2015年

3月

「ただいまぁ」

「……………」


 いつもなら「おかえり」って声が聞こえてくるのに、今日は聞こえてこない。寝るにはまだ早い時間だし、テレビにでも夢中になっているのだろう。リビングに入るドアを開けてから、もう一度「ただいま」と声をかけた。


「お?遅かったね。おかえりー」


 今度は返事をしてくれたけど、予想通りにテレビを見ていて、こっちを見てくれなかった。今日はそんなに面白い番組でもやっていたのだろうか。


「そう?飲みに行ったわりには早いと思うんだけど。まだ22時前だよ?」

「あ、まだそんな時間?」

「遅かったと言うわりには時間気にしてなかったんだな…」

「うーん?」


 おいおい、どんだけ夢中なんだよ…。


「なぁ、美穂。ちょっと聞いてくれ」

「ん、聞いてるよー」


 ほんとかよ。…まぁいいか。


「次の木曜日、何の日かわかるよな?」

「うん?」

「おいしいものでも食べに行きたいなって思ってんだよね」

「んん?まだ先の話じゃん。明日とか明後日とか、もっと早くても嬉しいんだけど?」

「まぁ、それもそうなんだけど。ほら、その日は…き、記念日だろ?」


 この手の話題は昔から苦手だ。でも、体に残っている酒の力を借りてなんとか絞り出してみた。その甲斐があってか、ようやくテレビからこちらに顔を向けてくれた。その顔は少し意地悪そうに見えたが。


「覚えてたんだ?どうせ忘れてるんだろうなーって思ってたよ。亮って、そういうの苦手だしさ」

「ひどいなぁ。苦手なのは否定しないけど…。さすがに今回のは忘れないよ。つーか、美穂のほうこそ、忘れてたんじゃないの?」

「は?そんなわけないじゃん!」


 怒ったようにも聞こえたけど、嬉しそうな顔をしている。…こっちは真っ赤な顔をしているだろう。


「いいところ、予約してよね?」

「はいはい」



「待ち合わせは駅前でいいんだよね?」

「うん。20時に予約したから19時半くらいかな」

「そうだね。それくらいなら間に合うでしょ」


 今日は約束していた木曜日。大事な記念日ではあるんだけど、二人とも普通に仕事だ。


「あーぁ、今日が休みだったら良かったのにな」

「お?そんなふうに思ってくれてたの?ふーん、亮がねぇ」


 美穂の顔が意地悪そうに微笑んでいる。思っていた事をそのまま言葉にしてしまったのは失敗だったかもしれない。


「そうだよ。美穂の事をまだまだ愛してるからね!」

「あ、朝から何言ってるの?!バカじゃないの、もう!」


 かなり恥ずかしい気持ちをこらえて言っただけあって、どうやら少しは効いたようだ。美穂の顔が赤くなっているように見える。まぁ、いつも通りこっちも赤くなっているだろうけど。


「じゃ、じゃあ、行ってくるね!」

「あ、こら!言い逃げかっ!」


 そう思われても仕方ないが、


「いや、そろそろ出ないと本当にまずいんだって!」

「え、そう?じゃあ、いってらっしゃい」

「うん、先行くね。美穂もいってらっしゃい」

「うん。いってきます」


 一緒に出勤できればいいのにな。どうせ赤くなるのは一緒だし、それも口にだしてみればよかったかな。



「おいしかった、よね?」


 でてきた料理も酒も美味しかったし、店員も店の雰囲気も良かった。いろいろ調べて予約までした自分を褒めてやりたい。なのに確認するように聞いてしまったのは、店にいる間の美穂の反応が思ってたより悪かったように見えたのだ。


 何か嫌いなものでもでてきたっけ?


「ん?おいしかったよ!」

「本当?それなら良いんだけど。なんか静かだったから、少し心配だったんだよね」

「食べながら、おいしいねって言ってたでしょ。まぁ、普段見ないような料理だったし、値段が高そうな店だったから大人しくしてたっていうか。実際に結構支払いすごかったし!」

「そうだったの?」

「そうだよ!隣で騒いで写真撮りまくる女とか嫌でしょ?」

「確かに嫌だけど、美穂ならやりかねないかな、と」

「は?!やらないよっ!」


 話している感じからすると本当みたいだ。良かった。これでボロクソに文句言われてたら、しばらく立ち直れなかった。あの店にしておいて本当に良かった。お財布には厳しいけど。


「また行きたいな。連れてってくれるよね?」

「んー、今日みたいに大人しくしてるならいいけど」

「だから、私をなんだと思ってるの?!」

「いえ、別に。普通の奥さんです」

「はぁ?!もういい!今度は誕生日に連れてってよ!」

「いいんですけど、それって割とすぐだと思うんですけど?」

「…連れてってくれないの?」


 急に声のトーンを変えて、腕を組んで目を合わせてきた。美穂の顔は少し赤みを帯びている。


「はいはい、連れてきますよー」

「よし!約束だからね!」


 三月も下旬ともなると日中は暖かいんだが、まだ夜は少し肌寒く感じる。今の状態は恥ずかしんだけど、せっかく組んだ腕はそのままにして歩いていく。


「さて、明日…も仕事だ…し、帰ら…ない、とね」


 ん?


 ついさっきまで普通に話せていたのに、うまく話せない。酔いが回ってきたのだろうか。


「どうしたの?酔ったの?」

「そ、そうかも…」

「そんなに飲んだっけ?」

「飲んで、ないと思う…けど、なんか…力…入んなくなってきた。なんか気持ち悪い……」

「大丈夫?タクシー止めよっか?」


 心配そうな顔でこちらを見ているのはわかる。でも、そんな美穂の顔がぐるぐる回っている。周りの背景もぐるぐる回って見える。自分はまっすぐ立っているのか、座っているのかもわからなってきた。徐々に視界が狭くなっていった。


「ちょっと、亮?!大丈……」


 近くで聞こえる美穂の声が途切れて、目の前が真っ暗になった。



 真っ白な天井で目が覚めた。見覚えのないライトがついている。


「あれ?ここ、家じゃないよな?」

「亮!起きたの?!」


 視界が美穂の顔でいっぱいになった。


「ここどこ?どうしたの?」

「…病院だよ」


 え?病院?


「何で病院にいんの?」

「覚えてないの?タクシーに乗る前に倒れちゃったんだよ!」


 ん?そうだっけ?


「ごめん。腕を組んで歩いてたのは覚えてるんだけど、その後の事はわからないや」

「酔ったみたいだからってタクシーで帰ろうとしたんだよ?でもさ、タクシーに乗せてみたら顔が白くなってて震えてたし、汗がすごくてさ。運転手さんは急性アルコール中毒じゃないかって言うし。あんな亮を見た事なかったから、怖くなって病院に連れてきたんだよ」

「そっか、心配かけたね。で、なんだったの?俺」

「それが、ね…」


 まさか何か悪い病気でも見つかったのだろうか。美穂がなかなか言い出さない。


「え、何?俺、けっこうヤバいの?…え、癌とかそんな感じ?」

「あ、あー確かにヤバい事はヤバいかな」

「なんだったの?お、教えてよ」

「…そのね、別になんともないって」

「は?」

「何も異常はないって!ちょっと飲みすぎただけだろうって!」

「あー、そりゃヤバい。恥ずかしいやつだわ…」

「ほんとだよっ!もうっ!」


 数分後、部屋にやってきた先生に改めて状態を聞いて「お酒には注意を」と言われた。帰る頃にはだいぶ遅い時間になっていて、明日の事も考えてタクシーで病院を後にした。


「なんともなくて良かったよ。でも、不思議だよね。今日はそんなに飲んでなかったよね?」

「多分いつも飲むのと同じくらい。もしかしたら、度数が高かったのかもね」

「あ、それか年なんじゃない?」

「…おや、美穂さんも同い年でしたよね?」


 自分で放ったのに、しまった!という顔をしている。


 …バカめ。でも、そうかもしれないし、お酒には気をつけよう。

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