7月9日

 亮を起こしてから仕事に行こうかな。起こさないといつまで寝てるかわかんないし。休んでるけど、ある程度は規則正しい生活してた方がいいもんね。


「亮、朝だよー。私、仕事に行っちゃうよー」

「……ん…」


 あれ?いつもはすぐ起きるのに。今日はなかなか起きないぞ。夜更ししたのかな?


「おーい、起きてよ。私そろそろ行くからね?いいのー?」


 なかなか起きない亮に声をかけながら何回も体を揺さぶると、ようやく目を開けてくれた。


「やっと起きたね。寝坊助さん、おはよう!」

「え、ねぼすけさん??え、ってか誰??」


 きょとんとした顔でこちらを見ている。まだ夢の中にいるんだろうか。


「えー、寝ぼけてるの?」

「…いや、君は誰、なの?」


 はい?誰って何言ってんの?


「な、なになに、朝から奥さんをからかってるのかなぁ?」

「…奥さん?」


 どうやら寝ぼけているようでも、ふざけているようでもないようだ。…だとすると、亮はどうしたんだろうか。


「えーと、まさか自分の名前がわかんない。なんて言わないよね?」

「名前……わかんないね」

「え、え、嘘でしょ?朝からドッキリしかけてるの?もうやめてよー」

「そうじゃない。本当にわからない」

「じゃあ、私が誰なのかも?」

「うん。奥さんって言ってたけど、そうなの?」


 嘘を言っているようには見えない。でも、でも、そうだとしたら……。


「…記憶喪失って事?」

「そういう事に、なるのかな」


 いや、そんな事あるわけないじゃん。そんな事なんてさ。


「あなたの名前は『亮』。私は『美穂』。私達は夫婦なんだよ。何か思い出さない?」

「どっちの名前にも聞き覚えがないし、君の顔にも見覚えがない」

「じゃ、じゃあ、起きる前の事は何か覚えてる?」

「夢を見てた気はするけど、他には何も」

「……ごめん、しつこいようだけどドッキリではないんだよね?」

「残念ながら」


 少しの間もなく即答されてしまった。


「そうだったら良かったよ……」

「…だろうね」


 顔も体型はもちろん、着ているパジャマも全部含めていつも通りの亮なのに、どこか違う人みたいに感じる。…信じたくはないけど記憶喪失というのは本当なんだろう。でも、どうして?


「とりあえず病院、かな」


 身近になった人なんていないし、こんなのどこを受診すればいいんだろう。…とりあえず、前に検査した病院に行ってみようか。



「健忘症の一種でしょう。いわゆる、記憶喪失ですね」


 朝からの亮との会話を振り返る限り、それ以外は考えられなかった。でも、他の人に言われて改めて実際に起きている事なんだと思い知らされた。


 …これは想像してた通り。わかっていた事でしょ。だから、今後の事を聞かないと。いつ、元に戻ってくれるのか。


「僕の記憶は元に戻るんですか?」


 なかなかな私が聞けないでいると亮が聞いてくれた。自分のことだし、本人も気になっているんだろう。


「それはなんとも言えませんね。すぐに元に戻る可能性もあれば、しばらく戻らない可能性もあります」


「しばらく……。何が原因でこうなったんでしょうか?」


「亮さんの場合、原因の特定は難しいですね。例えば、命の危険を感じるような事故にあったとか、忘れたいほどショックな事が起きた、という事でもあれば、それが原因となって発症するという事もあります」


 そう言われて亮がこっちを見る。何かそういう事でもあったのかと言いたいんだろう。


「少し前から休職していて、家にいる事が多かったので事故にあうような事はないはずです。ただ、ショックな事も含め、私が仕事に行ってる間の事は亮から言われない限りわかりません。何かあっても、心配かけまいと黙っていたりとか。でも、昨日までいつもと変わりなかったし、思い当たる事はないですね」

「あくまでも原因の一つとしての話です。ですので、奥様もそうだと思い込まないようにして下さいね。最近は心療内科を受診されてましたし、精神的なものが原因かもしれませんしね」

「それだって何でなのか、本人もわかってなかったんですよ」

「ひとまず、焦らずに様子を見てみましょう」


『様子を見る』

それしかないだろう。それぐらいはわかる。でも、それはそれで『何も出来る事はない』と言われているようだ。


 話を終え、退室時に窓の外が目に入った。雲がほとんどない快晴だ。それなりに暑いだろう。それでも普段なら天気がいいと気分があがるのに。今はそんな外の青空に無性に腹が立った。



 いつも一緒にいようと結婚した人と、いつも一緒に過ごしている家にいる。……のに、今日は違う家にいるみたいだ。


「あの、美穂さん」

「そんな呼び方しないでよ。同い年なんだし、夫婦なんだから。そんな他人みたいに…」


 呼ばないでほしい。


「あ、ごめん。あのさ、昨日までの事を教えてくれないかな?」

「…焦らなくていいんじゃない?先生もそう言ってたでしょ?」

「そうなんだけど、やっぱり気になるんだ。それに早く元に戻ったほうがいいでしょ?」

「それはそうだけど。…んー、ごめん。ちょっとまだ気持ちの整理ができてないんだ」

「あ、ごめん」

「そんな何回も謝らないでよ。別に亮が悪いわけじゃないんだし。とりあえず、これでも見ててよ」


 結婚した頃からの写真が入っているアルバムを渡して寝室に移動した。


 …何か思い出す事があればいいけど。


 ベッドに寝転ぶと、どっと疲れが押し寄せてきた。今日は朝から大変だった。その一言ですませていいものかとは思うけど、その一言に尽きる。


 記憶喪失、かぁ。そういう言葉があるのは知ってるし、そういうことがあるってのは知ってる。でも、まさか私たちになんて思うわけないじゃん。物語じゃないんだし。写真見てたら元に戻ったなんて事ないかなぁ。…そんな都合いい事ないよねぇ。寝てる間になんかあったのかな?壁に頭をぶつけたとか?そんな事あれば気づ…かないかも。うーん、これからどうしたらいいんだろ。私にできる事ってなにかある?亮には気持ちの整理なんて言ったけど、こんなのすぐには無理だね、うん。はぁ……。


 リビングに戻ってみると、亮は先程渡したアルバムを見ていた。一枚一枚確かめるようにゆっくり見ているようだ。


「まだ見てたんだね。どう?何か見覚えのあるものでもあった?」


 期待しているような回答は返ってこない。そうわかっていても聞かずにはいられなかった。


「全然ないね。いくら見ていても、自分と美穂しかわからない。…本当に結婚してるってのはわかった」

「そうだよー。まだ新婚って言ってもいいくらいだよ。結婚までは長かったけどね」

「…こんな事になるなんて、記憶を失う前の自分も思ってもいなかっただろうね」

「そりゃそうだよ。普通に暮らしてて、昨日の今日で突然こうなるなんて言われても信じないよね。私だってまだ信じられないし、信じたくないし」

「それに関しては本当にごめんとしか言いようがない……」

「だから、謝らなくていいって、あ、私が謝らせてるのか。こっちこそごめん。いきなり知らないとこで、知らない人と話してんだもん。亮の方が大変だよね」

「……まぁ、どっちも大変だね」


 それはそうだけど、このままなのはよくないね。………よし!


「じゃあ、終わり!」

「え?」


 突然の終わり宣言に、亮がぽかんとしている。


「なっちゃったものは仕方ない!そのうち元に戻るよ。だから、しんみりすんのは終わり!謝んのも終わりって事!わかった?」

「え?あ、うん」


 多分、納得はしてないよね。言ってる自分だってだいぶ強引だって思いながら言ったし。でも、こうでもしないとやってられないじゃない。こんな非現実的な状況。


「ちょっと、アルバム貸して」


 結婚式、亮の家族、私の家族の写真を説明しながら見せていく。


 すぐに元に戻るなんて期待しない。覚えてもらう。もう、そういうつもりでいよう。その方が気が楽だ。


 そんな気持ちが伝わったのか、自分でも記憶を戻そうと思っているのか、亮は真剣に見て、聞いてくれている。


「ここには私と付き合ってからの写真しかないけど、亮の実家に行けばもっと古いのがあるはずだよ」

「実家…。じゃあこの人たちもいるんだよね?」

「そうだよ。あ、次の休みにでも行ってみようか?」

「行ってみる」

「記憶がすぐに戻るならあとでもいいんだろうけど、どうなるかわからないままでずっと言わないってわけにいかないし、報告がてらって事で。親と話したり、長く住んでいた家に行けば、何か思い出すかもしれないしね」

「そうだといいな」


 本当にそれ、そうだといい。……あ。


「んー、どうしよ」


 紙袋が目に入って、こっちが忘れていた事を思い出した。


 それどころじゃなかったからなー。すっかり忘れてたよ。大事な事なんだけど今言うべき?うーん…。


「どうしたの?」

「こんな状況で言うのはどうかと思うんだけど…」

「うん?」

「実は今日、亮の誕生日なんだよね」


 見つけた紙袋の中から何冊かの本をだしてテーブルの上に並べた。数日前にようやく、シリーズで出ていたものを全て買い集める事ができた。


「そうなんだ。全く覚えにはない事だけど」

「でしょうね。でも、誕生日に欲しいって言われてたものだからこれあげるよ」


 今の亮に渡しても興味はないかもしれないけど、亮は亮だし、約束は約束だから。それに結構苦労して買ったんだから読んでもらわないと!

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