ていくのを、フィーは横目で見ていた。

「ヴィノは苦手か?」

「ああいう人、初めて見たから……分からないよ。偉い人なの?」

「ヴィノは僕の従者だ。使用人に指示を出せる立場でもある」

 貴族に直接仕える従者ヴァレットは、家の使用人よりも立場が上にある。しかし、使用人の統率者であるメイド長ハウスキーパーには頭が上がらないようだ。時折厄介事を頼まれて苦笑いをしているのを見かける。

「彼を怒らせると面倒だ。気をつけるといい」

 本当に怒らせた時は、ナイフで脅されるかもしれない。



「──孤児の話、聞きました?」

 野菜の皮を剥く若いメイドが口を開く。それを咎める者はなく、コックが返事をした。

「ジェンス様が迎え入れた孤児だろう?」

 前日に伝えられた孤児の来訪は、使用人達にとって意味不明だった。高貴な伯爵家に仕えるという名誉を大切にしている使用人達にとって、自分より遥か下位の孤児の世話をするなんてありえない話だった。

「孤児なんかのために仕事をしてるわけじゃないんだがな」

 コックはスプーンで味見をして二つの皿に盛る。この5年、欠かさず毎日行ってきた仕事だ。

 メイドはカゴを打ち付けるようにして野菜を別のメイドへ渡した。

「ジェンス様は私たちをわかっている人だと思っていました」

「ご飯もお給料も悪くないんだけどねぇ」

 キッチンを仕切るコックとメイドたちの中には、失望と不機嫌な空気が漂っていた。




 フィリベールを屋敷に招き入れてから、数日が経った。ジェンスの食事が終わってから、仕事をしつつ彼の食事を見る。最初は手を丸めて使っていたスプーンも、ようやく指で掴むようになり、様になってきたとジェンスは思う。

「ご馳走様。美味しかったよ」

 ナプキンで口を拭き、ジェンスを見つめる。ヴィノによって整えられた前髪はもう碧眼を隠していない。まだ幼さが残っているから、整いすぎた顔立ちと長い髪が彼の性別を危うくさせる。


 フィリベールのすることといえば、部屋のベッドで眠ることだった。ジェンスの指示でそうしていたが、彼が不服そうな態度をとるので時折ピアノを弾かせている。楽譜が読めないと言うから、この前は楽団の演奏会に連れて行って聞かせてみた。どうやって音を覚えたのか、帰ってからはピアノのある部屋に入り浸って音を思い出すことに熱心になっている。

「ジン?」

 書類越しに、フィリベールの顔が見える。

「――今日は何をする」

 そう問うと、彼は嬉しそうに笑って、ピアノを弾くと言った。放っておくと一日中弾いている彼の手は、いくらか頑丈になった気がした。

「部屋に火を入れよう。ヴィノ、ピアノの部屋を温めておいてくれ」

「承知しました」


 本の片付けをしていたヴィノは、頭を下げて部屋を出ていった。

「フィー、何か困っていることはないか?」

「ないよ。ピアノが弾けて、ご飯もあって、ベッドまであるもの」

 椅子を引いて正面に座った彼は、足をぱたぱたと揺らしている。仕立屋に用意させた長ズボンが温かそうだ。

「ならいい。ピアノはどうだ?あのピアノは年代物だ。壊れていたりはしないか」

「音が少しおかしいところがあるんだ。直せるのかな?」

「職人に頼む他ないだろう。……自力で直そうとしなくていい」

「わかった」

 ジェンスは、彼とどう関わったらいいか、悩んでいた。ジェンスは主人で、フィリベールは拾い子だ。彼を養子にするには歳が近い。美しいからといって、飼って愉しむような趣味はない。彼は、自分にとってどういう存在なのか。彼は自分のことをどう思っているのか。それらが口に出すものではないことはわかっている。しかし察せられるほどジェンスは器用でなく、フィリベールは素直ではないようだ。

 ヴィノに相談すると、「飼っているのだと思っていました」と言われた。彼は悪趣味なところがある。


 先日、内密に渡されたフィリベールの診断書もジェンスを悩ませていた。

 感染症はなかった。しかし彼は肺に病気を持っていた。病かと聞いたが、医者は生まれてから長いこと持っているとしか返さなかった。

『例えば、病気を持ってたりしたら、どうする?』

 おそらく、彼の言っていたことは冗談ではなく本当で、このことだ。

 今は症状がなく、薬も僅かしかないため、経過観察の状態にある。医者が薬を用意するまで、彼には静かに寝ていてほしかった。

「ねえ、しわが寄ってるよ。難しい内容なの?」

「……そうだな」

 彼にコートを着せ、背中を撫でる。他者との関わりが苦手なジェンスにとって、人懐こいフィーの性格は救いだった。そんな彼が不安そうにジェンスを見上げる度に、彼を不幸にしてはならないと強く感じるのだった。


 隅まで掃除のされた部屋に、ピアノと椅子がひとつ。紙ひとつないその部屋には静かに日が差し込んでいる。

 最初は譲り受けたコレクションから出しただけだったが、彼が病気持ちと知ってからメイドに綺麗にさせた。埃は体に良くないらしい。

 彼の骨張った細い指が始めの練習曲を奏でる。不健康に痩せ細った体は、そう簡単に良くなるものではなかった。

「フィー。何かあったら僕の書斎に来るように」

「わかった」

 彼はもうピアノに夢中だ。ドアの外にメイドを一人立たせ、時折様子を見るように言いつけた。


「ジェンス様。前当主様がお呼びです」

「わかった」

 いつも通りの唐突で勝手な呼び出しに、苦い顔になる。父に呼ばれることは珍しくなかった。ジェンスから赴くことは一切ない。それが余計、こうした突然を起こすのだろう。

 最後に呼びつけられたのはいつだったか。ここまで長く呼ばれないことは久しぶりだった。理由はおそらく、越冬前の多忙さだ。越冬前はどうしてもやることが増える。そのことを父は身をもって知っていた。

「用件は聞いているか?」

「いえ……おそらく、孤児のことかと」

 いつかは聞いてくるだろうとは思っていた。どうせ、メイドか執事が話題に出したのだ。

「ヴィノ、お前も来い。……僕だけでは厄介なことになるかもしれない」

「承知致しました」

 父とは反りが合わない。弟がいなくなってから、ジェンスと父はことある事に言い争いを繰り返していた。

 おそらく今回も、フィリベールの扱いで揉めるに違いないのだ。

 襟を詰め、靴紐を結び直させ、上着の埃を取らせる。父は若い当主をまだ認めていないから、こうして格好を整えて突っかかられないようにするのだ。

 つい溜め息が漏れたが、ヴィノは聞こえなかった振りをしてくれた。


 天蓋付きのベッドに、静かな呼吸の音。カーテンは開かれて、部屋へと光を差し込んでいる。ベッドのそばに立ち、父を見下ろした。目を閉じていても威圧を持った顔だとジェンスは思う。

「お父様。ジェンスです」

「――ジェンス」

 相変わらず不機嫌そうな声音だ。ベッドの上は暇で仕方ないのだろうが、今日も安静を強いられているようだ。

 体調が良い時は家族でディナーを行うが、ジェンスが議会でいなかった数ヶ月には、一度も行われなかったと聞いた。


「……越冬は。できそうか」

「ええ。滞りなく進んでおります。今年は寒さが増すと他の貴族が言うため、例年より多めの藁と薪を用意させています」

「ああ……」

 ヴィノはドアの前に立ち、ジェンスの退路を絶っている。しっかり話をしてください、と言いたそうな目線を向けている。

 ジェンスの目を、父の窪んだ眼が見た。

「孤児を、拾ったと聞いた……」

「はい。15歳程の男子を迎えました」

「名は」

「フィリベール。神父と相談し、聖人フィリポから名を頂きました」

 荘園に暮らす神父とは、日曜の最低限の関わりに留めている。元々自分は他の者のように信仰に篤くなく、粗雑にしがちだ。それでも人の名前を決めるとなると、神父に許可を得なければ良くないことになりそうで、馬車で赴いて相談をした。

「15とは……歳が高い……」

 父はジェンスとは反対で信心深い。神父の決めたことに文句はいわないが、ジェンスの決めたことには文句を煩く言う。

「静かな子どもだったので。しつけの必要が少なく、悪くないと思います」

「今度、会いに行こう……お前がどんな孤児を選んだのか……お前の、当主としての力量も」

 床に伏せっていても、鋭い眼光は衰えを知らない。ジェンスを射抜き、満足すると目を閉じた。



 仕事ばかりの書斎に戻る。埃の被った本棚を掃除しておくようヴィノに言いつけ、椅子に深く座る。父は予想よりも、孤児について口を出さなかった。

 気疲れして天井の模様を眺めていると、遠くからフィリベールのピアノの音が聞こえる。


 ──随分と音を思い出したようだ。主旋律に伴奏が加わり、あの楽団の張りのある演奏を思い浮かばせる。

 彼が望むなら家庭教師をつけて、マナーを学ばせよう。まだ廊下を走ってしまうところはあるし、人懐っこいのはいいことだが他人との距離感を間違えがちだ。言葉も上流発音に直さなければならない。

 学校へ通うのは、マナーを身につけて健康な体を得てからだ。ジェンスは彼を元孤児だとは言わせないくらいの教養をつけさせるつもりでいた。彼と話すのは楽しく、学ばせることでより会話が楽しめるだろうと想像した。



 日が暮れる頃には、ジェンスの仕事に区切りがつく。控えめなノックが響き、使用人が食事の連絡をしに来た。今日はフィリベールと共に食事をしよう。ジェンスの料理を分けてやれば、あの子も少しは肉がつくかもしれない。

 廊下にジェンスとヴィノの足音だけが聞こえる。昼過ぎには使用人は下の階での仕事が中心になるため、上階は静かだった。

 ピアノを置いた部屋。もう暗いのに、カーテンを開けたまま外を眺めるフィリベールがいた。

「フィー」

「──ジン?」

 後ろ手にドアを閉め、ジェンスとフィリベールの二人きりになる。

「そろそろ夕食ができる。今夜は二人で食べよう」

「うん」

 どこか元気のない様子に、ジェンスは何を言ったらいいかわからなかった。昼前は元気だったが、なにかあったのだろうか。


「フィー。何かあったのか?」

 夕食時、羊肉にナイフを入れながらジェンスはやっと問うことができた。しかし、彼は首を振って、

「何もないよ」

 と、どう聞いても誤魔化しにしか聞こえない言葉しか返さない。

 ジェンスは会話が苦手だった。どう聞いたら彼が答えてくれるかなんてわからない。ましてや、ジェンスとフィリベールが共に過ごし始めてから、まださほど経っていない。壁があって当然だった。


 フィリベールを部屋に送って、しばらく経った。湯あみを終えナイトガウンのまま仕事を続けていたジェンスは、室内で控えていたヴィノに声をかけた。

「ヴィノ。今日はフィーの元気がなかった」

「……そうですか」

「様子を見に行こうと思う。……これはやりすぎか?」

「……」

 ヴィノはこちらの表情を伺ってから、ため息をついた。

「ジェンス様がそうなさりたいなら、なさるのが良いかと思います。彼だって貴方様を拒みはしませんよ」

 ヴィノは、燭台を用意してジェンスに差し出した。

「むしろ悦ぶのでは?そういったことはしっかり断ってくださいね」

 もう咎めるのも疲れた。フィリベールに関して話をすると、ヴィノは普段よりも意地が悪くなる。あのニヒルな笑みはジェンスに直接悪口を言う時と同じだ。

黙って燭台を受け取り、部屋を後にする。壁掛けの燭台に照らされた廊下は静まり返っていた。


 ジェンスの部屋からは遠く、2階にある彼の部屋。見張りに置いていたはずのメイドはいないようだった。

 控えめにノックを2回。

「フィー。起きているか?」

 返事はない。静かだったが、部屋の明かりがついている。

「入るぞ」

 ドアハンドルを握り、回す。思わぬ冷気にジェンスは立ち止まった。

 部屋が冷えている。夕方に使用人に温めさせたはずが、その気配を微塵も感じさせないほどの冷気に染まっている。

「げほっ、は、ひゅ」

 ベッドから苦しそうな喘ぎが聞こえ、慌てて駆け寄る。

「フィー!」

「は、ぅ、げほっげほっ!」

 背を丸めて激しく咳き込むフィリベールがいた。


「フィー、わかるか?」

 震える彼を自身に抱き寄せ、背中を撫でる。彼の体は冷えていて、声をかけても目の焦点が合わない。激しい咳と呼吸ができていない様子から、病気の発作だろうことは想像できたが、薬は今手元になく、ジェンスの部屋に置いたままだ。せめて彼の部屋に置いておくべきだった。

「僕の部屋まで少し頑張るんだ、いいね」

 急いで彼を抱き上げ、部屋への道を駆け足で歩く。苦しそうに咳き込む様子がやるせない。

「ヴィノ!!」

 飛び込むように部屋に入ると、ジェンスのベッドに寝かせた。

「机の右の引き出しの中に紙袋がある!それと水を持ってきてくれ!」

「は、はい!」

 顔色が悪くなってきたことに背筋の凍る思いがする。いつからこうして咳き込んでいたのだろうか。どうしてあの部屋は冷えていたのか。

 騒ぎに気付いて駆けつけた執事に医者を呼ばせる。ヴィノの持ってきた薬を出すと、震える彼の口に含ませる。

「水をあげるから、頑張って飲むんだ。飲めば楽になる」

 コップの水を口に入れ、彼へ口移しする。少量の水と共に飲み込むのを見守って、震える小さな背を撫でた。




「……呼吸器系の発作です。ひどい咳で、喉も肺も傷付いていますから数日は安静にしてくださいませ」

 薬と医者の注射によって、ある程度落ち着いたフィリベールの汗を拭う。温かく整えられたジェンスの部屋で、彼はまだ苦しそうな表情をしていた。

「何をしたら、発作は起きないようになる」

「……発作というのは、些細なことで起きるものです。気候の変化、ストレス、風邪の悪化、など。彼が過ごしやすい環境を作っていただくことこそが唯一の対策かと思います」

 どれも心当たりがあるような気がして、ジェンスは眉間を抑える。部屋は寒く、彼はまだこの環境に慣れておらず、今日は元気がなかった。彼にとって悪い状況だったことは明白だ。

「薬は今お使いになっているものを発作時に摂取してくださいませ。今のように、呼吸が苦しい時にもお使いください。しかし1日に3回まででございます」

「わかった。遅くに悪かったな」

 彼は屋敷に住み込んでいた父の主治医だった。呼吸器には詳しくなかったが、それでも処置をしてくれたことは幸いだった。

 フィリベールの体を観た医者は、少し離れたところに住んでいる。手頃で詳しい医者をまた抱える必要がありそうだ。

「ジェンス様のお頼みでしたら、いつでも構いませんよ。また数時間後に様子を見に参ります」

「ああ」


 静かに過ごせるように、室内にはヴィノと医者しか入らないように指示をする。ジェンスはフィリベールが呼吸していることを確かめて、緊張の糸が緩む心地がした。

「ジェンス様、少しお休みになられてください」

 書類を勝手に片付け、ペンのインクを拭き取る。

「いや、まだ仕事をする」

 制止したが、ヴィノは片付けの手を止めない。机の上を綺麗に整えると、ジェンスを見た。

「もう日も変わりましたから。お休みください」

 有無を言わさない笑顔にジェンスは口を閉ざす。

「起きていらっしゃる分には私は何も申し上げませんので。ハーブティーでも用意いたしましょうか?」

「……ああ」

「承知致しました。持ってまいりますね」

 ドアが静かに閉じられる。フィリベールの苦しそうな呼吸がジェンスの耳へ届く。

自分は彼の病気を甘く見ていたかもしれない。ジェンスはため息をついた。


 彼は年に合わないくらい元気で、生意気なところがあった。こんな状態になることを全く想像できないくらい、普段の彼は今と乖離していた。

 小さく咳き込むのを見て、急いで背中を撫でる。ジェンスの服を握る手が震えている。

「フィー……」

 上からそっと包みこむように握る。手はまだ冷えていたが、肌色は正しく戻りつつあった。

「……寒くはないか?」

 彼は小さく頷く。フィリベールの手を取り、指先を温めるように撫でる。肉の薄いこの指が、温まるように。できる限りの苦しみを取り除くように。ぎゅうと握られて、指先にキスを落とすと彼は動揺して、また咳き込んでしまった。


「……ハーブティーをお持ちしました。あと、こちらは彼にと思い、白湯を用意いたしました」

「気が利くな」

「ジェンス様の従者ヴァレットですから」

 ヴィノは寝台から離れ、席で自分に茶を用意している。風に乗ってオレンジが香った。

 握った手がくいくいと引かれたのに気付き、フィリベールに目を向ける。

「……ああ、湯か?」

 頷いたのを見て、彼を抱き起こす。痩せて骨ばった肩を支える度に、不憫に思える。痛めないように優しく抱え、口にカップを当てて少しずつ湯を飲ませる。咳き込むこともなく、カップの半分を飲んだ彼は口を離した。


「フィー。医者の話は聞いていたか?」

「……ううん」

 掠れた声が返ってきて、そうかと返す。

「薬と注射を使った。今も苦しいだろうが、数時間後にもう一度注射を打ったら落ち着くと言っていた」

 放ったままだった薬を彼に見せてから、袋にしまう。

「もし落ち着いても数日……そうだな。三日は寝ていなさい。喉と肺が痛いだろう」

「うん……」

 ベッドに寝かせ、布団越しに背中を撫でる。フィリベールは再び、震える手でジェンスの手を握った。怯えと不安のせめぎ合う表情に、ジェンスは再び唇を落とした。




「ジェンス様、おはようございます。お目覚めですか」

 天蓋のカーテンは閉じたままだ。ヴィノに背を向けるように寝返りを打つ。反対側で眠るフィリベールを見て、ジェンスは昨晩のことを想起した。

 彼の呼吸は、随分と穏やかだった。まるで昨晩のことは夢だったかのように見える。しかし、時々聞こえる異音が、夢ではないことを裏付けた。

「…………本日はお休みの予定です。三十分後に朝食のご用意ができますので、それまで何かお申し付けがあれば私に」

 フィリベールを起こさないように静かに起き上がる。布団が擦れる音さえ控えて、彼を見守る。表情は変わらない。ひと息つくと、ジェンスは長い前髪を後ろへとかきあげた。

「ヴィノ」

 厚い紺青のカーテンを開ける。

 いつものように執事服を身にまとい、長い黒髪を纏めた彼は、ジェンスをまっすぐ見ていた。

「フィリベールの診断をした医者に電報を送ってくれ。発作を起こしたから診てほしい、それだけでいい」



 部屋に運ばせた朝食を口にする。フィリベールの様子を見守るために部屋へと持って来させたが、匂いで起こしてしまう可能性を失念していた。

 ベッドで布の擦れる音がする。中からふらふらと出てきた彼は、ジェンスの姿を見てカーテンの中へと戻ってしまった。その不可解な行動に、ジェンスは席を立った。

「フィー?」

 カーテンを捲る。ベッドの中に潜った彼は、顔だけを出してこちらを見ていた。

「…………」

「おはよう」

「……おはよう」

「起きられるなら朝食にしよう」

 ベッドを離れようとするが、彼に袖を握られて立ち止まる。

「ジェンス」

「……」

 振り返ると、フィリベールの碧眼が揺れる。彼は俯くと、迷った顔をしてから呟いた。

「……なんでも、ない」

「そうか」


 起きているのが辛そうな彼の背に、柔らかなクッションを挟んで支え、粥を食べさせる。昔ジェンスが寝込んだ時は、ヴィノやメイドにこうしてもらったものだった。

孤児だった彼は多くの量を食べられないようだった。お腹が空いている時でも、二皿目で限界を迎える。

「無理して食べきらなくていい」

 念の為に言ってみたが、お腹が空いていたようで、ひと粒残さず食べきった。満腹そうだから二皿目は見せないでおく。彼は出された料理をすべて、無理をしてでも食べようとする悪いところがあった。


「今日はここでおとなしく寝ていなさい」

 布団をめくり、彼に掛ける。肩まで隠すと、ジェンスは彼の前髪を優しく退けた。

「──ジンは、今日は何をするの?」

 彼がジェンスの予定を聞いてくるのは初めてだった。

「今日は休みだ。使用人の様子を見て回って、あとは君の様子を見ているくらいだな」

 フィリベールの部屋を暖めるように伝えた使用人と、見張りの使用人。それが誰だったかを把握し、ジェンスの指示に従ったか問いただす必要がある。従っていれば、フィリベールはここまでひどい発作に襲われることはなかったかもしれない。彼らへの怒りが胸奥で燻っている。

「あの……後で話を聞いてくれる?」

 彼は顔を僅かに布団に隠し、ジェンスを伺い見た。

 普段は執拗いくらいに話しかけてくるのに、変なところで思い悩む。前者は不器用なジェンスにとって利点であったが、後者は難点だった。

「わかった。……今はひとりでも大丈夫か?」

「眠るまで、部屋にいて」

「ああ」


 優しく頭を撫でる。柔らかいプラチナ色の髪が、ジェンスの手を伝って流れていく。

「……ジンは、俺の髪、好き?」

 穏やかな表情がこちらを見ている。彼の類まれな美しさに加えて、心の純真さには洗われるような気持ちになる。

 滑らかな布を撫でるように、彼の髪を梳く。ああ、と返事をすると、彼は嬉しそうに目を細めた。

「綺麗な髪だと思う」

「──よかった」

 安心したように微笑んで、とろりと瞼を閉じる。寝息を立て始めるまでに、ほんの少しもかからなかった。




「まあ、ジェンス様。ここにいらっしゃるのは珍しいですね」

 使用人屋敷。ジェンスの屋敷の裏に立っており、二階建ての小さなものだ。使用人のものとはいえ、屋敷に負けないくらい清潔に保たれている。

 椅子に座っていたメイドは、ジェンスの来訪を見て立ち上がった。深い緑色のドレスに、簡素なエプロンをつけた女性。髪を巻いた彼女は、ジェンスが生まれる前からこの家に仕えているメイドで、今は使用人の統率を務めるメイド長ハウスキーパーを兼ねている。


「ミセス・クレア。所用があるんだ。一時間以内にメイドを全員集められるか?」

「承知いたしました。……何がありましたの?」

「昨日メイドに指示を出したのだが、従わなかった者がいたようだ。……貴女の指示ではないだろうな?」

 彼女は困ったような顔を浮かべ、頬に手を当てた。

「申し訳ないのですが、存じ上げませんわ。どんなご指示をお出されに?」

「フィリベールの部屋を暖めること、そして彼の部屋の番をすることだ。同じメイドか他のメイドかはわからん」

「……フィリベール様の、ですか」

 ミセス・クレアは小さくため息をついてから、ジェンスに礼をした。

「フィリベール様は皆でお支えするように伝えましたが、足りなかったのでしょう。私の指導不行き届きにございます。申し訳ございません」

 うちライラワースのメイドは優秀だと思っていたが、数日前まで孤児だった少年に優しくすることはできないようだ。


 持つ者は持たざる者に分け与えよ。これは貴族としての責任を問う言葉だ。

 メイド達も、働き口があるだけで「持つ者」ではないかとジェンスは思うが、彼女たちは自分が「持たざる者」である、という認識のようだった。持たない者同士で与え合うことは不可能だ。ジェンスはため息をついた。

「そうか。一時間後にまた来るから、集めておいてくれ」

「承知いたしました」

 ミセス・クレアは優しいから、他者に下に見られてしまいがちだ。しかし彼女ほど仕事のできるメイドはいないだろう。そのミセス・クレアでも、今回の件に関わっているのなら処罰を受けてもらうつもりでいたが、その心配は必要なさそうだった。



 フィリベールの様子を見に部屋へ戻る。静かに戸を開けると、ヴィノがメモを持って待っていた。

「ジェンス様」

「何かあったか」

「医者からの電報です。晩になる前には来られると申しております」

「わかった」

 昨晩の疲れを癒すように、静かに眠る少年を妨げないよう顔色を確認して距離をとる。


「彼、随分落ち着きましたね」

 ヴィノが紅茶を注ぐのを見てソファに座る。その紅茶はジェンスの前に差し出された。机の中央にはビスケットが並べられている。甘いものを好まないジェンスは、砂糖がほとんど入っていないものを用意させている。口に放ると、バターが香った。

「薬を用意していたということは、彼の病気についてご存知だったのですか?」

「医者から聞いていた。しかしここまでとは思わなかった」

「死んでしまうかと思いましたよ」

 否定も肯定もしない。もしジェンスがあの時部屋を訪れなければ、彼は死んでいたかもしれない。彼の命は、薄氷の上にある。

「彼は、どうなさるのですか?」

「すべては体が良くなってからだ。治ったら家庭教師でも付ける」

「つまり、彼を追い出す気はないと」


 ヴィノは自分のカップへと紅茶を淹れる。湯気が溢れて消えていく。

普段の物怖じしない落ち着いた声音で、あまりにも当然のように言うから、理解が遅れた。

「──今、なんと言った?」

「彼を追い出す気はございませんか、と申し上げました」

「ヴィノ……!」

 思わず声を荒らげる。彼が孤児を拾えと言ったのに、気に入らなければ追い出すのか。

「私はジェンス様のことを案じたまでです。彼の薬代、医者代は安くはないでしょう。彼が倒れるたびに貴方様の心労も増すばかりでは?そこまでしてやる価値が彼にありますか?」


 ヴィノの言うことは間違ってはいない。薬は高く、医者を家に抱えるのは高い。どう考えても孤児に払える金ではない。彼にその価値があるかも分からない。

 しかし、彼に生きる理由はあるだろう。もし彼が寒い場所で苦しんでいるなら手を差し伸べてやりたい。彼は笑顔が似合う。

 その庇護欲は、アンティークに感じるものと似ていて、しかしそれらよりも熱を帯びていた。フィリベールはジェンスを求めている。アンティークに他の居場所はあれど、フィリベールにはジェンスしかいない。その事実がよりジェンスを掻き立てる。

「……理由ならあるさ」

 それは利己的エゴイズムなものだが。

「それは多くの資金を使ってもいいと納得できる理由ですか」

「さてな。少なくとも僕のアンティーク蒐集よりは有益だろう」

「彼は貴方にとって趣味と同じなのですか?」

「趣味に使っていた金を彼の治療に回すだけだ。彼を養うことは家のため、彼の体を治すのは僕の勝手、ということだ。──まだ文句があるか?」

 ヴィノが黙ったのを見て勝利を確信した。つい勢いで趣味分の金を回すと言ってしまったが、アンティークほどの金は彼にはかからない。問題はない。

 腰を上げて仕事の書類に手をつける。ヴィノは黙ってジェンスの手伝いを始めた。




 陽は高く、南東に登っている。

 最近は晴れの日が多く、今日も洗濯物が乾いた風に吹かれている。使用人屋敷に入るとミセス・クレアが待っていた。

「ナニー以外のメイドを全員集めました。ナニーはシャロン様お付きでございますので、お許しください」

「ありがとう、ミセス・クレア。忙しい中悪かった」

「いいえ、滅相もございません。お気遣い感謝致します」

 使用人部屋サーヴァント・ホールの戸を開ける。四人のメイドが頭を下げていた。

「左からメアリー、エミリー、アン、ルイーズでございます」

 ライラワース家では、地位の低い順にそう呼ぶことが決まっている。メアリーの名の者は新人に等しく、ルイーズの名の者は経験豊富だ。

「昨日の午後に休んでいた者は?」

「いませんわ」


 ミセス・クレア以外のメイドの顔など覚えていない。ジェンスはクレアの差し出した椅子に座り、足を組んだ。

「昨夜のことは知っているな?ルイーズ、答えなさい」

 深紅のドレスの彼女は、頭を下げたまま答える。

「はい。当主様の拾い子が持病の発作を起こした件でございますか」

「そうだ。その原因のひとつが君たちに関係がある。僕は昨日、メイドの一人にフィリベールの部屋を温めるよう指示をした。しかし深夜に彼の部屋を訪れたところ、温められてはいなかった」

 いつ雪が降ってもおかしくないくらい寒いこの時期に、冷えきった部屋に彼を置いてしまった。メイドの失態は大きい。ジェンスの鋭い目がさらに細くなる。

「そして僕は彼の部屋を見張るようにも伝えたはずだが、これも守られていなかったように見受けられる」

 メアリーが強ばった顔で息を飲む。ジェンスには表情が怖い自覚があったが、威厳でもあるため緩める気はなかった。


「さて、理由や言い訳があるなら聞こうか」


 メイドたちの顔を見る。こうして見るとそれぞれ全く違うのだが、普段の生活ではそれを目に留めることはない。誰が誰でも同じだとジェンスは思う。

 ミセス・クレアがメイドを変えたと教えてきても、誰が変わったのか分からないから全てのメイドに同じように指示をする。今まで黙って従っていたのに、今回背かれたことはジェンスに僅かな驚きをもたらした。

「と、当主様、私、見張りを仰せつかった者にございます」

 全員の視線がエミリーに向く。背の高いエミリーは深く頭を下げると、下げたまま言葉を発した。

「拾い子の様子に気づかず、私は蝋燭の手入れをしながら部屋の戸を見張っておりました。まさか、このような事態になるとは思わず……!」

 エミリーに冷や汗が伝う。ジェンスが部屋を訪れた時、蝋燭の手入れのために部屋を離れていた。彼女が事態に気がついたのは、既にジェンスに事が伝わり執事が急いで医者のところへと向かっている時だった。


 メイドの仕事は寝る時間も惜しいくらい忙しい。それに加え、主人より遅く寝て、早く起きなければならない。睡眠時間も労働時間も足りない。それなのに孤児の世話まで増えて、静かに部屋を見張る余裕なんてなかった。

「……君たちが忙しいのは僕も理解しているつもりだ。次命じることがあれば一度中を覗くように」

 次がある。つまり、今回は許された。エミリーは胸を撫で下ろした。

「承知致しました」

 使用人は主人からの信頼が一番大切だ。信頼に足らず、もし解雇されてしまえば、話が貴族間に広まり、使用人として働くことは難しくなる。主人からいただく紹介状の内容も期待できなくなるだろう。

 エミリーには、主人の孤児に対する接し方はおかしいように見えた。まるで自分の兄弟かのように優しく接している。あの孤児は何をして主人に取り入ったのだろうか。他者を好まない主人から、寵愛を受ける理由がわからなかった。


「さて。部屋を温めろという命令を受けた者は誰だ」

 ジェンスにとってはこちらの方が問題だった。部屋を温めるのは速さを求める仕事だ。指示をすればすぐ行うものだが、それを怠ったということは、何か理由があるのだろう。エミリーのように忙しかったならさしたる問題ではないが、仕事内容に不満があったとしたら問いただす必要がある。

 どのメイドも名乗り出ない。ジェンスはため息をつく。さっさと見つけて処分を下したかったが、そう簡単にはいかないようだった。

「少し、よろしいですか?」

 ミセス・クレアがジェンスを見つめる。

 彼女には昨夜は何も指示していない。彼女はジェンスが幼い頃からこの家に仕えている上、メイド長ハウスキーパーとしてこの屋敷を任せているから顔や名前を覚えて当然だ。彼女にはジェンスが覚える価値がある。

 ジェンスとは違い、彼女はメイドの一人ひとりを把握している。毎日指示をしているのも彼女だった。

「任せる。好きにしていい」

「ありがとうございます」

 彼女の温和な笑みは、あの趣味の悪いヴィノでさえも丸くし、抵抗力を削ぐ。こうして犯人探しをするには、ジェンスよりも彼女の方が適している。

 ミセス・クレアはメイド達の方を向くと、アンと目線を合わせた。

「アン。ここ数日の貴女はいつも苛立っているように見えましてよ?」

「お仕事が増えたので忙しいだけですわ」

「フィリベール様のご影響かしら」

「仕方のないことですから」

「そう……ごめんなさいね」

 アンは淡々と返す。クレアはそれ以上を追求せずに会話を終え、ルイーズの方を見た。

「ルイーズ、貴女は昨日、いくつかお仕事を残してしまいましたね?」

「申し訳ございません」

 彼女は口で謝罪を述べたが、謝る態度を見せない。隠す気のない反抗心が見て取れた。ミセス・クレアは慣れているのか指摘はしなかった。

「何をしていらしたの?」

 質問にルイーズが返事をしないのを見たクレアは問い詰める。

「私、貴女がフィリベール様のお部屋に入っていくところを見ていましたのよ」


 ──使用人屋敷を訪ねる二十分前に、ジェンスは執事に使用人の動向を聞いていた。クレアは昨夜、執事の手伝いをしていたそうだ。

 屋敷とは別にある使用人屋敷にいた彼女が、フィリベールの部屋に行けるはずがない。これはブラフだ。しかしそれに気づかないルイーズは震えた。

「……あの孤児が悪いのですわ。生意気で、人を敬うことも知らない、汚い……」

 ジェンスは片眉を上げる。聞き捨てならない言葉が聞こえた。

「どうせ泥水でも啜って生きてきたんでしょう。お食事をいただけるだけで幸せなのですから、暖かい部屋なんてありえない話にございますわ」

 ルイーズは引きつった笑みを浮かべる。ジェンスはため息をつくと、組んでいた足を解した。

「フィリベールは体が弱いんだ。皆、彼に優しくしてやってくれると助かる」

 頷いたのはミセス・クレアと左端のメアリーのみだった。再びため息をつき、ジェンスはルイーズを見た。彼女がいては、今後のメイドの動きに影響を与えるだろう。地位の低いメアリーだったならまだしも、彼女はルイーズだ。他のメイドに指示をすることもできるだろう。フィリベールが過ごしにくい屋敷にされては困る。説得をする時間を取るのは面倒だった。

「ルイーズ。今日の仕事はもういい。──明日までに出ていく支度をしなさい。ミセス・クレア。彼女の残りのことは任せる」

「承知致しました」

 他人を解雇するのはまだ二回目だ。慣れていないが、フィリベールの今後を思えば、彼女はいない方が良い。


 彼女の紹介状を書く仕事が増えてしまった。ジェンスは乱雑に頭を掻く。

 フィリベールのためとはいえ、長く仕えてくれていただろうルイーズを解雇するのは、僅かに心が痛んだ。



 部屋に戻ると、ヴィノが仕事の続きを行っていた。ジェンスが戻ってきたのに気付くと、書類を持って入れ替わるように部屋を後にした。彼にも仕事がある。ジェンスは静かに戸を閉めた。

 ベッドに目を移す。フィリベールは、落ち着いた様子で窓の向こうの空を眺めていた。鳥が羽ばたき、室内に影が落ちる。今日のような秋晴れの空を飛ぶのはさぞ心地がいいだろう。

「体調は?」

「……今は、大丈夫」

「そうか」


 ベッドに腰掛け、フィリベールを見つめる。しばらく彼は空を眺めていたが、ジェンスが見つめているのに気がついてこちらを見た。

「用事は、終わったの?」

「ああ」

 彼は緩慢な動きで体をジェンスの方へと向け、ふぅ、と小さく息をつく。朝よりも調子が良さそうな顔色だ。

 しかし、彼の表情は曇りを浮かべていた。驚かさないように、ゆっくりと頭へと手を伸ばす。彼の髪は何度触れても手触りがいい。彼は思い詰めたような顔でジェンスを見つめていた。


 朝に言っていた「話」というのは彼にとっては話しにくいもののように見えた。朝には話を迷っていたし、今はどこか上の空だ。ジェンスは待つのは好きではないが、他者を焦らせることが得策ではないのは充分わかっていた。

「あ、あのね……」

 震える声が、ジェンスの耳に届く。

 彼の細く柔い声は、ひとつ間違えれば切ってしまいそうだ。続きを待っていると、フィリベールは毛布を握りしめた。

「俺のこと、捨てる……?」

 こんなにも弱々しい声なのに、はっきりと聞こえてしまった。捨てるなんて、ありえない話にジェンスは思わず目を丸くした。フィリベールは意を決したように続ける。

「ジェンスは、もし病気でも治すって言ってくれた。でも、俺の病気は、治らないからっ……君も、わかってる、でしょ?……っう、ぐ、げほっげほっ!!」

 激しく咳き込み始めた彼を抱き起こし、自分へと寄りかからせる。

「我慢するな。ゆっくり呼吸するんだ……焦らなくていい」

 彼の目から涙が零れる。昨夜からの咳のしすぎで引きつった喉から苦しい音が溢れる。次第に落ち着き、ぐったりと彼がもたれて来るのを支えた。

「その調子だ……苦しいな」

「はー……ひゅ……は……」

 フィリベールの手を握る。彼は何とか呼吸を取り戻し、ジェンスの手を握り返した。しっとりと汗で湿っていたが、気にならなかった。

「焦らなくても僕は最後まで君の話を聞く」

 呼吸をしようと胸がゆっくり上下する。フィリベールが寄りかかる重みと温かさに、胸の奥が満たされる心地がした。



 呼吸が落ち着いてから、さめざめと泣いているフィリベールの涙を拭うが、一向に止まる気がしない。呼吸が苦しくなると教えても泣き止まないから、背中から支えたまま彼の手を握っていた。

 先程の話をしたいが、彼が落ち着いてからの方がいいだろうか。ジェンスはゆっくりと彼の頭を撫でた。涙で湿った横髪を彼の耳に掛け、ゆっくりと撫でてやる。髪からは石鹸の香りがした。油は使っていないのだろうか。この綺麗な髪を、油を使わず保てているのは羨ましいと思う。

「けほっ、けほ」

 咳につられて彼の体が震える。再びぐったりとジェンスに体を預けると、不安そうに彼は目を伏せた。


 思えば、発作を起こしてから彼は不安そうな顔ばかりしている。時折穏やかな表情もしているが、すぐに影が差してしまう。

 ジェンスはそっとフィリベールを抱き寄せると、囁くように口を開いた。

「フィーは、何が好きだ?ピアノが好きなのは知っている」

 彼はゆっくりと目を開くと、ジェンスの顔を伺った。目線が合って、ふいと顔を逸らされてしまう。彼はジェンスの手を柔らかく握った。

「……話すのが、好き」

「そうか……では、今日から毎晩話をしよう」

 夜ならいくらでも時間を取れる。彼の体調を見守ることも考えるとちょうどいい。

 しかし、彼は驚いたように目を丸くした。

「毎晩……?」

「嫌か?」

「嫌じゃ、ない」

 彼は困惑した顔でジェンスを見上げた。

「俺を、捨てないの……?」

 この子はまだ分からないのか。


 ──いいや、彼にははっきり言わないと分からない。10年以上付き添ってきたヴィノや妹とは違うのだ。言わなくても察せる、察してもらえる、それは普通のことではない。いくつもの会話を経てようやく得るものだ。

 いつか、そんなことを聞かなくてもわかるように何度でも彼へ教えよう。

「捨てない。僕から君を手放すことは、絶対にない」

 彼を本当に好ましく思っていること。拾ったあの日を後悔していないこと。たとえ病気が治らなくても、最後まで彼を支えること。

「俺の病気は治らないよ……けほ、ずっと薬が必要だし、何回も倒れるかも。それなのに、捨てないの?」

「ああ」

「……わからないよ。君って変な人だ」

 フィリベールは俯く。

「お金はかかるし、手間もかかって良いことなんてないのに、俺を置いてくれるの?」

「君を捨てるよりマシだ。君は僕のそばにいて、毎日元気な姿を見せてくれればいい」

「…………」


 ジェンスの飾り気のない言葉が、フィリベールの気持ちを楽にする。整った言葉よりも、正直な言葉の方が彼には伝わりやすかった。

「フィー。僕は君を捨てない。君が僕を嫌になったり、成長して独り立ちしたくなったりする日まで、君は僕のものだ」

 あまりにも優しい囁き。言葉は淡々としていても、教えるような穏やかな口調が落ち着く。抱きしめられた体が温かい。

「……君の、もの」

 フィリベールはジェンスを見上げる。同じ碧色の目が合った。

「もうわかったか?」

 表情から不安が消え去り、ほんのりと朱を乗せた頬を撫でる。彼はおずおずと手をジェンスの手に重ね、柔和な笑みを浮かべた。




(どうしよう、どうしよう……!)

 ジェンスが用事で部屋を出た後。

 部屋には誰もいないのに、ベッドに隠れて顔を隠す。高揚して滅茶苦茶になった感情の様子は、一斉に開く花のよう。

(この気持ちを、この幸せを、誰かに話してしまいたい……マラークさん、バーのみんな……)

 ベッドから外を覗く。穏やかな日の差した、高級な青の天蓋と柔らかい枕に、暖炉で火花の散る音。

(ああ、ここはジンの家だった……!)

 枕に顔を沈める。急に動いたせいで咳が出たが、フィリベールの顔は興奮で微かに赤らんでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る