4月

 夕方くらいから体調が悪くなって、いつもより少し早く退社させてもらった。自宅の最寄り駅を出たところで「お疲れ!」と美穂に声をかけられた。普段は帰る時間が別々なので一緒になるのは珍しい事だ。


「珍しく今日は早いんだね」

「おう…お疲れ…」

「どうしたの?なんか顔色悪くない?」

「ちょっと、体調悪くてな…」

「風邪でもひいたのかな?」

「わかんないけど……風邪じゃないと思う。ど、動悸っていうのかな。それが会社でキツくなってきて、ね。ふぅー」

「動悸?」

「心臓がドキドキ、してるっていうのかな。とりあえず、息苦しいん、だよね」

「それ、なんかヤバくない?」

「ね。そう、思う。はぁ」

「い、家まで歩けそう?」

「多分、ね。でも、ちょうどいいから肩貸して」


 正直、こうして会話をしているのもキツい。呼吸をする事に全力を使っている。大げさかもしれないが、気を抜くと死んでしまいそうな気がする。駅から家までは普段なら徒歩10分程度。いつもならどうってことのない距離なのに、今日はとても長く感じる。たまたま美穂に会えて良かった。会えてなかったら、歩いては帰れなかったかもしれない。


 結局家に着くまで30分近くもかかってしまった。そんな状態だったのに、家に入ると動悸が嘘のように治まった。


「え、芝居だったの?」

「そんなわけないだろ。…そう思われても仕方ないけど」

「…だよね。そうは見えなかったし」

「治まったのはいいんだけど、なんだったんだろ」

「いちゃつきたかったから、とか?」

「…そんなわけないだろ」


 ……なんだったんだ?




『めまいがひどくて、仕事なんないから帰ってきた』


 メールを送信してベッドに横になると、すぐに着信音が鳴った。


『なにそれ。病院行ったの?』

『行ってない。横になってたら良くなってきたし、様子見る』

『じゃあ、ちゃんと休んでなよ!』

『そうするー』


 だいぶひどかった目眩はだいぶ治まってきた。それでもやっぱり体調が悪かったんだろう。ベッドに横になっていたらすぐに眠くなってきた。もう家に帰ってきたんだ。それに抗う必要はない。美穂が帰ってくるまで眠ろう。




「最近、体調悪くなる事が多い気がする」

「あー、めまいとか?」

「うん。先々週だったか、帰りが一緒になった日あったでしょ?」

「ん?すごく甘えたようになってた日かな」

「いや、まぁ、違うんだけど。とにかくあんな感じになる事がさ、ちょくちょくあるんだよね。すぐ治まるんだけど、息苦しいから焦るしさ」

「私はそうなったことないけど、苦しくなるのは怖いなぁ」

「たいしたことないと思ってたんだけど、続くとちょっとね」

「なんかの病気なのかなぁ?」

「やっぱそうなのかな。病院行ったほうがいいかなぁ」

「次の土曜日、一緒にいこっか」

「……考えとく」

「ダメ。行くよ」

「………」




 土曜日。結局、美穂に押し切られる形で病院に連れて行かれて検査を受ける事になった。何もわからずに急にポックリというのも困る。どうせだからはっきりさせとこう。


「どうでした…かね?」

「そうですね。仰ってた症状を基に検査しましたが、特に異常は見られませんでした」

「あんなに苦しくなったり、めまいもしていたのに?」


 そんな馬鹿な。じゃあ、あれは何だったんだ?


 続く言葉を出せない自分の代わりに、美穂が続けた。


「病気じゃないにしても、貧血とかそういうのは?」

「それもないようです。数値を見る限りでは、健康そのものですね」


 美穂が信じられないといった表情をしている。多分自分もしているだろう。


「……最近、何かストレスに感じるような事はありませんでしたか?」


 ん?ストレス?


「いえ、特に思い当たる事はありませんけど」

「そうですか。まぁ、私の専門ではないのですがストレスが原因でそういった症状が出ることもあると聞いたことがあります。もう少し症状が続くようであれば、心療内科も受診してみる事を考えてみてはどうでしょう?もしかしたら、自覚がないだけで何か感じている事があるのかもしれません」

「そう、ですか。様子を見ながら考えてみます」


 正直、検査結果には納得がいかない。でも、隣で「絶対ヤブだ」と言わんばかりの顔をしている美穂を見ていると、もういいかなと思えてきた。とりあえず、悪いところがなかったというのがわかったんだし。




「……んん、あれ?」


 いつか見たような白い天井だ。確か…病院だな。


「目が覚めた?仕事中に倒れたんだって」

「あー、うっすら覚えてる」


 …確か、会議中に息苦しくなって…


「電話にでたらさ、聞き覚えのある会社でさ、亮が倒れたって言われてびっくりしたよ」

「仕事中にごめんね」

「いいんだよ、早く帰れたしね。あ、先生にはね、疲れてたんじゃないかって言われたよ」

「そっか…疲れかぁ」

「目が覚めたら帰っていいような話だったけど、とりあえず先生呼んでくるね」


 疲れてたと言われても、そのまま受け入れられない。もちろん、それ以外の原因に思い当たる事はない。けど、どうしても納得できない。…次もなんかあったら、心療内科に行ってみたほうがいいだろうか?




「今日は会社を休む事にするよ」

「風邪ってわけではなさそうだよね?」

「そうだね。違うと思う。いつものって言い方も変だけど、いつものめまいだね。座ってる分にはいいんだけど、立って歩くのがキツイんだ。会社には行けそうにない」

「私も休もうかな。一緒に病院行こうか?」


 病院か。今までの結果を考えるとなぁ。美穂に休んでもらってまでなんて行く意味あるのかな。あ、でも…


「そうしてもらえると助かるな。今日は違う病院に行こうと思うんだ」

「違うとこ?」

「ほら、前に言われた診療内科だったかな。いつものとこ行っても何も変わらなさそうだし」



 来たことがない病院だからだろうか。今日は病院でも動悸や目眩がしている。


 前に受けた検査結果の内容と、今まで自分の身に起きたことを先生と共有して初めて病名らしきものを言われた。


「いわゆる、パニック障害だと思われます」

「はい?パニック障害?ってなんですか、それ」


 美穂と顔を見合わすが、美穂もわからないようだ。


「例えば、今のように動悸がしているとどうですか?」

「苦しい、ですけど」

「そうですよね。では、何度かなってみて、これ以上は危ないんじゃないかって思った事はありませんか?」

「…大げさかもしれませんが、死ぬかもって思った事はあります」

「そういう不安に襲われると症状としてでてくるんです。外に出るとまた苦しくなるかもしれない。だから外に出れなくなるなんて事もあります」

「いや、そもそもの動悸がするようになった原因がわかんないんですけど…」

「そうですね、例えばですが……」


 先生の説明を聞いてはいる。聞いてはいるけど内容が全然頭に入ってこない。


 …心が弱いとかそういう問題、なのか?いやいやいや、なんでだよ…。




 診察を受けてから一週間。良くも悪くも体調に変わりない。ほぼ毎日、動悸や目眩がする。少し症状が軽い時には出社しているけど、仕事にならない日の方が多い。症状に名前がついたので「パニック障害みたいです」と上司に報告したら、「やっぱりか」みたいな反応だった。以前にも誰かなっていたんだろう。知ってたんなら教えてほしかったけど、憶測で言うわけにはいかないのかもしれない。


「休職しようかなと思ってる」

「やっぱり、仕事が原因なのかな?」

「それはわからないな。仕事内容は合ってると思うんだよね。人間関係に悩むほど嫌な奴がいるってわけでもないし。会社で仕事する事っていうよりは外にいるってだけでキツいんだよね。家にいる時はわりと大丈夫だし」

「じゃあ、しばらくは家で休んでみる感じだね」

「うん。最初は在宅での仕事も考えてたんだけど、しっかり休んでみようかなって」

「そっか。それで亮が元気になれるならそれがいいよ!」

「そうだね」

「でも焦らないでね?」

「うん、ゆっくりする。ありがとね」


 働けなくなった旦那なんてどう思われるかと心配してたけど、見放さないでいてくれるみたいだな。それだけで本当にありがたい。本当に助かる。美穂の為にもしっかり治して復帰したいな。




「もうすぐ亮の誕生日じゃん。何が欲しい?」

「あっ、そうだったな。すっかり忘れてたわ」

「はぁ?自分の誕生日なのに忘れる?」

「ほら、最近ずっと家にいるからさ、日付とか曜日の感覚があまりなくて…。それに俺のより美穂の誕生日の方が大事だし」

「それは!そうだけど!」

「やっぱ、そうなんだ…」

「そうだよ!私はね、好きな人にお祝いされたいんだよ!でも、今はそうじゃなくて!亮のだよ!何がいい?」

「え、えー、そんな急に言われてもなぁ」


 美穂のテンションについていけないでいると、どんどんと畳み掛けてくる。


「お酒?服?ゲーム?パソコン?家電?」


 特に欲しいものなんてないんだよなぁ。んー、あ。


「あ、じゃあ、あれにしよう」

「なになに?」

「こないだ見た映画あるじゃん?あれのさー、原作小説が読みたい。何冊か出てるみたいなんだけど、映画になってないとこが気になるんだよねぇ」

「あの宇宙のやつ?」

「そう、それ!」

「そんなのでいいの?じゃあ、本屋で買うよりネットで買えばいいかなぁ」

「そのあたりは美穂さんにお任せでーす」


 ま、貰えるものなら貰おうかな。自分でも買えるだろうけど。

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